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第23講 死んでも生きる復活の命への希望の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第23講:死んでも生きる復活の命への希望の言葉 (ヨハネ11章1~27節、2012年8月12日)


【今週のキーワード:復活の命】

 主イエスが復活されたことは、やがてわたしたちも死を打ち破って復活し、永遠の命に 生きる者となることの保証です。しかしその信仰は、悩み苦しむ自分を立ち上がらせる力 の源になっているでしょうか。死とは身体的な死だけではなく、精神的な死、生きていく 中での苦しみを象徴したものでもあります。そこでわたしたちは、大なり小なり色々な死 を繰り返しながら毎日を生きています。そうして悲観し、絶望しながら生きる中で小さな 死を繰り返すわたしたちに、主イエスは「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きて いてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と約束してくださったのでし た。それは苦しむ今、希望と力を与え、心うち沈む今、立ち上がらせていく、現在の復 活です。わたしたちは、わたしたちの死を打ち破られた復活の主の命によって、新しい命 に生きる者とされました。復活というのは、過去の昔話でも、将来の希望にすぎないと いうのでもなくて、すでに今与えられ、現にそこに生かされている、新しい命のことなの です。復活とは、起き上がるという言葉です。そのとおりに、わたしたちが毎日新しく起 き上がらせられていくこと、それが復活です。そしてこの小さな復活は、日々に与えられ ていくものであり、それによってわたしたちは毎日新しく立ち上げられながら、終わりの 日の復活を待ち望みつつ、今日の戦いを戦い抜いていくように支えられていくのです。


1.新しい命に生きる者とされた主の復活

わたしたちが信条において「三日目によみがえり」と告白することは、主イエスが死か ら復活されたことであって、蘇生ではありません。臨死体験をしたとか、気絶していたの が息を吹き返したというのではなく、主イエスは本当に「死んだ」のです。そしてそこか ら「本当に主は復活し」たのでした(ルカ24章34節)。「三日目」のよみがえりは、そ れが蘇生ではなかったことを明らかにします。地上での働きの中で主は死者を生き返らせ ましたが(ルカ7章11~15節、8章40~56節、ヨハネ11章)、そうした奇跡とも違いま す。なぜならそこで生き返らされたヤイロの娘やラザロは再び死んだからです。彼らは死 から呼び戻されたにすぎませんでした。しかし「死者の中から復活させられたキリストは もはや死ぬことがない」のです(ローマ6章9節)。ですから単なる「死からの生還」 ということでもありません。一度死んで朽ち果て腐り始めた体が、全く新しくされ、新し い生命を与えられたのです。こうして「イエスはただ一度限り死を通り抜け、そのようにして死を克服したのです。彼は永遠の命へと復活しました」1。主イエスの心と体の全体 は「死」におとしめられ、陰府の極みまで達して、事実死にました。しかしこのように完 全に死んだ主イエスが、心と体を全く一新されてよみがえられたのが復活です。こうして 復活された主の体は幻影や幻覚ではありませんでした。それはたしかに触れることができ る生身の体であり(ヨハネ20章27節、ルカ24章39節)、焼いた魚を目の前で食した体で した(ルカ24章43節)。そして四十日にわたって繰り返し弟子たちに現れたことによっ て(使徒1章3節)、その復活が一時のハプニングにすぎないものではなく、たしかなも のであることをも明らかにされました。


