· 

第20講 どん底の苦しみの中で出会うインマヌエルへの信頼の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第20講:どん底の苦しみの中で出会うインマヌエルへの信頼の言葉 (1ペトロ2章24節、2012年7月22日)


【今週のキーワード:苦しむわたしを背負う主の苦しみ】

 苦しみというのは受身です。避けることができずに受けるから苦しいのです。その際た る例が召し使いで、彼らは避けることができない苦しみ、しかも不当な苦しみや苦痛に苦 しめられました。そのような彼らに、そうした苦しみに耐えた模範として十字架の主が示 されます。「不当な苦しみを受ける」中で「苦痛を耐え」た主イエスの十字架の苦しみ、 それは罪のない方が罪人とされることで受けた理不尽な苦しみでした。しかしその苦し みは、わたしたちの罪のための苦しみでもありました。こうしてご自身も理不尽な苦しみ を受けられた主イエスは、その苦しみがわたしたちのためのものであったということに よって、主イエスが受けた苦しみは、まさに理不尽な苦しみの中で苦しみ、それに耐えて いかなければならないわたしたちの苦しみでもあり、主はそれを担い、背負い、代わり に引き受けてくださった、そういう苦しみでもあったことを明らかにされました。不当な 苦しみ、理不尽な苦しみに苦しみ抜いている、そのわたしたちを主が背負い、担ってくだ さった、それが主の十字架の苦しみでした。十字架において主は、わたしたちの苦しみを 共に背負い、担うと共に、そこで苦しむわたし自身を背負い、担ってくださったのでし た。そこで「わたしの罪」を背負ってくださった十字架の主は、「わたしの苦しみ」を背 負ってくださった主であり、また同時に「苦しむわたし」をも担ってくださった主なのでした。


1.主イエスの受けた「苦しみ」の本質

 主イエスの受難についての信仰告白が続きます。主の受難についてニカイア・コンスタ ンティノポリス信条は、「ポンテオ・ピラトの時に、わたしたちのために十字架につけら れ、苦しみを受け、葬られ」と告白します。それに対して使徒信条は、「ポンテオ・ピラ トのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と告白します。両者を比較 すると、「苦しみを受け」の位置が違うことに気づきます。ニカイア信条では「十字架に つけられ」の後に来るのに対して、使徒信条ではその前です。それは小さな違いではあり ません。なぜなら、そこでの「苦しみ」の意味が違ってくることになるからです。使徒信 条では「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と、そこでの「苦しみ」はピラトの 許での裁判や有罪判決、鞭打ちといった十字架に至る出来事、いわば受難週の出来事と 結び合わされているのに対して、ニカイア信条では「十字架につけられ、苦しみを受け」と、その「苦しみ」がダイレクトに十字架と結び合わされています。加藤常昭氏は、この ように「『苦難を受け』が『十字架につけられ』のあとに来ることによって、主の苦しみ が十字架に集中して理解されていることを明示している」と指摘します1。


 こうした信条における主イエスの「苦しみ」とは、どのようなものであるかということ については、様々な理解があります。『ハイデルベルク教理問答』では、この「苦しみを 受け」という条項について、「キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけそ の終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということで す。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と 魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得して くださるためでした」と答えます(問37)2。つまり『ハイデルベルク教理問答』では、 主イエスの「苦しみ」が、「その地上での御生涯のすべての時」のものであると理解しま す。主イエスは、公生涯において多くの御業を為し、多くの教えを語られました。しかし そこでの働きにおいて様々な無理解や中傷や妨害に出会い、難渋されました。なにより神 の御子でありながら人間となり、しかも無力な赤子となってお生まれくださいましたが、 その主を迎え入れる者はなくて家畜小屋で生まれなければならず、むしろ命を狙われてエ ジプトへと逃避しなければなりませんでした。主はそのご生涯の最初から「苦しみを受 け」てこられたということができます。こうして受肉、誕生から十字架に至る主のご生涯 のすべてが「苦しみ」であり、それは受難のご生涯であられたのでした。このことについ てファン・リューラーは次のように語ります。「『イエスは神の小羊として「全人類の罪 に対する神の怒り」を、それも飼い葉桶から十字架にまでいたる「ご自身の全生涯を貫い て」担われた』と。それゆえイエスの生涯は苦難によって貫かれ、浸透されています」と 3。このように主イエスは、「そのご生涯のどんな時、どんな部分を取ってみても、皆 『苦しみを受け』という言葉で語られるようなご生涯であった」のであり、そのご生涯 は「苦しみを受け」という一句において総括されているということができます4。このよ うに「主イエスのすべての歩みの一つ一つが苦しみの一語をもって表すことができたのだ ということであり」5、「主イエスが苦しみを受けられた、その生涯を通じて苦しみを受 けられたということは、その生涯を通じて苦しみを受け入れる、それだけの為に生きた ということ」なのでした6。


