第22講 苦難の中から救い出す神の御業への言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第22講:苦難の中から救い出す神の御業への言葉 (ホセア書6章2節、2012年8月5日)


【今週のキーワード:三日目の立ち上がり(復活)】

 信条は、主の三日目の復活は「聖書のとおり」と告白します。主の三日目の復活は、旧 約聖書のどこに預言されているのでしょうか。その一つが「ヨナのしるし」でした。「ヨ ナが三日三晩、大魚の腹の中にいた」ことが、「人の子も三日三晩、大地の中にいる」 ことの予告となり、主の三日目の復活についての予表となりました。そこでヨナは、「苦 難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わ たしの声を聞いてくださった」と祈りました。その祈りは、絶望的な状況のただ中、深い 苦悩に悩まされる中から発せられましたが、そこから神が助け、救ってくださるとの確信 に至ります。このことは、わたしたちにも深い確信を与えます。魚に呑み込まれたヨナ は、そこからすぐに助けられたわけではありません。彼は「三日三晩魚の腹の中に」い なければなりませんでした。主も死んですぐに復活したわけではなく、どちらも三日間と いう時間を経る必要がありました。こうして苦難の時間を経過しなければならなかったと いうことは、苦難の中を通り過ぎなければならず、それを長く忍耐しなければならないわ たしたちにとって、大きな希望となるのではないでしょうか。わたしたちは、たとえ引き 裂かれることがあり、そこで深手を負ったとしても、「二日の後、主は我々を生かし、三 日目に、立ち上がらせてくださ」います。そうして「我々は御前に生きる」者とされるか らです。


1.主イエスの三日目の復活についての旧約聖書の論証

 ニカイア信条は、「ポンテオ・ピラトの時に、わたしたちのために十字架につけら れ、苦しみを受け、葬られ」た主イエスが、「聖書のとおり三日目によみがえり」と告白 します。使徒信条では、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、 死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」となっています。ま た原ニカイア信条では、「苦しみを受け、三日目によみがえり」となっています。これら と比較して気づくことは、主イエスの復活について、ニカイア信条では「聖書のとおり」 という言葉が付加されていることです。主イエスの死からの復活は、聖書に書いてあった ことで、それが実現したということであり、そのことは聖書が預言していたことだったと 言うのです。ここで「聖書のとおり」と訳した言葉は、1コリント15章でパウロが告白 する言葉と同じです。パウロはこのように語りました。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知ら せたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもない と、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととし てわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことで す。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠り についたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべ ての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(1 ~8節)。ここでパウロは、主が「わたしたちの罪のために死んだこと」と「三日目に 復活したこと」は、「聖書に書いてあるとおり」のことだったと語ります。しかもこれは パウロ独自の告白ではなく、「わたしも受けたもの」だと。つまりパウロ自身も教えら れ、彼に語り伝えられた「教会の伝承」であり、まさしくそれこそ「生活のよりどころと している福音」であって、これによって「救われ」るのだと言うのです。ここで「聖書に書いてあるとおり」という言葉は、実はニカイア信条の「聖書のとおり」と訳した言葉と 同じです。新共同訳はそれを「聖書に書いてあるとおり」と意訳していますが、原語は 「聖書のとおり」「聖書に従って」というものです。主イエスが三日目に復活されること は、「聖書に書いてあるとおり」のことで、それはニカイア信条がまとめられた4世紀になって発見されたことではなく、1世紀のパウロが彼自身も伝えられた、教会の最初から の信仰だというのです。その時代はまだ新約聖書は書かれていませんから、ここで言う 「聖書」とは言うまでもなく旧約聖書のことです。つまり主イエスの三日目の復活は、旧約聖書において既に語られていたことだったというのです。