 しかしまた同時にそれは、もはやかつての肉体では起こりえない不思議さを兼ね備えた 体でもありました。主は弟子たちの目の前で突然姿を消したのであり(ルカ24章31 節)、鍵のかかった部屋の真ん中に突然姿を現されました(ヨハネ20章19、26節、ルカ 24章36節)。さらには五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました(1コリント15章6 節)。ですからその体は、たしかに十字架にかかられた体そのものであると同時に、復 活によって全く新しい体とされたものでありました。元の体が命を取り戻して蘇生したと いうことではなく、「霊の体」となって復活されたということであり、朽ちるもの・卑し いもの・弱いものから、朽ちないもの・輝かしいもの・力強いものへと復活されたので した(1コリント15章42~49節)。そしてこのように「この朽ちるべきものが朽ちない ものを着、この死ぬべきものが死なないものを着」たということが、主イエスの体による 復活でした(同53、54節)。「復活は、この世にある墓の中で起こっているが、それは この世から来るべき世に向けての奇跡であった。かつて死者をイエスが生き返らせた奇跡 は、再びこの世に生きるようにと生かされたのであるが、イエスの復活は、再びこの世の 秩序の中に生きるためでなく、朽ちざる永遠の御国の秩序に属するにふさわしい霊の体 によみがえらされた出来事だった」のでした2。それは「墓に葬られた朽ちゆくはずの遺 体が、朽ちざる栄光の体へと復活した」ということであり、「それは、キリストに在る 者たちが終末の日によみがえる初穂としての出来事だった」のでした3。つまりそれはわ たしたちもかつての自分自身でありつつ、同時に全く新しい自分へと変えられていくとい うことの保証となることでした。「それはまた、人類史のただ中で終末的出来事の先取 りが起こったのであり、朽ちゆく今の世界のただ中で朽ちざる者としての復活が起こっ た」ということなのでした4。復活、「それは死の克服であり、滅び行くすべての時間的 な実存の救済であり、永遠の生命、すなわち救われた生命の突然の出現」でした5。それ が意味することは、「私たちが本来の救いをすでに受け取ったということ、私たちは救 いをもはや私たちの先にではなく、後ろから、つまり背後に持っているということです。私たちは私たちの主が勝ち取られた勝利から生き、そしてまさしくそのようにしてこの勝 利の最終的な成就を目指して生きて」いるのです6。こうしてわたしたちは、「復活者の 光の中に立っている」のであり、「新しい永遠の生命の輝きの中に常に新しく自分を立て る」ことができるのです7。


 そこでもし主が本当によみがえらなかったら、わたしたちの信仰はむなしいとパウロは 断言しました(1コリント15章14~19節)。それでは「今もなお罪の中にあることにな る」からです。主イエスの十字架は復活がなければ無意味です。それがどれほど崇高な犠 牲的死であったとしても、犬死にすぎないからです。主イエスは復活されたからこそ、十 字架による罪の贖いが効力を発揮するのであり、復活なしの十字架はむなしく無意味な 出来事です。この復活という事実にこそ、わたしたちが主イエスを信じる根拠がありま す。主イエスは復活された方だから、わたしたちの罪からの救い主であると信じることが できるのです。復活こそが、贖い、すなわちわたしたちの罪からの救いを確かなものとす るからです。「この復活はキリストの完成した御業に対する神の“然り”である」と言うこ とができます8。「復活は、それに先立って十字架にかけられた方の復活でした。復活 は、神の御子の贖いの犠牲に対する神の大いなる然りです。神の御子の死は、一人の悲劇 的な英雄あるいは殉教者の最後ではなく、この世の罪を担った神の小羊の死でした」。 つまりその死は「私たちの罪を贖う犠牲」であり、「それと共にキリストにおける神の 決定的な救済行為」でした9。だからパウロは語りました。「イエスは、わたしたちの罪 のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」のだと(ローマ 4章25節)。ペトロも言いました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神 は主とし、またメシアとなさったのです」と(使徒2章36節)。そしてこの復活こそ が、主が真実に神の御子であることを明らかにしました。御子は「死者の中からの復活 によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1章4節)。「イエス・キリストの 復活は、キリスト教信仰の歴史的な始点である。イスラエルにおいて棄てられたナザレの イエスは、復活においてはじめて真に神のひとり子であり約束されたメシアであることが 確証された。もし復活がなければ、十字架はたんに失敗であり、イエスの死には贖罪や和 解といった救いの意義を何ら帰することができなかったであろう。またもし復活がなけ れば、イエスの地上での生、そのわざと言葉、ひいては受肉の事実すらも、真実味を失っ てしまったであろう。それらはみな、復活の光のもとで振り返り見られることによって、 はじめて最終的な信憑性を獲得したのである。したがって、復活はキリスト教信仰の歴史 的な出発点であるとともに、その実質的な出発点であり、その上にすべての信仰箇条がた てられるところの第一の基礎である」10。