 それに対してカルヴァンは『ジュネーブ教会教理問答』の中で、使徒信条が受肉からす ぐに受難に至ることについて、「なぜ、生涯のすべての歴史を省いて、降誕から直ちに死 に移るのですか」という問いを立て、それにこう答えます。「ここでは、わたしたちの贖いの本質に、本来的にかかわることしか語られないからです」と(問55)7。そこでは主 の「苦しみ」は、生涯全体にわたるものであるというよりも、「わたしたちの贖いの本 質に本来的にかかわること」として、贖いの御業としての十字架に焦点が当てられていま す。つまり主の「苦しみ」は十字架であったと。しかしこのカルヴァンの理解と『ハイデ ルベルク教理問答』は、必ずしも対立するものではありません8。なぜなら『ハイデルベ ルク教理問答』も、「キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わり において、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた」として、その焦点をやは り十字架に見ているからです。主イエスの「苦しみ」は、受肉から始まるそのご生涯全体 におよぶものですが、とりわけその最後である、わたしたちの贖いのための十字架に、そ の焦点があります。十字架での苦しみ、それが主イエスの「苦しみ」の中心であり、その 本質だったと言うことができます。なぜなら、そもそも主のご生涯のすべて、そこでの御 業も御教えも、そのすべては十字架を目指し、十字架に至るためのものだったからでし た。それらのすべては、わたしたちの罪からの贖いとしての十字架に集約されていくもの でした。主イエスのご生涯に関心を寄せて、その御業と御教えを記録する福音書自身、 「長い序文付きの受難物語」(マルティン・ケーラー)と評されるように、それらのすべ てが十字架に焦点を当てられたものであることを明らかにしています。十字架における罪 の贖いこそ、信条が「苦しみを受け」と告白する、主イエスの「苦しみ」の本質でした。 そしてその「苦しみ」の極みこそ、前講で考えた、主の十字架上での「わが神、わが神、 なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びでした。そこで主は、父なる神か ら徹底的に裁き尽くされ、呪い尽くされ、打ちのめされたのであり、わたしたちの罪に 対する神の裁きと怒りと呪いとが余すことなく主の上に注ぎ尽くされた上で、父によって 棄て去られていったのでした。そこでご自分の上に降された父なる神の呪いと裁きのあま りの激しさと厳しさと過酷さのゆえに、思わず口走った叫びこそ、「わが神、わが神、な ぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びなのでした。それは全人類の罪とその ための神の裁きと呪いとを一身に引き受けて、神の怒りのうちに徹底的に断罪されたこと の「苦しみ」でした。


2.「不当な苦しみ」を耐えられた模範としての主の十字架

 こうして主は「わたしたちの罪のために死に渡され」たのであり(ローマ4章25 節)、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わ たしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5章21 節)。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪 を罪として処断されたのです」(ローマ8章3節)。このことによって、「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄 し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ2章13、14 節)。この主を三度裏切ったペトロは、その自分の罪をも含めて主が自分たちの罪のた めに死んでくださったことこそ、十字架であったことを理解して、次のように告白しまし た。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいまし た。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」と(1ペ トロ2章24節)。このペトロの言葉は大変有名で、主イエスの十字架の意味を説き明か すとき、必ず開く箇所の一つです。しかしこのペトロの言葉は、ただ単に主の十字架のこ とだけを語るのではなく、無慈悲な主人に仕えることを強要されている召し使いに対する 勧告の中での言葉であることに注意する必要があります。彼らは、「善良で寛大な主人」 だけではなく、「無慈悲な主人」に仕えなければならない場合もありました。そこで彼 らは「不当な苦しみを受け」、「苦痛を耐え」なければならないこともありました。苦 しみというのは受身です。受けるものだから苦しいのです。自分から進んでそれを求めた というのではなく、できれば避けたいのに避けることができずに受けるもの、逃げるこ とができないから苦しいのです。苦しみのつらいことは、自分がそれを願ったり、欲して 与えられるものではなく、逃げることができずに、受けざるを得ないというところにあり ます。その際たる例が召し使いであり、僕や奴隷です。彼らは避けることができない苦し み、しかも「不当な苦しみ」や「苦痛」に苦しめられながら生きています。しかしそのよ うに彼らが受けなければならない「不当な苦しみ」や「苦痛」は、彼らに対する神の 「召し」だと語るのです(同18~20節)。それは、同じように避けられない苦しみにあえ ぐわたしたちにも語られていることではないでしょうか。自分が好き好んで病気になるわ けではありません。しかし思いもかけない大病に見舞われ、その治療のために本当に時 間もお金も労力も使い尽くします。それでもなかなか良くなりません。他人からもたらさ れる問題に苦しめられ、悩まされることもあります。こちらがどんなに親切にしても、何 が気に入らないのか、自分に突っかかってくる人がいます。どうしてそんなに自分につら く当たるのか、理不尽に思うこともあります。そうして苦しむわたしたちに、ペトロは語 ります。その苦しみは神から与えられた苦しみで、それは神からの召しだと。「苦しみ」 が自分では避けられないものとして与えられるとき、そこでわたしたちは、その苦しみに 召されているということです。わたしたちは思いもかけない病気に苦しみます。自分では どうしようもない問題に巻き込まれて苦しみます。いつまでも解決できない家族の問題に も悩まされます。どうしてそうした問題や悩みに苦しめられるのか、その理由は分かりま せんし、その意味もすぐには納得できないでしょう。しかしその「苦しみ」が主によって もたらされるものであるなら、逃れの道も必ずあることが約束されています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な 方です。あなたがたを耐えられない試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに 耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と(1コリント10章13節)。