 しかしそこでわたしたちは考えてしまいます。それではそれはどこに預言され、記され ているのだろうかと。主イエスの三日目の復活のことは、ほらここに書かれていますよと 提示することができる箇所を思いつくでしょうか。そもそもここで「聖書に書いてある」 というのは「三日目」のことでしょうか、それとも「復活」のことでしょうか。あるい はその両方でしょうか。そのことで思いつくのは、ホセア6章1、2節の預言です。「さ あ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれた が、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」。ここでは三日目に立ち上がる、起き上がることが預言さ れています。ちなみに「復活する」という言葉は、「起き上がる」という言葉です。ですから「三日目に、立ち上がらせてくださる」とは、「三日目に、復活させてくださる」と いうことを含み込んでいるということができます。また使徒言行録を見ると、使徒たちが 旧約聖書を引用して主イエスの復活を論証しているのを見ることができます。ペンテコス テの時ペトロは、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」と 語った後、「ダビデは、イエスについてこう言っています」と言って引用するのは詩編16 編8~11節でした。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者 を朽ち果てるままにしておかれない」。そして「ダビデは預言者だったので、彼から生ま れる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知ってい ました。そして、キリストの復活について前もって知り」と継いだ後、同じ御言葉を、主 語を変えて再び引用します。『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがな い』と(使徒言行録2章24~31節)。それはパウロも同じで、「神はイエスを復活させ て、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださった」と宣言して、詩編2編を引 用した後、「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさっ たことについては」と継いで、 「あなたは、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにし てはおかれない」と語りますが、それもやはり詩編16編10節の引用でした(使徒13章33 ~35節)。このようにして使徒たちは、主イエスの復活が、旧約聖書において預言されて いたことの実現であったことを論証していったのでした。


2.聖書の全体からの復活についての論証

 さらに主イエスの三日目の復活を預言した箇所として、ヨナの物語を取り上げることが できます。そこには預言者ヨナが、イスラエルの敵であるアッシリア帝国の首都ニネベに 行って悔い改めを預言するように命じられたとき、それとは正反対のタルシシュに船で逃 亡した出来事が記されています。それが主イエスとどのような関係にあるのか、不思議に 思われたかもしれません。嵐の海へと放り投げられたヨナは、巨大な魚に呑み込まれ、そ の魚の腹の中に三日三晩いたとあります(2章1節)。賢明な方は、ここで主イエスがご 自分の復活を予告される中で言われた言葉を思い出されるでしょう。主イエスがメシアで あることの「しるし」、その証拠を求めた人々に対して、主は「ヨナのしるし」以外には 与えられないと言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる が、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、 大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と(マタイ 12章39、40節、16章4節)。「ヨナのしるし」とは、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中 にいた」ことが、「人の子も三日三晩、大地の中にいる」ことの予告となったということです。そしてそのことが主イエスの三日目の復活についての予表とされました。さら に、旧約聖書が主イエスの三日目の復活を預言したことについては、主イエスご自身が明 らかにされました。ルカ24章では、エマオへと急ぐ二人の弟子たちに主が語っておられ ることが記されます。彼らは自分たちの希望が費え去ったことで落胆し、暗い心でエルサ レムを離れました。そして「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると 望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」 と語ります。彼らはひどく落胆し、暗い顔をしていましたが、それは主イエスの復活を知 らなかったからではなく、知っていたにもかかわらず、そうでした。彼らは、主が葬られ た墓が空であったことも、そこで「天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げ た」ことも知っていました。さらには、「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦 人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」とさえ語ります。復活を知ら ず、主が十字架による非業の死を遂げたことで、彼らの希望が費え去ってしまったからと いうのなら分かりますが、そうではなく、彼らは主が復活されたことを知っていました。 目撃者からの証言を聞いていました。それにもかかわらず彼の心は暗く、絶望に閉ざされ たままでした。どうしてでしょうか。彼らにとって、主が十字架で死なれたことと、三日 後に復活されたこととはバラバラなまま、別々のこととして結びついていきませんでし た。目の前で起きた出来事の意味を理解できず、受けとめきれずにいたので、復活の知ら せを聞きながら、それでも心は絶望に閉ざされたままだったのでした。だから主ご自身に お会いしていながら、その方を主と理解することができませんでした。


 その彼らに、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じ られない者たち」と嘆かれた主は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはず だったのではないか」と言って、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわた り、御自分について書かれていることを説明」していかれました(21~27節)。ここで モーセというのは、モーセが登場する場面のことを言うのではなく、旧約聖書の最初の 部分、創世記から申命記までの、「モーセ五書」のことを指します。また「すべての預言 者」というのは、預言書だけではなく、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記といっ た歴史書を含みます。なぜなら主イエスの時代、それらは「前の預言者」と言われたから でした。そしてイザヤ書からマラキ書までの預言書は「後の預言者」と言われていまし た。また他の弟子たちの前に現れたときにも、「わたしについてモーセの律法と預言者の 書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒に いたころ、言っておいたことである」と言われました。この「モーセの律法と預言者の書 と詩編」とは、五書、前の預言者(歴史書)、後の預言者(預言書)、詩編(詩編を含む文学書)を指し、つまり旧約聖書の全体を意味します。主は「聖書を悟らせるために彼 らの心の目を開いて」言われました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受 け、三日目に死者の中から復活する』」と(44~46節)。ここで主は、ご自身の受難と 復活が旧約聖書に預言されていたことを明らかにすると共に、それを聖書から論証された わけですが、それはどこか特定の箇所からというよりも、「モーセとすべての預言者から 始めて、聖書全体」からでした。このように「主イエスは限定された言葉の引用ではなく て聖書全体をお語りになったと言うのですから、特定の言葉というよりも聖書全体の言 葉、出来事が皆主イエスの甦りを目指して起こっており、語られている」と考えることが できます1。そしてそれが「聖書に書いてあるとおり」と告白することの内容ではないで しょうか。


