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第21講 わたしたちの死に寄り添うインマヌエルへの言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第21講:わたしたちの死に寄り添うインマヌエルへの言葉 (1テサロニケ5章10節、2012年7月29日)


【今週のキーワード:死に寄り添い、死の先まで共にいてくださる主】

 信条が「葬られ」と告白するのは、この方が本当に死なれたことを確証するためでし た。そしてそれは、やがてわたしたちも行くべき死の世界、生の先に横たわる死の道筋を も主が先立って行かれたことを意味するものでもありました。主は三日間、死の状態にと どまられました。そこで完全に死んだわけですから、主イエスの遺体は徐々に腐敗し始 め、死臭をただよわせていました。三日目に復活する主の身体は、完全に腐敗し死臭を ただよわせた死体に他なりませんでした。こうして主は、完全な死の状態におかれ、死の 世界に赴かれました。葬られたとは、このようにやがてはわたしたちが行くべき死の世界 にまで主が赴いてくださり、わたしたちが至る死の状態に置かれたことを意味するもので した。こうして主は、わたしたちの死を死んでくださると共に、わたしたちが味わうべき 死をご自身も味わい尽くしてくださった、そうしてわたしたちの死をご自分のものとして くださったのでした。それによって、わたしたちにとっては死の意味が変えられていきま した。「主と共に」ということによって、死はもはや望みなきものではなくなりました。 「わたしたちはいつまでも主と共にいる」と約束されることで、もはや誰ひとり一人ぼっ ちで死ななければならないということはなくなったからです。こうしてわたしたちは、目 覚めていても眠っていても、永遠に主と共に生きる者とされたのでした。


1.死の確証としての「葬り」

 福音書は、主イエスが十字架上で絶命した後、アリマタヤのヨセフとニコデモによって 埋葬された様子を伝えます(マタイ27章57~61節、マルコ15章42~47節、ルカ23章50 ~56節、ヨハネ19章38~42節)。主の遺体は没薬と沈香による防腐処理がなされた後、 上質の亜麻布に包まれて、岩に掘られたヨセフの新しい墓に納められました。葬り、これ ほど悲しい場面はありません。自分の大切な人を、冷たい地面の下にただ一人残して、そ こを去らなければならない現実に直面します。そしてやがてわたしたち自身も、そのよう に葬られるのです。葬り、それはわたしたちが死の力に支配されていることの現実を、い やがおうにも思い知らされるときでもあります。そしてこのように主は、死んで、墓に葬 られるという、わたしたちがやがてたどるべき死の道を、同じようにたどってくださった ことを明らかにします。こうして主が墓に葬られることについては、イザヤ書53章の「主 の僕」の歌の中で、「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」と預言されていました。そしてこの出来事 を受けてパウロは、「最も大切なこと」として自分自身も受けた伝承として、「キリスト が、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」を伝えます(1コリント15章3、4節)。そこでニカイア信条は、「ポンテオ・ピラトの時に わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け」の後、「葬られ」と告白します。 使徒信条では、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬 られ、陰府にくだり」となっていて、ここでも違いが顕著です。ニカイア信条が、ただ 「葬られ」と告白するところを、使徒信条は「死にて葬られ」と告白し、さらに「陰府 にくだり」と付け加えます。しかし使徒信条の原型であるローマ信条には、そのいずれも なく1、「死にて」の部分は後からの付加であることが分かります。『ハイデルベルク教 理問答』では、「なぜこの方は『葬られ』たのですか」という問いに、「それによって、 この方が本当に死なれたということを証しするためです」と答えます(問41)2。同じことは『ジュネーブ教会教理問答』でも語られ、「それが本当の死であることを示すため に、他の人々と同じように墓に入ることを望んだのです」とあります(問62)3。このよ うに主イエスの葬りは、「死の事実の確証」として告白されるものですが4、それにさら に「死にて」を挿入したのは、本当に主イエスが十字架で死んだ事実を確認するためであ り、さらにそこで「十字架上の苦しみの完了」をも明確にするためのものでした5。