 しかしそれでもそんな召しはいらない、欲しくないと思うわたしたちに、語りかけてき ます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐 えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んで も、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、 これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです」(1ペトロ 2章19節)。「あなたがたが召されたのはこのためです」と、病気であれ他人から被る 問題であれ、その苦しみは神からの召しだと言い、その上でそのような苦しみに耐えた 模範として、十字架の主イエスを示します。「あなたがたが召されたのはこのためです。 というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模 範を残されたからです」(同21節)。それはどのような模範であったかというと、 「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもの のしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりまし た」(同22~23節)。苦しみに悩まされているとき、わたしたちは自分一人が苦しんで いるかのように思います。誰も自分の苦しみを分かってくれない。自分の苦しみは誰も分 かりはしないと、まるで悲劇のヒロインのような気持ちに落ち込んでしまう。そういうわ たしたちにペトロは勧めました。主イエスこそ、そうだったのではないのかと。主こそ 「不当な苦しみを受け」て「苦痛を耐」えた方ではなかったか。理不尽な扱いを受けて、 苦しまれた方ではなかったかと。そうして、自分一人が苦しんでいると苦しみのどつぼに はまりこむわたしたちに、主もあなたの苦しみを共に担ってくださっていることへと目を 向けさせていくのです。そこで一人苦しみ、一人悩む、そのあなたの苦しみを共に背負っ てくださっているのではないかと、自分へと向けられたまなざしを、主へと向けかえらせ ていくのです。主ほど理不尽な扱いを受け、不当な苦しみに苦しまれた方はいないではな いか、その主が、あなたが受けている理不尽な苦しみをあなたと共に受け、あなたを支え てくださっているではないかと。しかもそこで苦しんでいるあなたは、正義に満ちた人間 か、相手に対しても、そこで抱える問題についても、あなたには何一つ非がないなどと言 えるか、それぞれが自分の非を持ち、そのゆえに被っている問題や苦しみなのではない か。そうしたあなた自身の罪と失敗、弱さと欠けのためにも、主は苦しみを受けられた のではなかったか。そうして主は、あなたのために十字架にかかってくださったのではな いのか。罪を犯して、その失敗に苦しみ、自分が蒔いたものを刈り取らなければならない、そのあなたの罪のために、主は十字架にかかって、理不尽な扱いを受け、不当な苦し みを背負ってくださったのではないかと。そう問いかけながら、ペトロは語るのです。 「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わ たしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになっ た傷によって、あなたがたはいやされました」と(同24節)。ここで言う罪とは、今自 分が受けている苦しみの原因となる罪であり、失敗であり、欠けでもあります。そうした 罪のために、今自分は罪の結果として、苦しみを刈り取っている。しかし主はその罪のた めにも十字架にかかってくださったのでした。主イエスの十字架の苦しみ、それは罪のな い方が罪人とされたことで受けた理不尽な苦しみでした。しかしそれだけではなく、そ の「苦しみ」とは、他でもない、わたしたちのための苦しみでした。わたしたちの罪の ための苦しみであり、その罪を取り除くための苦しみでした。こうして主イエスは、ご自 身も理不尽な苦しみを受け、それに耐えられただけではなく、その苦しみはわたしたちの ものであったということによって、主イエスが受けた苦しみは、まさに理不尽な苦しみの 中で苦しみ、それを耐えていかなければならないわたしたちの苦しみを担い、背負い、代 わりに引き受けてくださった、そういう苦しみであったことを明らかにするのです。時と して、これは不当だ、理不尽だと思うような深く重い苦しみを通り抜けなければならない わたしたちの、その不当な苦しみ、理不尽な苦しみに苦しみ抜いている、そのわたしたち を主が背負い、担ってくださったということです。それが主の十字架の苦しみだったので した。十字架において主は、わたしたちの苦しみを共に背負い、担うと共に、そこで苦し むわたし自身を背負い、担ってくださったのでした。ここで「わたしの罪」を背負ってく ださった十字架の主は、「わたしの苦しみ」をも背負ってくださった主であり、また同時 に「苦しむわたし」を担ってくださった主なのでした。