 このことで大切なことは、「十字架につけられたメシアは古い契約の希望の地平線上 で理解される」、つまり「彼の十字架と復活は孤立した出来事としてではなく、救済史の 関連の中で捉えられる」ということです2。むしろ「救済史全体のコンテキストの中で見 られている」3、あるいは「旧約から新約へと至る救済史の大きな流れの中に位置づけて 捉え」られるということです4。主イエスご自身、「聖書はわたしについて証しをする」 と語られました(ヨハネ5章39節)。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復 活する」ことは聖書全体が示すことであり、そのような意味で聖書に書かれていることで す。エマオへと急いでいた弟子たちは、主が聖書を通してご自身について説明されたと き、彼らの「心は燃えていた」ことに気づきます(32節)。主イエスの復活の出来事を 聞きながら、それを信じることができずに絶望し、「暗い顔」をしていた彼らが、聖書に よる主イエスの受難と復活のことを知ったとき、冷たく冷え切っていた心が燃やされてい きました。そして命の危険を省みず、今来た道を取って返し、「本当に主は復活し」たこ とを(34節)、他の弟子たちに伝えていきました。彼らの打ち砕かれた希望は、本当の 希望へと変えられました。それは聖書の全体が、主イエスについて語っていることを理解 したことによってでした。主による聖書の解き明かしによって、十字架と復活という出来 事が別々、バラバラのことではなく、神によって計画され、あらかじめ約束されていた救 いのご計画であったことを理解することができました。そしてこれらの出来事が、わたし たちを救おうとされる神の大きな救いのご計画の中の一つの事柄であり、そうしてわたし たちは神の救いの大きな御手の中に置かれており、そこで守られ、また導かれていること を知ることができたのでした。主は志半ばにして、不幸にもユダヤ人の手によって非業の 死を遂げてしまったというのではなくて、そうして十字架で処刑されたことも、死に葬ら れたことも、すべては神の御手の中にあることであって、神の救いのご計画は、どんな人間の反対や妨害にあったとしても、そこで着々と進められ、必ず完成に至るという、神の 救いの確かさを知ることができました。そこで彼らの心は燃えたのです。わたしたちの人 生も、別々バラバラに様々なことが起こるのではなく、そのように見える出来事も、すべ ては神のご支配の中にあって、救いへと確実に至るように導かれています。大きな問題に つまずいたり、思いもかけない病気になったり、どうにもならない事柄に悩まされたり と、人生に起こり来る出来事を前にしてどうしてこんなことが起こるのかと悩まされ、苦 しむわたしたちです。けれどもそれらの出来事は決して別々バラバラなことではなく、そ の背後にあってすべてのことを支配しておられる神の御手の中にあることを信じ、確信す ることができるのです。災いとしか言いようのない出来事に出会うこともありますし、涙 の谷間を通り過ぎなければならないときもあります。しかしそれらのすべては、「わたし の幸い目指して」為されているということを信じ、忍耐をもって受けとめていくことがで きるのです(『ハイデルベルク教理問答』問26~28、登家訳)。エマオへと急ぐ弟子た ちにとっては、十字架と復活は、そこでは結びつかない、別々バラバラのものであり、神 の為さろうとすることが理解できず、受けとめられずに、絶望の中に沈んでいました。そ の彼らに、それらのことは聖書において既に約束されていたことであり、聖書の全体が明 らかにすることだということが教えられました。それらが「聖書に書いてあるとおり」の ことであるとは、つまり「聖書を通じて語られている神の言葉、その神の言葉が明らかに している神の救いの計画、そのご意志は一貫して変わることはない、ということです。だ から主イエスの十字架から復活への出来事はすべて神の意志が一貫して貫かれた出来事で あったのだということです」5。「そうすると『聖書に応じて』という言葉の中に込めら れているのは、いわば父なる神に対する信頼ということ」だということです6。そしてそ れが、「聖書のとおり三日目によみがえり」と告白することで言おうとすることなのでは ないでしょうか。