 そしてこれにさらに「陰府にくだり」と付加されるのは、主が十字架の上で受けられた 苦しみの深さを言い表すものだと考えることができます。カルヴァンは『ジュネーブ教会 教理問答』の中で「陰府にくだり」という条項の意味を、主が「恐るべき苦悶にとらわ れた」ことと理解して、次のように説明します。「あたかも神から見捨てられたかのよう に、さらに、神がかれに対して怒っておられるかのように、良心に恐ろしい苦しみを負わ ねばなりませんでした。このような破滅の淵の中で『わが神、わが神、なぜわたしをお見 捨てになったのですか』と叫んだのです」と(問65、66)6。主が十字架において父なる 神から徹底的に断罪され、呪われ、裁かれて、そこで絶望的なまでの苦悶を味わわれたこ と、それを「陰府」という表現で言い表したということです。それは「地獄のような不安 と痛み」であり7、そこで思わず漏らされた言葉こそ、「わが神、わが神、なぜわたしを お見捨てになったのですか」と呻きだったのでした。そしてまさにそのとき、主は陰府に までくだっておられたのでした。前講で紹介した、主イエスが十字架の上で祈られた「わ が神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、詩編22編から の引用でした。実はこの主の言葉には、正反対の解釈があります。一つは、「ユダヤ人は 詩編を唱えるにあたって、最初の言葉だけを口にして、後は黙ってその詩編を唱える習慣がある」ことから、「ここで唱えられた詩編は、最後は信頼の言葉で結ばれる」ので、 「これはイエスが絶望の内にあったことを意味しない」というものです8。確かに詩編22 編は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたし を遠く離れて、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼 は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」という絶望 の言葉で始まりますが(2、3節)、しかし終わりには「主は貧しい人の苦しみを決して 侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいま す」と神への信頼へと立ちあげられていき(25節)、「わたしの魂は必ず命を得、子孫 は神に仕え、主のことを来たるべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民 の末に告げ知らせるでしょう」(30~32節)と希望をもって閉じられます。だから先の主 の言葉は決して絶望の叫びではなかったというのです。


2.「陰府」の深みの中での絶望の言葉

 しかしそれと正反対の理解があります。モルトマンという神学者は、「あの詩篇は、死 の苦しみからの救いに対する感謝の祈りで終わっているが、そのような感謝はゴルゴダで は起こらなかった」と論じます。「イエスは、この詩篇でもって神をもはや御自分の 『父』として呼びかけているのではなく、むしろイスラエルの神として呼んでいるからで ある。マルコ福音書のより古い写本では、この叫びを次のように強めている。すなわち 『どうしてあなたは、私を恥にさらされたのですか』、また『どうしてあなたは、私を呪 われるのですか』と。神に見捨てられたことは、ゴルゴダの十字架につけられたイエスの 最後の神体験だったのである」と語り、「イエスは、神に見捨てられて、神の子の死を死 んだ」と結論づけます9。それを受けてオドンネルも次のように語ります、「モルトマン が強調するように、十字架は二重の見捨てる神の出来事なのである。御子は自分が御父 に見捨てられ、死に引き渡されるのに気づく。そして、自分を御子の苦しみと死に引き渡 すのは御父なのである。十字架のこの瞬間に、神的な存在が引き裂かれるのである。御 父と御子とは死と暗闇と罪とによって引き離されるのである。・・・我々は次のように言 わねばならない。十字架の上でイエスは見捨てる神を体験し、罪というものがそのような ものであるが故に、神からの引き離しを体験したのである。換言すれば、十字架の上で、 イエスは地獄の現実を体験したのである」と10。このように「十字架は御父と御子との切 断」であり11、「十字架上の主イエスの死は、神と罪人のあいだに生じた裂目を示すので はなく、一にして永遠なる神ご自身の存在、つまり決してこわされることのない統一の内 側に広がるおそろしい裂目を意味する」12ものと理解します。「御父と御子との切断」、 神ご自身の「統一の内側に広がるおそろしい裂目」、すなわち交わりの断絶こそ真実の死であり、それが地獄でした。