3.人性の不条理の中でのわたしたちの叫び

 十字架こそ、主イエスがわたしたちのために「苦しみを受け」てくださった、その「苦 しみ」の本質でした。そしてその「苦しみ」の極みこそ、主の十字架上での「わが神、わ が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びでした。そこで主は、父な る神から徹底的に裁かれ、呪われ、打ちのめされました。それはわたしたちの罪と神の 裁きと呪いを一身に受けて、怒りのうちに徹底的に断罪された「苦しみ」でした。このこ とについて賀来周一氏は、『キリスト教カウンセリングの本質とその役割』というブック レットの中で、次のように記しています。「キリストは十字架上で果てられるとき、『わ が神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれたとあります。神の子 が神から見捨てられたのです。これほどの不条理はありません。キリストは不条理の極みにご自身を置かれたのです。キリストは不条理の極みにご自身を置かれることで、わたし たちが不条理の極みに立つとき、共にいてくださる方だということを、十字架のキリスト を通してわたしたちは知ることができるのです。キリストが十字架の上で叫ばれた『わが 神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という言葉は、本来不条理のさ なかにいるわたしたちが叫ぶべき言葉です。わたしたちの言葉をキリストが代わって叫ん でくださる、そのような出来事が十字架において生起していると言うべきです。そこに は、不条理のさなかにいて『わたし』が問う『なぜ』をキリストが問うておいでになるの です。・・・『共に苦しむ神』の姿をありありと見る思いがするのではないでしょうか。 旧約、新約を通じて、聖書の奥底に流れる信仰は『インマヌエル(神共にいます)』なる 神を信じる信仰です。わたしたちは不条理の極みにおいて『インマヌエル』なる信仰の具 現化をキリストの十字架に見ることになるのです」9。「わが神、わが神、なぜわたしを お見捨てになったのですか」という叫びは、キリストが十字架で叫んだ叫びである以上 に、実はわたしたちの叫びだというのです。わたしたちは、人生において様々に受ける不 当な苦しみや苦痛の中で、「なぜ」「どうして」と神に訴えます。どうしてわたしがこの ような病気にならなければならないのですか、なぜあなたはこのような問題に出遭わせ てわたしを苦しめられるのですかと、わたしたちは無数の「なぜ、どうして」を繰り返し ます。そうした問いの中で、最も深い問い、それが「わが神、わが神、なぜわたしをお見 捨てになったのですか」という問いではないでしょうか。祈っても祈っても、問題が解決 されていかない、病気が治らない、その苦しみの中で、自分は神に見捨てられてしまった のではないかと考えます。しかしそれでもなお神に祈り、必死で解決を求めます。癒しを 願います。しかしそこに神からの答えがありません。自分の祈りに、自分の問いに、神は 何も答えてくださらない、そこでわたしたちはいっそう苦しみ、もがきます。まさに不条 理です。何よりの不条理とは、神が何も答えてくださらないということではないでしょう か。そこでわたしたちはもがきながら、呻くのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお 見捨てになったのですか」と。


 このことについて石田学氏は次のように記します。「世界は不条理である。不条理な世 界のゆえに、苦難を負うとき、人々は神に向かって密かに、あるいは大声で叫ぶのであ る。『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と。十字架の上でイエ スはもっとも深い淵の底に降った。『なぜわたしをお見捨てになったのですか』と叫ん だ十字架上のイエスに対して、神は答えを与えてはいない。そもそも、この問いには答え がない。答えがないからこそ、苦難は不条理である。神を必要とするその瞬間に、神が沈 黙し、臨在を示そうとしないからこそ、苦難は不条理である。しかし神は人となることによって、文字通り人間の直面するもっとも過酷な苦難を体験した。神の御子は、どれほど 『なぜ』と尋ねても答えを得ることのできない苦難と死を体験したのである。イエスは天 上にいて苦難とは無縁の高みから人間を見下ろす神ではない。わたしたちがもっとも過酷 な苦難を体験しているとき、苦難への共感をもって、『必ずそこにいまして助けてくださ る』(詩46:1)、わたしたちと連帯してくださる神なのである」10。同じことをロッホ マンも語ります。「イエス・キリストの『共苦性』、イエスが共に苦しみ、共に忍び、共 に戦うことを問題にしている。このことから最後の言葉は、約束である。私たちは苦難に よって孤独であるのではないし、また『苦難に苦しむ』ことをひとりだけでしているので もない。神御自身が私たちと共に、私たちのために、神の子の人生行路において、被造物 の苦難を苦しまれたのである。共に苦しむことに何の保証もなく引きずりこまれたの は、彼が無感覚な苦しまない神ではなかったからである」11。また「われわれと共にいま す神は我々の生と死との歴史のむこう側におられるのではなく、今日ここに、罪と疎外 の制約の真只中に、私たちの良い時も悪い時もいましたもうのである」12と。さらにファ ン・リューラーも次のように語ります。「私たちは救い主、私たちのために苦しむ神の御 子を知っています。彼は、たとえ私たちが全世界から見捨てられようとも、常に私たちの 傍らにいます。このことがすでに、あらゆる苦難において計り知れない慰めを与えます。 イエスがあらゆる苦悩する人びとと連帯していることは、また私たちがあらゆる苦難のた だ中で希望を持ってよいということ、そして私たちも彼のように死をも通り抜けて行くと いうことを意味しています。苦難を自発的に受け取り、担うイエスは、私たちのために、 個々の人間のために、また全人類のために将来を切り開いています」と13。