2.復活に対する信仰はわたしたちを立ちあがらせるか

 ところでこの信条とは、キリスト教信仰のエッセンスを言葉を切り詰めて凝縮したもの ですが、その中に2回も復活のことが告白されていきます。それほど復活が、わたしたち の信仰にとって中心的なものであることを明らかにします。ここでは「三日目によみがえ り」と主イエスの復活について告白し、終りの方では「死んだ者のよみがえり」とわたし たちの復活が告白されます。わたしたちもやがて復活し、永遠の命に生きる者とされる、 それは主イエスが十字架によってわたしたちの罪を取り除き、死を打ち破って復活してく ださったからでした。主イエスが復活されたということが、やがてわたしたちも本当に死を打ち破って復活し、永遠の命に生きる者となるということの保証となりました。死に支 配されて生きているわたしたちを、この希望のうちに確かに生きることができるようにす るために、主イエスは墓からよみがえってくださいました。そこで主イエスの復活とわた したちの復活とは、深く結び合ったものとなっています。ですからここでは、わたしたち が復活するために、わたしたちのために、その先駆けとして復活してくださった主イエス の復活について、解き明かすべきところです。しかしわたしには問いがあります。わたし たちはやがては自分たちが復活することも、永遠の命に生かされていることも知っている し、信じています。しかし愛する者の死を前にして、やはり悲しいし、心が引き裂かれる ほどつらいです。心が押しつぶされるほどに苦しみ、悲しんでいるそのときには、主イエスが復活された事実も、やがて自分たちが復活することの信仰も、必ずしも慰めとは なっていかないことがあります。苦しんでいるのは今なのです。悲しみに押しつぶされて いるのは今なのです。そこでは、かつて主イエスは復活されたという過去の事実も、やが ては自分も復活するという未来の出来事も、苦しんでいる今、少しも慰めにはならないの です。ヨハネ福音書に登場するマルタもそうでした。弟ラザロが死に、立ち上がれないほ どに悲しんでいたマルタも、やがてはラザロが復活することを信じていました。そのこと を知らずに悲しんでいたのではありません。ここで主イエスがマルタに、「あなたの兄弟 は復活する」と言われたとき、「終わりの日の復活の時に復活することは存じておりま す」と答えています(ヨハネ11章23、24節)。だからマルタは信仰者が復活することを 知っていたし、信じてもいました。けれどもそれが、マルタの悲しみを和らげ、慰めを与 えたかというと、そうではありませんでした。そしてそれはわたしたちも同じではないでしょうか。


 わたしたちにとっての究極の希望は、復活にあることをいつも聞きます。それを象徴す るのが日曜日だということもです。なぜなら日曜日は、主イエスが死を打ち破って復活された日だからです。この日から、わたしたちの新しい命の営みが始められ、新しい歩みが 開始されました。そのことをわたしたちは日曜日ごとに繰り返し覚えながら、また新しい 歩みを始めていきます。そしてそれこそキリスト教の正統的な信仰であり、まったく正しい信仰です。しかしそれではそのことが、苦しみ悩みながら毎日を生きるわたしたちを本 当に慰め、励まし、強める力の源となっているかと問うたらどうでしょうか。主イエスが 復活されたこと、そしてわたしたちもやがては復活するということを否定する人は、キリ スト者とはいえないでしょう。しかしその信仰が、本当に自分の支えとなり、励ましとな り、力の源となっているのでしょうか。かつて主が復活されたという過去の事実も、やがては自分も復活するという未来の出来事も、苦しみ悩む自分を強めて立ち上がらせてい くものとなっているでしょうか。むしろわたしたちは、主イエスの復活の出来事を聞いて も、終わりの日にわたしたちも復活することを聞いても、それで心が立ち上がることはで きず、何か別の世界の話を聞いている思いに捕らわれることの方が多いのではないでしょ うか。復活への信仰は、悩み苦しむ自分を立ち上がらせる力の源になっているとは言い難 いというのが、わたしたちの正直な思いなのです。なぜなら、苦しんでいるのは今だから です。悩んでいるのは今だからです。悲しみに塞ぎこんでいるのは今だからです。復活の 信仰が、今悩み、苦しみ、もがいている自分を、立ち上がらせる力とはなっていかない、 そこにわたしたちの問題があるのではないでしょうか。マルタもマリアも復活を信じてい ました。しかしその復活の信仰は、ラザロを亡くして悲嘆に暮れている二人を慰め、立た せるものとなっていかなかったのです。またエマオへと急ぐ二人の弟子たちの、絶望に閉 ざされた心を、立ちあげることにもなりませんでした。彼らは主の復活を知らなかったか ら「暗い顔」をしていたわけではなくて、主の復活を知っていたにも関わらず、依然とし て「暗い顔」をしていました。しかしまさにそのところで主イエスが言われたことが、 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という約束なのでした。