 こうして御子は、まさにその地獄にまで突き落とされることによって、罪の裁きと呪い を背負い、贖いを成し遂げてくださいました。そして神から見捨てられるという絶望の苦 しみを味わい尽くすことで、わたしたちの苦しみを背負ってくださったのでした。だから 詩編の詩人は、たとえ「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」と 告白するのでした(詩編139編8節)。陰府とも言うべき絶望の淵に置かれ、奈落の底に 落とされても、「見よ、あなたはそこにいます」と、地獄の底で神と出会います。陰府と しか言いようのない苦しみの中で、神に出会うのです。しかもそこで出会う神は、ただそ こに「いる」というだけではない、「あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導 き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」と約束されます(同10節)。そしてそ こでわたしたちは、十字架の主、わたしのために、またわたしの代わりに十字架につけ られた主こそがインマヌエルであることを真実に知るのです。それを本当に知るに至るの は、不条理な苦しみと理不尽な苦難に陥って自分は神に捨てられたと絶望する、まさにそ の陰府の深みにおいてです。だからこれ以上の試練はないと思うような苦しみの中で悩む とき、これほど深い悩みはないと思うような苦しみの中でもがき悩むとき、この言葉を 口ずさむのです。主は「わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ」 たと。なぜなら主は、十字架においてわたしの苦しみを背負い、わたしの悩みを担ってく ださったからです。そして今も多くの苦しみと悩みの中で立ちすくむ、このわたし自身を も背負い、担ってくださっているからです。そして陰府としか言いようのない深い苦悩へ と落ちこみ、絶望の淵に立たされるわたし、そのわたしとも共にいてくださり、まさにそ の地獄のそこにおいてさえ、主は共にいて、わたしを支えていてくださる、そのことを表 したのが「葬られ」という告白なのです。


3.罪の刑罰であるわたしたちの死を死んでくださった主

 しかしさらに、主イエスの「死の事実の確証」である主の「葬り」は、単なる比喩的・ 文学的表現としてではなく、事実主は、わたしたちがやがては行くべき死の世界、生の先 に横たわる死の道筋をも先立って行かれたことを意味するものでもありました。主イエス は死んだ後、ただちに復活されたのではなく、死んでからしばらくの期間を墓の中で過ご されました。二日間、足掛け三日は死の状態のままでした。今日でも、人が死んでもすぐ に火葬にふすことはしません。蘇生の可能性があるからです。死亡が確認されて2~3日 後になってから、火葬ないしは埋葬をします。それは単に死んだという生物学的・医学的 な意味だけではない、深い意味を持っています。日本人の死生観では、「死霊は、しばらくの間遺体から離れず、そのまわりをさまよいながら、この世に戻る機会を狙っていると 考えられてきました」13。そこでかつては「魂呼ばい」といって、死者の枕元で大声を出 して名前を呼んだり、通夜でわざと騒音をたてたりしたそうですが、それは死者を蘇らせ るためのもので、山盛りのご飯の中央に一本の箸を立てるのも、米の持つ力で死者の魂を 呼び戻そうとするためのものだそうです14。ですから葬式とは、「死霊が遺体から完全に 分かれるまでの手続き」として行われました。キリスト教にもこうした服喪期間というも のがありました。『ローマ・ミサ典礼書』では、「死者のためのミサは、命日の三日 目、七日目、三十日目に行うことができる」と規定されていました。エジプトの教会も同 じ日、シリア教会では三・九・三十日、ギリシャ教会では三・九・四十日に、死者を記 念したミサを行うようですが15、その背景には古代からの習慣がありました。古代ギリ シャでは、死後三日目と九日目に死者を記念し、犠牲奉献が行われました。古代シリア では、三日間死者のために断食し、三日目の晩に死者のための会食がもたれたとされてい ます。古代イスラエルでは、喪は七日間続きました(創世記50章10節、ユディト記16章 29節)。モーセとアロンの喪は三十日間行われました(民数記21章29節、申命記34章8 節)。こうして死者を尊ぶのに、こうした日取りが選ばれたのは、魂が体から離れること についての古代人の考え方に根拠があったからのようです。それは「人は死んでも、魂 は、すぐ体から離れるわけではなく、しばらくの間は体の近くにとどまっている」という もので、そこでとどまっている期間が三日間ないしは七日間とされました。それは死体の 腐敗がすぐには目立たないことと関係するようで、「三日ないしは七日を過ぎるまで、魂 は肉体に決定的な別れを告げるはずがないと、人々は信じていた」からで、「肉体が完全 に朽ちるまでは、魂は地上のどこかにとどまっているという考え方」が普及していたため でした16。