3.苦難の時を経ての希望と喜び

 主イエスはご自身の復活のしるしとして、ヨナが「三日三晩魚の腹の中にいた」ことを あげました。そこで「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて」言いまし た。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求め ると、わたしの声を聞いてくださった。あなたは、わたしを深い海に投げ込まれ た。・・・わたしは思った。あなたの御前から追放されたのだと」と(2章2~5 節)。十字架の上で完全に死に、墓に葬られて三日間を過ごされた主イエスですが、まさ にその陰府、死の世界において主が祈られたことこそ、このヨナの祈りではなかったで しょうか。そしてそこで得た父なる神に対する確信と平安は、まさに十字架の上で祈られた詩編22編に通じるものがあるのではないでしょうか。ヨナの祈りでは「苦難の中で、 わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を 聞いてくださった。しかし、わが神、主よ。あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくだ さった。息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに 届き、聖なる神殿に達した」と祈られました(3、7、8節)。詩編22編では、「助け を求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。主は 貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求 める叫びを聞いてくださいます。わたしの魂は必ず命を得」と詠われます(6、25、30 節)。こうしてどちらも、深く絶望的なまでの状況のただ中で、苦悩の中から発せられた 祈りでしたが、最後には神に対する救いの確信と平安で閉じられていきます。


 そしてヨナが「三日三晩魚の腹の中にいた」中で祈った祈りは、主イエスが三日間墓の 中におられたときの祈りと重ねられながら、わたしたちに深い確信を与えるものとなって いきます。魚に呑み込まれたとはいえ、ヨナはすぐに助けられたわけではありませんでし た。彼は「三日三晩魚の腹の中に」いなければなりませんでした。主も死んですぐに復活 したわけではなく、どちらも三日間という時間を経る必要がありました。そこには「十 字架の金曜日と復活の日曜日の間」という「時間上の区切り」があります。そこには「イ エスの弟子たちの不安にされ、また打ち砕かれた希望、という苦い」経験があり、「夢 をこわす、この苦い、みじめな時間」がありました7。十字架の絶望と復活の希望の間に は、「三日」という「時の間」があったのでした。この点について、石田氏は次のように 語ります。「イエス・キリストは死んで『葬られ』た。イエスは死後ただちに復活したの ではない。キリストは死んで『よみに下り』・・・イエスを信じた者・愛した者たちは悲 嘆と共に、イエスが完全に彼らの間から失われたことを葬りの儀式として確認した。苦難 と悲嘆、そして死の時は、イエスにとってもイエスと関わる人々にとっても、ただちに取 り除かれたわけではない。イエスにとってはよみに下っている時が存在したのであり、母 マリアや男女の弟子たちは、三日にわたる悲嘆の時を過ごしたのである。この事実は、 キリスト教徒が苦難の時を体験し死の時を迎えるに際して、その悲嘆の継続性ゆえに落胆 したり信仰を失ってしまったりしないための支えとなることであろう。なぜなら、主イエ スは『三日目』によみがえられたのだから。キリストの復活は、常に未来のわたしたちの 復活への希望を与えるのである」8。主イエスが死んですぐではなく「三日目」によみが えられたこと、すなわち苦難の時間を経過した後に、喜びと希望の時が訪れるということ は、苦難の中を通り過ぎなければならず、しかも長い時間、それを忍耐しなければならな いわたしたちにとって、大きな励まし、そして希望となるのではないでしょうか。ホセアは預言しました。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いや し、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、 立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」。わたしたちは、たとえ引き裂かれるこ とがあり、またそこで深い傷を負ったとしても、「二日の後、主は我々を生かし、三日目 に、立ち上がらせてくださ」います。そうして「我々は御前に生きる」者とされるので す。




1 加藤常昭、『ニケア信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白』、2006年、教文 館、252頁

2 ロッホマン、『講解・使徒信条 キリスト教理概説』、1996年、ヨルダン社、220頁

3 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、131頁

4 岩永隆至、『信仰告白としての使徒信条』、2005年、聖恵授産所、84頁

5 加藤、前掲書、252~253頁

6 同上、253頁

7 ロッホマン、前掲書、220頁参照

8 石田学、『日本における宣教的共同体の形成 使徒信条の文脈的注解』、新教出版社、 125頁