3.苦しみ悩む今この時での復活

 もちろんここで主イエスが「死んでも」と言われたのは、わたしたちがやがて迎える自 分の死、つまり肉体の死のことです。身体の死を迎えるわたしたちですが、やがては復活 する、永遠の命に生きる者となるということです。しかしそれだけでは、実は次の言葉が 理解できなくなります。主イエスは、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死 ぬことはない」とも言われました。ここでの生と死が、単に身体上の生死であったら、 おかしなことになります。つまりクリスチャンになったら死なないということになります が、クリスチャンも死にます。ですからここで主イエスは、単に身体上のことではない、霊的な生死について語っておられるわけです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という約束は、身体的な 生と死を言うだけではなくて、精神的な生と死、つまり主イエスも味わい尽くされた、生 きていく上での苦しみについて語っておられると考えることができます。正しい信仰でさえも、立たせることができないほどに悩み苦しむわたしたちです。その悩み苦しむ中で、 心が立ち行かなくなり、重い問題に心が覆いふさがれて、うずくまってしまうわたしたち です。それがここで死と言われているものでもあります。それはわたしたちの心が死んで しまうことであり、それほどの精神的な死、心の死のことを言い表しているということで す。


 わたしたちは何度もこのような死に直面します。避けることができない大きな問題に心 が押しつぶされそうになることがあります。重い責任を背負わされながら、自分ではどう することもできずにもがき苦しむことがあります。大切な人を喪い、悲嘆に暮れることも あります。生きる希望を失い、生きていても仕方がないと絶望することもあります。重い 病気を抱えて、痛み、苦しみ、悩みます。先行きの不安に駆られ、将来を悲観します。人 から激しく責め立てられて、ひどく苦しむこともあります。家族の介護や世話に疲れ果 て、人生を悲観して、絶望することもあります。大きな失敗をして責められ、あるいは人 を傷つけて自己嫌悪におちいります。自分なんかいなくなってしまえばいいと嘆くことさ えあります。こうしてわたしたちは、大なり小なり色々な死を繰り返しながら毎日を生き ているのではないでしょうか。そして悲観し、そこで絶望しながら毎日を生き、小さな死 を繰り返しているわたしたちに、主イエスは「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生 きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と約束してくださるので す。大きな問題に心が覆いふさがれて苦しみ、悩み、絶望するとき、「生きていてわたし を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われるのです。あまりにも深い悲しみ に心が打ち砕かれて、もはや心が立ち上がらなくなるとき、「わたしを信じる者は、死ん でも生きる」と約束されるのです。それが信条が告白する「復活」の信仰です。それは単 なる過去の事実でも、未来の出来事にすぎないのでもなくて、苦しむ今、希望と力を与 え、心うち沈む今、立ち上がらせていく、現在の復活です。主イエスの復活は、今わたし たちを立ち上がらせ、今生かしていく、わたしたちの今の復活の保証、土台であり、将来 のわたしたちの復活はその完成に他なりません。それは単に過去の出来事にすぎないの でも、遠い将来に起こされる死んだ後の未来の出来事であるだけでもなくて、苦しんでい る今与えられ、悩みの中で心が死んでしまう現在、起こされていくことなのです。