 そしてこのような通念はキリスト者になっても変わらず、中世初期のある著作家は、次 のように記しました。「死後三日間、魂は地上にとどまる。四日目に天使たちが魂を導 いて昇っていく。九日目、この魂のために、空中の諸霊と天地たちの間で、闘いが始ま る。死後四十日目に、魂は神の審判の座につれられ、神の最終的な裁きを受ける」と17。 こうした考え方は聖書的でもキリスト教的でもないわけですが、そのような通念が一般社 会だけではなくキリスト教社会の中にもあったことを覚える必要があります。主が三日 間、墓の中にとどまられたのも、そのためでした。それは主が仮死状態から蘇生したと いうのではなく、本当に死に、死の状態を過ごされたことを確証するためでした。完全 に死んでしまった、しかしそこから主は死を打ち破って復活されたことを明らかにするた めに、主は三日間、死の状態にとどまられたのでした。完全に死んだわけですから、マルタがラザロの遺体について主に「四日もたっていますから、もうにおいます」と言ったよ うに(ヨハネ11章39節)、主イエスの遺体は徐々に腐敗し始め、死臭をただよわせてい たはずでした。三日後に復活する主の身体は、完全に腐敗し死臭をただよわせていた死 体に他なりませんでした。そして主ご自身は、完全な死の状態にあり、死の世界に赴いて おられたのでした。三日後その死の世界から、主は命へと復活されます。ホセアはそのこ とを次のように預言しました。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれ たが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」と(6章1、2節)。主が墓 に葬られたということは、やがてわたしたちが行くべき死の世界にまで主が赴いてくださ り、やがてはわたしたちが至る死の状態にも主が置かれていたことを意味するものでし た。しかもこの死とは、罪に対する刑罰でした。しかしこの罪の刑罰としての死を、主は わたしたちのために、わたしたちの代わりに受けてくださいました。そのことによって、 わたしたちにとっては死の意味が変えられていきました。「イエスが二日間墓に横たわっ ておられたという信仰告白は、私たちの救いの観点からも非常に大きな意義を持っていま す。確かに死はわたしたちの罪に対する罰です。そしてまさにこの罰をイエスは極みまで 担われ、しかも私たちに代わって死の状態を耐え抜かれたという意味においても担われた のです。こうしてイエスは、今や私たちの死と埋葬においても私たちの傍らに、また私た ちと共にいてくださいます。私たちに対するイエスの連帯は人間存在のあらゆる関係を貫 き、私たちの埋葬という恐ろしい現実にまで達します」18。こうして主は、わたしたちの 死を死んでくださると共に、わたしたちが味わうべき死を、ご自身も味わい尽くしてくだ さった、そうしてわたしたちの死をご自分のものとしてくださったのでした。