4.最も深い淵におけるインマヌエルとの出会い

 石田氏は、「十字架の上でイエスはもっとも深い淵の底に降った」と述べました。そし てこの方が、まさにその十字架の上で語られた言葉こそ、「わが神、わが神、なぜわたし をお見捨てになったのですか」という言葉でした。それは、まさしくわたしたち自身の 言葉ではないでしょうか。理不尽な苦しみと不当な苦難の中で、わたしたちが呻く言葉、 神からも捨てられたという、深い孤独と絶望の中から絞り出すようにして出てくる思いで す。しかしそれを神の子が代わりに言ってくださったのです。代わりに訴えてくださった のです。代わりに祈ってくださったのです。そうして、まさにその十字架において、理不 尽な苦しみと不当な苦難にあえいで苦しみ、このわたしを背負い、担い、そこから救って くださいました。ですからわたしたちは信じることができるのです。たとえ自分がどれほ ど深く、どれほど大きな苦しみに出遭うとも、これほどの苦しみはないと思うほど深く、 自分はどん底に落とされて苦しんでいるとしても、実はそれは本当のどん底の一つ手前の苦しみに他ならないということを。自分では自分が最底辺のどん底に落とされてあえいで いると思っても、実はそれはどん底の一つ手前の苦しみにすぎないということです。なぜ ならどん底にいると思う、その自分を、まさにそこで支えてくださっている方がいるから です。ここは最底辺だと思う自分が、もうこれ以上は落ちることがないようにと、そのわ たしの下にいて、下から支えてくださっている方がいるのです。その方が、わたしのどん 底の苦しみを背負ってくださっている。わたしの最底辺の悩みを担ってくださっている。 そうして苦しみ、悩むわたし自身を、下から支えてくださっているのです。そのために主 は、どん底にいるわたしの、その下にまで降りてくださったのです。だからたとえ自分 は、この世でどん底だと苦しんだとしても、それは本当のどん底の一つ手前にすぎないの です。まさにその地獄の底で、主がわたしを背負ってくださっているからです。それが十 字架なのです。そしてその十字架において主は、わたしのために「苦しみを受け」てくだ さいました。その「苦しみ」とは、神にまで捨てられたと苦しみ悩む、そのわたしの苦しみであり、そのわたしの「苦しみ」を代わりに受けてくださり、そのことによって、そ こで苦しみ悩むわたし自身を背負ってくださったのでした。


 詩編の詩人は告白しました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよ う。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこに いまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海の かなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御 手をもってわたしをとらえてくださる」と(詩編139編7~9節)。詩人は、神といえど も、まさかこのような場所にはいないだろうと考えた、まさにそこにも神は共におられ ることを知って、驚きます。陰府とも言うべき絶望の淵に置かれても、奈落の底に落とさ れても、「見よ、あなたはそこにいます」と。いわば地獄の底で神に出会うのです。陰府 としか言いようのない苦しみの中で、神に出会うのです。しかもただそこに「いる」とい うだけではない、「あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手を もってわたしをとらえてくださる」と。ですからわたしたちは、自分がこれ以上の試練は ないと思うような苦しみの中で悩むとき、この信条の言葉を思い出すべきです。これほど 深い悩みはないと思うような苦しみの中でもがき悩むとき、この信仰の言葉を口ずさむ のです。主は「わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け」と。なぜなら主 は、その十字架において、わたしの苦しみを背負い、わたしの悩みを担ってくださったか らです。そして今も多くの苦しみと悩みの中で立ちすくむ、このわたし自身をも背負い、 担ってくださっているからです。それが「わたしたちのために十字架につけられ、苦しみ を受け」と告白することなのです。そしてそこで十字架の主、わたしのために、またわたしの代わりに十字架につけられた主こそが、インマヌエルであることを知るのです。それ を本当に知るのは、不条理な苦しみと理不尽な苦難におちいり、自分は神に捨てられた と絶望する、その陰府においてです。そしてそこで味わい知るのです。「主の受けぬ試み も、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにもみ跡見ゆ」ということを (讃美歌532番2節)。