4.朝ごとに新しく復活の命に生きる者に

 わたしたちは、わたしたちの死を打ち破られた復活の主の命によって、新しい命に生き る者とされました。主イエスのゆえに新しい人としてもう生きており、主イエスにある新 しい命は、もうすでにわたしたちの内で始められています。そしてこの新しい命は、わた したちが毎日新しく目覚め起き上がる者として、日々与えられているものです。ですから 復活というのは、単に過去の昔話なのでも、将来の単なる希望ということでもなくて、す でに今与えられ、現にそこに生かされている、この新しい命のことなのです。そこで、こ の主にある新しい命に生きる者とされたパウロは、このように語りました。「わたした ちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見 捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にま とっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えず イエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため に。・・・主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたが たと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と(2コリント4章 8~11、14節)。文語訳では、「われら四方より患難(なやみ)を受くれども窮せず、 為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失わず」となっています。四方八方から 困難が襲いかかって困窮し、自分の力ではもはやどうすることもできないほどに窮すると しても、そこで希望を失うことがないと言うのです。


 悲しみに心が打ち沈んで、もうどうにも立ち上がれなくなることもあります。絶望が心 を支配して、心が立ち行かなくなることもあります。まさに死としか言いようがないほど に苦しみ悩むそのとき、しかしその自分をそこから立ち上げてくださる方がいることを知 ります。そして事実、その方に手を取っていただいて、問題に立ち向かっていく勇気を与 えられ、絶望を乗り越えていく希望の中で、再び心を立ち上げられていきます。それが、 わたしたちが信じている復活であり、つまりそれは死を打ち破られた復活の主の命に よって、わたしたちが日々生かされているということなのです。それは主にある新しい命 であり、日々に新しい人として起き上がらせられていくことです。復活という言葉は、起 き上がるという言葉です。そのとおりに、わたしたちが毎日新しく起き上がらせられてい くこと、それが復活なのです。そしてこの小さな復活は、日々に与えられていくものであ り、それによってわたしたちは毎日新しく立ち上げられながら、終わりの日の復活を待ち 望みつつ、今日の戦いを戦い抜いていくように支えられていくのです。そしてどんなに大 きな問題に直面して窮し、「為ん方つくれども希望を失わず」に、新しく毎日を始めるこ とができるのです。こうして復活の主を信じ、その命を生きる者は、「死んでも生きる」のであり、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」、絶望のう ちに沈み、立ち往生することがないのです。なぜなら「わたしは復活であり、命である」 と言われる方が、わたし自身の命となり、生きる力の源となっていてくださるからです。


5.復活の主の顕現の食事

 そのことをはっきりと表したのがエマオでの食事でした。二人の弟子たちは、主イエス の遺体が葬られた墓が空であったことも、そこで天使が「イエスは生きておられる」と告 げたことも知っていました。ところがその知らせは、彼らを絶望から希望へと立ち上げる ものとはなりませんでした。彼らには信じられないことだったからです。ところが彼らに 近づき、エルサレムでの出来事について語り合った人がいたので、一緒に食事をするよう にとその人を無理に引きとめ、「一緒に食事の席に着いたとき」、不思議なことが起こり ました。その人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しに」なりまし た。「すると、二人の目が開け」、そこで主イエスだと分かったのです(ルカ24章30、 31節)。主を目の当たりにし、その声を聞きながら、それでも彼らは主だと気づきませ んでした。けれどもすでにそこに主は共にいてくださり、悲しみと絶望の道を共に歩いて きてくださっていたのでした。その二人がその人を主だと気づいたのは食事においてでし た。そして急いでエルサレムにとって返すと、すぐに他の弟子たちに報告します。「パン を裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」をです。そして二人も知りました。 エルサレムにいた弟子たちも主イエスに出会ったということを。それでもなお信じられな いでいると、再び主が現れてくださいました。そして彼らの真中に立って、「平和がある ように」と語りかけてくださったのです。そしてなお信じられないでいる彼らの前で、主 は焼き魚を取ってそれを食べられました。そこで弟子たちは主が本当に復活されたことを 信じることができました。そのことも、食事においてのことでした。