4.死を越えて永遠に主と共に生きる

 こうして主が死なれただけではなくて、しばらくの間、死の状態にとどまってくださっ たということは、わたしたちの確かな希望となります。また死の世界にまで赴いてくだ さったということは、わたしたちの深い慰めとなります。「陰府」とは何でしょうか。旧 約聖書における死者の国はシェオールですが、それは善悪といった道徳的価値によって決 まるのではなく、すべての人が死後に行く場所であり、暗く朦朧とした所で、そこでは人 は影のようだと考えられました。「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に 入れば、だれもあなたに感謝をささげません」とあるように(詩編6編6節)、希望も 何もない場所と見なされていました。新約聖書ではハデスと呼ばれます。陰府、そこは死 んだ者が行く場所です。「よみ」は「やみ」に通じ、それは闇の国、光が射していない場 所、死のかなたに広がっている暗黒が支配する所です。死の力に支配された所で、闇に覆われ、そこに落ち込むわたしたちをも虚しくしてしまいます。しかしまさしくその死の国 にまで、主は赴いてくださった、やがてはわたしたちが行くべきその場所にまで行き着い てくださったのでした。ですから「陰府も神の前ではあらわであり、滅びの国も覆われて はいない」(ヨブ26章6節)とされ、「陰府も滅びの国も主の御前にある」とあるよう に(箴言15章11節)、それさえ神の御手の中、主権の許におかれてしまいました。だか ら詩編の詩人は告白しました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよ う。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこに いまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海の かなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御 手をもってわたしをとらえてくださる」と(詩編139編7~9節)。神といえども、まさ かこのような場所にはいないだろうと考えた、まさにそこにも神がおられることを知っ て、詩人は驚きます。陰府とも言うべき絶望の淵に置かれても、奈落の底に落とされて も、「見よ、あなたはそこにいます」と。いわば地獄の底で神に出会うのです。陰府とし か言いようのない苦しみの中で、神に出会うのです。しかもただそこに「いる」というだけではない、「あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもって わたしをとらえてくださる」と(同10節)。しかもそこで気づかされます。「『闇の中で も主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇 とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」と(同11、 12節)。どんな闇も、神の前では暗くない。暗黒が支配する夜も、闇の国においてさ え、光を放ち、わたしを照らし出す。なぜなら義の太陽である主が、死の国にまで赴いて くださったからです。かつて「光あれ」と呼ばわって、光を創造し、光を呼び出された方 が、闇の世界のただ中にまでも光をもたらしてくださるからです。いや光そのものである 方が、そこに来られたからです。


 そこでさらに詩編23編では、こう詠われます。「死の陰の谷を行くときも、わたしは 災いを恐れない」と(4節)。わたしたち日本人は、生を終えてさらにその先へと越えて いく死というものを「川」でイメージします。いわゆる三途の川です。古代イスラエルの 人にとってそれは「谷」でした。それはエルサレム郊外のベン・ヒノムの谷からイメージ されたものでした。王国時代には、そこはモレクに自分の子供を捧げて、火で焼いた場所 ですが(列王記下23章10節、エレミヤ7章31節)、ヨシアはそこを汚して二度と使用で きないようにし、そこをゴミ捨て場としました。そこは絶えず火がくすぶり、うじがわく 場所で、そこからゲヘナという言い方が出てきます。そこは殺戮の谷とも呼ばれた場所で すが(エレミヤ19章6節)、紀元前2世紀には地獄を意味するようになり、紀元前1世紀の第四エズラ書ではゲヘナが陰府と同一視されるようになります19。「死の陰」は「暗 黒」とも訳されるもので、「闇」とも対になる言葉で、それが死の世界と結びつけられま した20。「死の陰の谷」、それは暗黒で何があるか分からず、何が飛び出してくるかも分 からない恐怖の場所です。しかしやがてはそこを通り過ぎなければなりません。いつかは 通り過ぎなければならない死を前にして、詩人はこう詠いました。「死の陰の谷を行くと きも、わたしは災いを恐れない」。そこを通るときも心配することがない、なぜなら 「あなたがわたしと共にいてくださる」からと。たとえ誰かと手をつなぎあって死んだと しても、死は一人一人個別のことです。そしてその先がどのようなものかを誰も知りませ ん。そして死は、一人一人がいつかは経験しなければならない、けれども誰も代わっても らえない出来事です。その死を前にして、その道を通り過ぎなければならないとき、恐れ ることがない。なぜならそこでまさに死にいこうとする自分と共にいてくださる方がいる からです。自分の死を共に歩いてくださる方がいる。しかもその方は、わたしが経験する 前に死を経験し、死の状態を過ぎ行き、死の世界を歩まれた方です。死を、よく知ってお られる方、その方が「わたしの羊飼い」となって、死の先をも導いていってくださるので す。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、 憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と(同1~3節)。