付論1:ポンテオ・ピラトの条項について  

 ニカイア信条は、「ポンテオ・ピラトの時に、わたしたちのために十字架につけら れ、苦しみを受け」と告白し、使徒信条も、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、 十字架につけられ」と告白して、主イエスの十字架にポンテオ・ピラトと言う人物が関 わったことを証言します。ポンテオ・ピラトは、皇帝ティベリウスの時代、ローマ帝国の 属州であったシリア州の一部であるユダヤを治めるために遣わされた地方総督で、26~36 年までの間ユダヤを支配しました。言葉を極力切り詰めた信条にこの人物が記され、そ の名が告白されるのは、彼がそれにふさわしい人物だからではありません。しかしこれ までの教会の歴史の中で、彼の名前を繰り返し告白されていきました。マタイ福音書に は、ピラトが主イエスを裁いている時、「あの正しい人に関係しないでください。その人 のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」という伝言を妻がしたことが記さ れています(27章19節)。その夢の中身は不明ですが、イギリスの作家ドロシー・セイ ヤーズは、「王たるべく生まれし人」というラジオ放送劇の中で、このピラトの妻の夢に ついて語ります。「この女は夢の中で、この『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』 という言葉が、あらゆる国の言葉で、幾世紀にもわたって叫ばれるのを聞いた」と14。そ の正否はともかくとしても、悪名高きこの人物の名が、聖なる信仰告白の中に入っている こと自体、奇妙なことと言わざるをえません。東方の信条においては、このポンテオ・ピ ラトについての言及は比較的遅く、4世紀後半のものとされる信条などに登場しますが、 それ以前の信条には登場しないようです15。しかし使徒信条の元になるローマ信条におい ては、すでに告白されていて、西方の信条においてはピラトの名はなくてはならないもの として告白されてきたようでした16。いずれにしてもピラトは、主イエスの受難、とりわ け十字架と結びつけて告白されてきたのでした。そしてそのことについて、二つのことを 述べる必要があります。


 それは第一に、主イエスの十字架が歴史の中で確かに実現した出来事であり、神の救い が無時間的で抽象的なものではないということを明らかにするということです。ピラトへ の言及によって、「キリスト教の信仰がはっきりと歴史的な次元を有し、主イエスが文字通り歴史のただ中に、しかも権力へのあくなき欲求と人間の罪がうずまく世界のただ中 に来たりたもうたこと」を示すということです。それは「救いの歴史の場は、安全で理想 的な世界史の外側にあるのではなくて、政治や経済、社会の状況のからみついた日々の生 活のまさに中心に存する」ということです17。このことについてロッホマンは、「ポンテ オ・ピラトを指摘することによって強調されているのは、救済史は世界史の外で、隔離さ れた傷なき理想の領域でおこるのではないということである。それは日常の平凡な状況 や生活環境の只中にかかわっているのである。『信条の中のピラト』は、キリストの出来 事を歴史的に『位置づけ』日付けをいれることを通じて・・・理屈ぬきに信仰の『十分 な歴史的関連性』を確保する」と述べます18。そしてそれは「古代教会のキリスト仮現論 の誘惑との格闘という枠組みの中で理解」されるものだと指摘します19。その誘惑とは、 「イエスの歴史の歴史的・物質的かつ人間的・人格的な現実性を緩和し、それを象徴的な 外見に還元する」というものでした。なぜなら「イエス・キリストの完全な人間性を主張 することは、その時代の精神史的文脈においては、神の子の神性を主張するよりも、容易 なことではなかった」からでした20。そこでピラトに言及するのは、「イエス・キリスト の全き人間存在を-そしてキリスト教信仰の現実的関連性を裏づけるもの」だと言うので す21。なぜなら、「もしキリストが完全に人となられなかったならば、-受難され、死 に、十字架にかけられ、葬られることがなかったならば-わたしたちの信仰はむなし い。キリスト教信仰の現実的関連性は、イエス・キリストの完全な人間性に-神が人間と なられたことに-存亡がかかっている」からです22。