 しかし主を裏切った彼らは、後ろめたさが心をふさいで、主をまっすぐに見つめ返すこ とができないでいました。その彼らに主が言われたことは「平和があるように」でし た。主はもうすでに赦してくださっていました。大きな憐れみと赦しの中で、両手を広げ ながらご自身との交わりへと招き入れてくださいました。罪の呵責を覚えながら、深く悩 み込んでいたとき、「平和があるように」と呼びかけて、主の赦しの中に招き入れてくだ さいました。心を閉ざしたその真中に主がおいでくださり、問題のただ中にまで主が来 てくださったのでした。また絶望で心の目が閉ざされて、行く場を失い立ちすくんでし まったとき、もうすでにその悩みの道筋に寄り添い、悲しみの道を共に歩き続けてきてく ださっていました。こうしたことに気づかされたのは、食事の時、主がパンを裂いて祝福してくださったときのことでした。主イエスは、地上での日々を弟子たちと共に過ごす中 で、いつも弟子たちと食事をされましたが、その食事の礼拝の中心には、いつも主がいて くださり、主がパンを裂いて祝福を祈り、共に食事にあずかってきました。だから彼らも パンを裂き、それを配って食事をするたびごとに、そこにいてくださった主を覚えて感謝 し、主の思い出を語り合い、主の言葉を分かち合いました。それだけではなく、かつて 主がそうされたように、パンを裂き、祝福を祈りつつ、それを廻して分かち合うごとに、 まさにそこに復活された主が共にいてくださり、自分たちを祝福してくださっていること を実感したのです。そしてそこに臨在してくださる主を仰ぎながら、喜びをもって礼拝を ささげ、主にある交わりに生きていったのでした。パンを裂き、食事をするのは、そこに 主イエスが共にいてくださることを知り、その主の臨在を覚えながら、主と共に交わりを もつためでした。こうして最初の弟子たちは、家ごとに集まって、一緒にパンを裂くたび に、この主イエスとの共なる食事を思い出したのです。ないがしろにされていた自分たち を受け入れて、招いてくださった主の食事、問題を前にして何もできない無力な自分たち を用いて、祝福してくださった主の食事、不信仰で主を認めようとせず、主を裏切ってし まった自分たちを赦し、平和を約束してくださった主の食事、そして悲しみの道に寄り添 い、悩みの道筋を共に歩んでこられたことを見せてくださった主の食事、そういった恵み に満ちた主との食事の思い出を思い出しつつ、その主がこの食卓にも共にいてくださっ て、今も同じように恵みと平和と祝福へと招いてくださっていることを覚えていったので した。