 1テサロニケ5章10節ではこのように約束されています。「主は、わたしたちのため に死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生 きるようになるためです」。その前の9節にある神の「怒り」とは、1章10節ですでに 語られていた「来るべき怒り」のことで、そこでは主イエスについて、「神が死者の中 から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」と紹 介されていました。この「怒り」は、「終末的な神の御怒り、最後の審判において悔い 改めない罪人に対して加えられる決定的な神の刑罰、・・・永遠の滅亡」のことです21。 しかし神は、わたしたちをこの「怒り」、神の裁きへとお定めにはならず、むしろ「イ エス・キリストによる救いにあずからせる」ようにとお定めくださいました。10節は、 9節の最後にある「わたしたちの主イエス・キリストによる」を受けて、それを説明し ていきます。つまり「主は、わたしたちのために死にました」と。そこではキリストの 死が、「わたしたちの罪のため」であったことが明らかにされます。「パウロの手紙で パウロが『キリストの死』とわたしたちとの関係を教えているところを全体としてみれ ば、パウロがここで『キリストがわたしたちのために死なれた』というのは、『キリス トがわたしたちに代わって死なれた』ということを指していることは明らかです。・・・ キリストの死、すなわち、キリストが流された血、キリストが十字架の上で死なれた死が、わたしたちを死と滅びから救いだすために、わたしたちと引き替えに支払われた、 わたしの救いのための代償であった、ということなのです。『キリストがわたしのため に死なれた』ということは、『キリストがわたしのためのあがないとして死なれた』と いうこと、すなわち、『キリストがわたしを罪、死、滅びから救出するために、わたし に代わって死なれた』ということなのです」22。そしてそれは何のためかというと、「わ たしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるため」でした。