  もう一つは、主イエスの十字架の死の意味についてです。「イエス・キリストの受難 は、『ポンテオ・ピラト』という固有名詞のうちにすでに含まれている。ピラトは、それ ほどまでにイエス・キリストの受難と不可分である。キリストは、ただ苦しめばよかった のではない。ただ死ねばよかったのではない。『ポンテオ・ピラトのもとに』苦しみ、 死なねばならなかったのである。・・・イエス・キリストはたんに『苦しみ』『死ぬ』の ではなく、『ポンテオ・ピラトのもとで』苦しみ、死なねばならなかった。総督の公の 有罪宣告によって、悪人たちの数に入れられ、罪人として死なねばならなかった。しか も、その同じ総督ピラトによって同時に『わたしには、この人になんの罪も見いだせな い』(ヨハネ18章38節)と宣言されつつ死なねばならなかったのである」23。カルヴァ ンは『ジュネーブ教会教理問答』において、「どうして、ただ一言、かれは死んだと言わ ずに、ポンティオ・ピラトに言及し、この人のもとで苦しみを受けたと言われるのです か」という問いに、「それは単にわたしたちに歴史の確実性を保証するためだけではな く、かれの死が有罪宣告を伴っていることを意味するためです」として(問56)24、さらにこう続けます。「かれはわたしたちが負うべき刑罰を受け、そのことによってわたした ちを刑罰から免れさせるために死んだのです。なぜなら、わたしたちは神の法廷におい て、悪人として有罪ですので、わたしたちが天の法廷で無罪宣告を受けるために、主はわ たしたち自身の代表として、地上の裁判官の前に出頭し、その口から有罪宣告を受けるこ とを望んだのです」(問57)。そして「同一の裁判官の宣言によって公式に有罪宣告を受 け」たわけですが、そのように「有罪宣告を受けることによって、真にわたしたちの保証 人であることを示すためでした」(問58)と答えていきます25。


 主イエスが、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、裁判を受けられたとき、そこで は何度も主イエスに罪はないことが明らかにされながら、しかも有罪判決を受けて、処刑 されました。罪のない神の子が法廷で裁判を受け、その判決によって死刑を宣告され、そ れに基づいて処刑されたのです。神の子はリンチで殺されたのではなく、法律に基づく裁 判で、法廷によって処刑されましたが、それは、神の子がわたしたち人間の罪を担い、そ の身代わりになって処罰されたことが明らかになるためでした。このピラトの法廷は、神 の法廷です。裁判官は神ご自身であり、その被告人席にはわたしたちが座らなければなり ませんでした。しかしその席に主イエスが座り、わたしたちの代わりに裁かれて罪に対す る刑罰を受けられたというのです。こうして、わたしたちが本来受けなければならない神 の裁判を、主イエスが代わって受けてくださったということをはっきりと表わすため、主 はピラトの法廷に臨まれ、そこでの断罪に服せられたのです。法廷の裁判による有罪判決 の処刑、それが主イエスの十字架の死でした。ピラトが主の十字架と関係づけられていく のは、このように主がピラトの前で裁判を受けられたことによって、神の裁きの前で有罪 であるはずのわたしたちを代理して、わたしたちの代わりに主が有罪宣告を受けることに より、「わたしたちが天の法廷で無罪宣告を受ける」ということを明らかにし、またそ れを保証するためでした。「ここでは神は、このピラトの裁判を通じて主を裁き、そして 私どもを裁かれたのであります。・・・ピラトの裁きが神の裁きでありました。ピラトに 裁かれることによって主イエスは、私どもの罪に代わって裁かれたのです」26。「かくし てイエス・キリストが『ポンテオ・ピラトのもとに』苦しみ、死にたもうたということ は、その生が『処女マリヤより』始まったということと同様に欠くことのできない信仰 箇条」となりました。こうして「イエスの生涯は、マリヤとピラトという二つの固有名詞 によって区切られている」27ということができます。「マリアはイエスの誕生に直接かか わった女。ピラトはイエスの死に最終的な役割を負わされた男。この二人は、イエスの人 間としての生と死にそれぞれ深く関係させられた者」だからです28。


付論2:「わたしたちのために苦しむ神」について

 関川泰寛氏は『ニカイア信条講解』の中で、「神の御子が苦しむという聖書の証言は、 古代の神学に大きな問題を提起した」ことを明らかにします。ニカイア信条において問題 となった「アレイオス主義は、ある意味でこの聖書の証言を真剣に受けとめながら、合理 的な解決を求めて、御子は御父より劣った存在であると結論づけた」わけですが、それは アレイオスが、「至高なる『苦しまない神』の存在を保つために、劣化した御子の神性に 神のロゴスが場を占めることによって、救済が可能になると考え」たからでした29。その ことはすでに第16講で指摘したことなので、それを参照していただきたいと思います。ア レイオスは、御子が神であることを認めることをせず、「神の完全なる被造物」としまし た。アレイオスがそのように考えた理由は、「御子の苦しみと十字架への歩みが、御子の 神性の劣化した様態の結果である」と理解したからですが30、その背景には、神を「不動 の一者」とする当時のギリシア哲学の神についての考え方がありました。それによれば、 神とは何ものによっても動かされることがなく、変化させられることもない唯一の存在 で、他を動かしたり、変化させることはあっても、神が他のものによって動かされたり、 変化させられることはありえないということでした。もしそうであれば、それは神では ありえないわけで、だから神が人間によって心を動かされることはありません。たとえ人 間の苦しみをご覧になっても、それによって神が苦しまれたり、悲しまれたりすることは ないのです。もし神がわたしたちの苦境をご覧になって苦しまれるとしたら、それはもはや神ではないからです。しかし主イエスはわたしたちのために苦しんでくださいました。 そしてわたしたちのために十字架にかかって苦しまれました。だからアレイオスからすれ ば、苦しむ御子は、神であるはずがないということになるのです。