6.復活の命に生かされて

 こうして最初の弟子たちは、家ごとに集まって一緒にパンを裂きながら、かつて主イエ スと共にした恵み深い食事の思い出を想起しつつ、その主がこの食卓にも臨在してくださ り、今も同じように恵みと平和と祝福へと招いてくださっていることを覚えていきまし た。だから彼らは、問題に直面するたびごとに食卓を囲み、パンを裂きました。そして、 その問題にも主が共にいて、導いてくださることを信じて立ち上がったのです。財政的に 困窮し、自分たちでは立ち行かなくなって途方に暮れるときにも、彼らは食卓を囲み、パ ンを裂きました。そして、そこで立ちすくむ自分たちのただ中に、主が共にいて、パンを裂き、祝福してくださることを信じて立ち上がったのです。希望を失い、絶望の淵に追い やられていったときにも、彼らは食卓を囲み、パンを裂きました。そこで主が、彼らの真 中にお立ちくださって、「平和があるように」と主がご自分の平安を与えてくださること を信じて、立ち上がっていったのです。そこで彼らは繰り返しパンを裂きながら、大丈夫 だと立ち上がることができました。なぜならそこに主が共にいて、自分たちを祝福してくださっていることを信じることができたからでした。そしてパンを裂きながら、繰り返し 祈るのでした。今自分たちの目には見えなくても、かつて主が二人の弟子の目を開いて、 見えるようにしてくださったように、わたしたちの信仰の目をも開かせてくださるように と。そのとき彼らは気づきませんでした。もうすでに主は彼らと共にいて、苦しみの道に 伴い、悲しみの道に寄り添い続けていてくださっていたことを。だからパンを裂いて祈る のでした。わたしたちはまだ信じることができず、認めることができないとしても、主は もうすでにわたしたちに寄り添い、悲しみの道に伴って、共に歩み続けていてくださって います。その主を見ることができるように目を開いてくださいと。そしてそれを覚えるた めに、パンを裂いて、そこに臨在してくださる主を仰いでいきました。この「パン裂き」 があったから、長く困難な迫害の中を耐えていくことができたのです。なぜならどんなに つらく、苦しかったとしても、そこに主が共にいてくださり、わたしたちを祝福して、ご 自分の命のパンをわたしたちに分かち与えてくださるからなのです。わたしたちも、一つのパンを裂いて分かち合うことで、復活の主がわたしたちとも共にいてくださり、命の主 がわたしたちにご自身の命を与えて、わたしたちを立たせてくださることを信じていくこ とができるのです。こうして「パン裂き」は、復活の主がこの食事にも臨在してくださっ ていることを覚えるものとして、主イエスの弟子たちの礼拝となっていったのでした。


 このことを繰り返し覚えるために、わたしたちは日曜日ごとに集まります。なぜならこ の日こそ、主が死を打ち破って復活してくださった命の日だからです。そして日曜日ごと に、わたしたちは新しい一週間を新しく迎えることが許されているのです。それはわたし たちが、日曜日ごとに新しい人として新しく出発し直すことが許されているということで もあります。たとえ大きな失敗をして自己嫌悪におちいるとしても、人を傷つけて合わす 顔がなくなるときにも、またもう一度新しくやり直していく機会を与えられていくので す。こうして毎日を朝ごとに新しい一日として迎え、新しい人とされながら新しい出発を 始めていくことができるのです。そして毎日新しい朝を迎えることで、新しい心、新しい 意欲、新しい思いで新しい一日を始めていくのです。さらにわたしたちは、日曜日ごとに 自分が新しい人とされて、新しい出発を始めることができるのです。また新しく人生をリ セットして、やり直していく機会を与えられながら、新しく自分の人生を始めなおすこと ができるのです。この日曜日の朝に、主イエスはわたしたちを支配し、縛りつけている死 の縄目を打ち砕き、墓を打ち破ってくださいました。同じように復活の主が、わたしたち の命となって、わたしたちの死を打ち砕き、墓を内側から打ち破ってくださいます。わた したちの墓、それは今抱えている悩みであり、苦しみです。自分ではどうすることもでき ない問題であり、乗り越えることができない試練です。心を縛りつけ、がんじがらめにしている心の縄目であり、人を拒絶して内側にこもってしまう心の殻です。なによりも命の 主を信じきることができないわたしたちの不信仰と、主に委ねきることができないわた したちの弱さです。しかし復活の主は、こういったもののすべてを内側から打ち破って、 命に生きる者へと導いてくださるのです。「わたしは復活であり、命である」と約束しつ つわたしたちの命となってくださった、復活の主の命に生かされながら、新しい自分とし ていただき、新しい一週間と新しい一日を、新しい力を与えられて、心も新たに新しく始 めていきたいと思います。復活の主は今日もわたしたちに約束してくださいます。「わた しを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬこ とはない」と。




1 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信 条』、教文館、206頁

2 岩永隆至、『信仰告白としての使徒信条』、2005年、聖恵授産所出版部、79~80頁

3 同上、80頁

4 同上、81頁

5 ファン・リューラー、前掲書、199頁

6 同上、200頁

7 同上、203頁

8 山下萬里、『われ信ず 現代に生きる使徒信条』、2001年、ヨベル、176頁

9 ファン・リューラー、前掲書、208頁

10 森本あんり、『使徒信条 エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』、1995年、 新教出版社、81~82頁