 ここでの「目覚めていても眠っていても」とは、「生きている・死んでいる」の比喩 的表現で、生きている者と死んでいる者との違いはないことを表します。どちらも主イエ スにある命に共にあずかることができるのであり、それは永遠に主と共に生きる生であ り、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と約束 されていきます(4章17節)。「わたしたちのためのキリストの死の目的は、わたした ちがキリストと結合すること」であり、この「キリストとの結合は、死さえもそれを冒 すことができないほど永続的な新しい関係に入ることを意味」しました23。こうして「時 の流れの中に存在する人間にとって、何よりも冷酷な現実であると思われる生と死の淵 より、さらに現実のものとして『主と共に生きる』望みが、主イエス・キリストの死と 復活によって堅く保証されてい」くのです24。だからパウロは4章13節から、この主の 再臨とそこにある希望を語る中で、この「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲し まない」ようにと勧めたのでした。こうして、次のように語れるようにされました。 「もはや、誰ひとり、一人ぼっちで死ななければならないということはなくなったの だ。まさにこの自分の死において、イエスの死を共に死に得るからである。イエスが私 たちの死を、ご自分の中に受け入れてくださったことにより、私たちの死の意味が変 わってしまっているのだ。『イエスと共に』と言うことによって、死はもはや望みなきも のではなくなった。神を軽んじていた私たちの死、神との交わりをすっかりないがしろ にしていた私たちの死を、イエスは一挙に取り除いてくださっている。一切のいのちの根 源である神から、そのように切り離されていたということにこそ、死の厳しさがあった のである。しかし、イエスが死んでくださったのちには、私たちの誰ひとりとして、そ ういう死に方をしなくて済むようになったのである」と25。使徒信条では、「陰府にく だり」という箇条がその後に続きます。この箇条も、「単にイエスが死者の場所に行か れたことを意味するだけ」のもので、「言いかえれば、それは彼がほんとうに死なれた ということの単にもう一つのはっきりした表現に過ぎ」ず、「それは『死んで葬られ』 とまったく同じことを意味している」ものでした26。そして「その意図はまさしく主イエ スは死なれたことを表すもの」であり、「真の人である主イエスは人間の行くどん底まで行かれたこと」を表すものでした27。そしてそのことは、「死がやってきたとき、私た ちはひとりぼっちではないことを知って、死に直面することができるのだという」こと であり、「イエスは、私たちよりも前にそこにおられ、私たちをいつまでも助けてくだ さる」ということを約束するものとなりました28。わたしたちも、いずれは訪れる自分 の死を前にして、しかしそこをすでに通り過ぎ、死の世界にまで赴いてくださった方が共 にいてくださって、自分の死を共に歩み、同伴してくださる、そのようにして死の先に あってもインマヌエルである方を覚えることができるのです。わたしたちの死を死んでく ださった主は、まさしくわたしたちの死に寄り添うインマヌエルです。そのことを信じ ることが、「葬られ」と告白するということなのです。


付論:「陰府にくだり」の箇条について

 ニカイア信条が「葬られ」と告白するところを、使徒信条は「死にて葬られ、陰府にく だり」と告白していることは前記しました。この「陰府にくだり」の箇条は、使徒信条の 原型であるローマ信条にも、東方の諸信条にもありません。しかしアクイレイアの信条に は保有されていました。その教会で洗礼を受けたルフィヌスは、使徒信条の講解の中で、 「ローマの信条においては信条に〈陰府に降り〉の付加はなく、東方の諸教会においても この語を加えていない」という事実を伝えます。しかしルフィヌスが洗礼を受けたのは 370年頃と考えられ、それ以前からこのキリストの陰府降下の箇条は存在したわけですか ら、新しい時代になってからの挿入というわけでは必ずしもないようです29。これより古 い信条で、この箇条が含まれているのは、359年の第4シルミウス会議の信条30と同年ト ラキヤのニケ会議の信条31、さらに359~360年のコンスタンティノポリス会議の信条で す。しかしこれらの信条は、ニカイア会議とそこで採択された原ニカイア信条に対する強 い反対を告白したものであり32、キリストの神性を否定したアリウス的立場による会議 で、そこにこの箇条が入れられたのは、キリストの人間性を強調するためのものでした 33。そのためこの箇条は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にはありません。この 箇条について、渡辺信夫氏は次のように論じます。「陰府下降の思想は一つには前項の 『葬られ』すなわち、地下に埋葬されたことから来ている。もう一つ、次項の『死人のう ちより』を死人のいるところからの意味に解することから来た。すなわち、キリストの苦 難と死の意味を更に深めるとともに、復活の効力の確認を固くするのである」と34。


 この箇条については、1ペトロ3章19~20節や4章6節と結びつけて、キリストの陰 府における福音宣教と、そこでの回心(死後回心)の可能性が語られたりする問題があ ります35。ここでこのことについて詳論しませんが、結論として森本あんり氏の言葉を引用します。「死後回心の可能性は、われわれが有限の生の中でなす信仰の決断から最終的 な真剣さを失わしめないであろうか。死んだ後でも永遠にチャンスがあり続けるなら、生 前に決断する必然性はなく、宣教の必要性も希薄になるであろう。・・・われわれの最 終的な定めは、われわれには隠されている。われわれはただ、与えられた生のあいだ、 『生けるキリスト』を信じてこれに従ってゆくことができるだけである。われわれの神 は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからである」36。