 しかしそれに対して聖書が語る神とは、わたしたちの苦難をご自分のものとし、わたし たちを背負ってくださる神でした。わたしたちが信じる神とは、わたしたちの苦しみを見 てくださり、それに心を痛めるだけではなく、その苦しみを共に担ってくださり、それを ご自分の苦しみとして助けてくださる方です。その神が、御自身の愛する御子をお遣わし くださいました。そしてその御子も、天の栄光の座を捨てて、「わたしたち人間のため に、またわたしたちの救いのために天から降り」、人となって十字架にかかり、わたした ちのための贖いを成し遂げてくださった方でした。そしてその十字架において、わたした ちの苦しみを共に背負ってくださっただけではなく、そこで苦しみ悩むわたしたち自身を も背負ってくださいました。神が、また御子が、ここまでしてくださったのは、わたした ちを十把ひとからげにではなく、一人一人として大切にしてくださり、そこで苦しみ悩む わたしたち一人一人の悩み苦しみの一つ一つを、ご自身のものとするためでした。これまでも引用したオリゲネスの言葉をもう一度にれはみましょう。「(救い主は)人類を悲し み憐れむために地上に降りてこられたのであり、十字架の苦しみに耐えてわれわれの肉を 帯びてくださるほどに、自らわれわれの苦難を負われた。・・・われわれのためにあらか じめ被ってくださったこの苦難はいったい何だったのか。それは愛の苦難である。・・・ 御父ご自身・・・人間の苦難を経験しておられることを、あなたは今知っているだろう か。『あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたの性質を背負ってくださった』 (申命記1章31節)。それゆえ、まさに神の御子としてわれわれの苦難を負われたよう に、神はわれわれの性質を背負われたのである」31。「この方はわたしたち人間のため に、またわたしたちの救いのために天から降り、・・・わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け」と告白するたびに、このようにわたしたちの苦しみを背負い、 また苦しむわたしたちを背負ってくださる御子と、その御子をお遣わしくださった御父に 対して、心からの感謝と讃美をささげていきたいと思います。




1 加藤常昭、『ニケア信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白』加藤常昭説教全集29 巻、2006年、教文館、243頁

2 吉田隆訳、『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、2005年、新教出版社、75頁

3 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信 条』、教文館、159頁

4 加藤常昭、『使徒信条』加藤常昭説教全集1巻、1989年、ヨルダン社、282頁

5 同上、283頁

6 同上、284頁

7 カルヴァン、『ジュネーブ教会教理問答』(石引正志訳)、「改革派教会信仰告白集」 I巻、2011年、一麦出版社、423頁

8 カール・バルトは、二つの使徒信条講解の中でこの点を指摘し、「カルヴァンの生時の 生徒たち、つまりハイデルベルク信仰問答の著者たちは、ここでその師よりも深く洞察 しているのみならず、とりわけ聖書注解的立場から一層正確にみている」とする。『わ れ信ず 使徒信条に関する教義学の主要問題』、2003年、新教出版社、69頁以下;ま た「この『苦しみを受け』という条項で始まる事柄は、イエスの生涯全体における問題 だと、私は考える。どんな偉大な先生であっても、その弟子の方がしばしば先生よりも 一層良く物事を見るという愉快な一例を、われわれは、このカルヴァンの場合に、眼に するのである」とも述べている。『教義学要綱』、1993年、新教出版社、125頁

9 賀来周一、『キリスト教カウンセリングの本質とその役割』、40~41頁

10 石田学、『日本における宣教的共同体の形成 使徒信条の文脈的注解』、新教出版 社、116~117頁

11 ロッホマン、『講解・使徒信条 キリスト教理概説』、1996年、ヨルダン社、185頁

12 同上、199頁

13 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信 条』、教文館、157~158頁

14 バルト、『教義学要綱』、134~135頁;同じことをロッホマンも言及する。前掲書、 173~174頁、

15 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、170~171頁参照。

16 森本あんり、『使徒信条 エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』、1995年、 新教出版社、67頁

17 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、118頁 18 ロッホマン、前掲書、175頁

19 同上、174頁

20 同上、169頁

21 同上、174頁

22 同上、170頁

23 森本あんり、前掲書、67~68頁

24 カルヴァン、『ジュネーブ教会教理問答』(石引正志訳)、424頁

25 同上、425頁

26 加藤常昭、前掲書、260頁

27 森本、前掲書、68頁

28 岩永隆至、『信仰告白としての使徒信条』、2005年、聖恵授産所出版部、54頁

29 関川泰寛、前掲書、122頁

30 同上、97頁 31 A.E.マクグラス編、『キリスト教神学資料集』上、2007年、キリスト新聞社、 443~444頁