1 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、79~81頁参照。

2 吉田隆訳、『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、2005年、新教出版社、81頁

3 カルヴァン、『ジュネーブ教会教理問答』(石引正志訳)、「改革派教会信仰告白集」 I巻、2011年、一麦出版社、426頁

4 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、123頁 また渡辺、前掲書80頁参照。それは「死の確証、また復活の確かさを示す」とある。

5 渡辺、前掲書

6 カルヴァン、『ジュネーブ教会教理問答』(石引正志訳)、「改革派教会信仰告白集」 I巻、2011年、一麦出版社、427頁

7 『ハイデルベルク教理問答』問44(「陰府にくだり」条項)の言葉。上記吉田訳、84 頁

8 小高毅、『クレド〈わたしは信じます〉キリスト教の信仰告白』、2010年、教友社、 231頁

9 J.モルトマン、『イエス・キリストの道』、J.モルトマン組織神学論叢3巻、1992 年、新教出版社、265頁

10 ジョン・オドンネル、『三一の神の神秘』、ただし引用は小高、前掲書232頁から。

11 同上、233頁

12 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、121頁

13 『冠婚葬祭のなぜ?』、2005年、ニューミレニアムネットワーク、110頁

14 同上、103頁

15 ユングマン、『古代キリスト教典礼史』、1997年、平凡社、159頁

16 同上、159~160頁

17 同上、161頁

18 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信 条』、教文館、187~188頁

19山下萬里、『われ信ず 現代に生きる使徒信条』、2001年、ヨベル、156頁

20 月本昭男、『詩篇の思想と信仰』I、2003年、新教出版社、330頁

21 田中剛二、『新約聖書の終末論』、田中剛二著作集1巻、1982年、日本基督改革派神 港教会、251頁

22 田中剛二、『第一テサロニケ書 イエス・キリストの再臨を待つ教会』、1991年、す ぐ書房、313~314頁

23 レオン・モリス、『テサロニケ人への手紙』、ティンデル聖書注解、2004年、いのち のことば社、113頁

24 宮村武夫、『テサロニケ人への手紙 第一』、新聖書注解 新約3巻、1979年、いの ちのことば社、105頁

25 加藤常昭、『使徒信条』加藤常昭説教全集1巻、1989年、ヨルダン社、318頁。 訳文は違うが、同じ文章が、『使徒信条・十戒・主の祈り』上、加藤常昭信仰講話6 巻、2000年、教文館、239~240頁に所収。

26 バークレー、前掲書、154頁

27 山下、前掲書、157頁

28 パッカー、前掲書、71頁

29 渡辺、前掲書、80~81頁参照。

30 「日付信条」とも呼ばれる。本文は、同上、137~138頁。そこでは「死し、地の下に 下り、そこを管轄した。陰府の門番は彼を見ておののいた」とある。また小高毅編、 『原典 古代キリスト教思想史』2.ギリシャ教父、2000年、教文館、239頁参照。

31 本文は、同上、138~139頁。そこでは「死して、葬られ、地の下に下り、陰府はかれ を見て震えおののいた」とある。また小高毅編、前掲書、240頁参照。

32 同上、81頁参照。

33 山下萬里、『われ信ず 現代に生きる使徒信条』、2001年、ヨベル、154頁

34 渡辺、前掲書、82頁

35 それについては以下を参照。バークレー、『使徒信条新解』、1970年、日本基督教団 出版局、144~168頁。石田学、『日本における宣教的共同体の形成 使徒信条の文脈 的注解』、新教出版社、120~124頁、森本あんり、『使徒信条 エキュメニカルなシ ンボルをめぐる神学黙想』、1995年、新教出版社、72~77頁、山下、前掲書、144~ 160頁、パッカー、『私たちの信仰告白 使徒信条』、1990年、いのちのことば社、 67~72頁。

36 森本、前掲書、77頁