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第16講 わたしたちのための救いに対する感謝の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第16講:わたしたちのための救いに対する感謝の言葉 (フィリピ2章1~11節、2012年5月6日)


【今週のキーワード:わたしたちのための神】

 ニカイア信条は御子について、「この方はわたしたち人間のために、またわたしたちの 救いのために天から降り」と告白します。神がわたしたちに御子をお遣わしくださること で、救いを実現してくださったことの恵み深さを、改めて覚えさせられる言葉です。この 一節は、永遠なる神の救いの意志と神の存在が、わたしたちに向けられたものであるこ とを明らかにします。わたしたち人間のために、神の御子の受肉は起こされたのでした。 そして神の栄光に輝く御子が、謙卑の姿でわたしたちの許においでくださったことを、 「天から降り」という一句は表します。こうして「神性にふさわしい栄光の位置」から、 「神の御子が、人間の困窮せる現実に、人間の罪の深淵にまで来られた」ことを告白して いきます。御子はわたしたちのために「地上に降りてこられたのであり、十字架の苦しみ に耐えてわれわれの肉を帯びてくださるほどに、自らわれわれの苦難を負われ」ました。 そしてそのことにより御父も「人間の苦難を経験しておられ」ます。「まさに神の御子と してわれわれの苦難を負われたように、神はわれわれの性質を背負われた」のです。この ように、わたしたちのために栄光の座を捨て天から降り、人となって贖いを成し遂げてく ださった神の独り子と、この御子をわたしたちにお与えくださることによって、御子と共 にわたしたちの苦しみを共に背負ってくださった御父に対して、心からの感謝と讃美を献 げていきましょう。


1.一人一人がそれぞれに抱える一人一人の問題

 5月3~5日は、名古屋岩の上伝道所のボランティア活動に参加させていただきまし た。今回は、これまでの5回の活動で関わってきた3箇所の仮設住宅に住む子供たちを、 太陽の村という公園に連れていって、一日中自由に遊ばせてあげようという活動でした。 児童が15名と保護者3名に、こちらのスタッフが17名ですから、ほぼ一人に一人が対応 する形で、事故なく怪我なく楽しい時間を過ごすことができました。夫婦で来ていた若い 保護者の方も、子供そっちのけで二人でキャッチボールをしたり、サッカーをしていて、 「夫婦でいいですね」と声をかけたら、「仮設住宅はともかく狭いので」という声が 返ってきました。場所的にもそうですが、色々な意味で窮屈さを覚えさせられておられる ことが、よく分かりました。その分、子供たちは本当に伸び伸びと遊ぶことができて、良 かったと思います。けれどもそうして子供たちと接している、何気ない会話の中に、子供たちなりに未だに抱えている心の傷というものを垣間見させられることがありました。鬼ごっこをしていて、ふと暗がりに来ると、急におびえるとか、まるで何事もないかのよう に明るく遊んでいるのに、ふっと、僕の妹、死んだんだと言って、暗い顔を見せることが ありました。子供たち一人一人に、それぞれの苦しみがあり、痛みがあることを実感しました。


 こうした心の傷というものは、一人一人個別のもので、それぞれに自分の物語があり、 思い出があり、悲しみがあります。だから家族が死んだとひとくくりに言うことができま せん。妹と言っても、その妹とどのような関係だったのか、何人兄弟の中の妹なのか、一 人一人違いますから、同じようには語れません。そこには、一人一人に、それぞれの家 族との思い出があり、別々の物語があるからです。他の人にとっては被災者の一人でしか なくても、家族にとってはかけがえのないたった一人の家族なのです。その家族を失った ということの悲しみ、自分だけが助かったということの苦しみ、これからどうしていった らいいか分からないもがき、こうした悩みは一人一人違います。それを、東北の人とか、 被災者という言葉でひとくくりにすることはできません。そしてそれは、わたしたちも同 じではないでしょうか。苦しいとき、つらいとき、誰かにそれを受けとめてもらいたいと 思いますが、そうした経験や思いは、一人一人個別のものであり、また一人一人に固有 のものです。それを十把ひとからげのように扱われたら、かえって苦しく思うものです。 同じような経験をしても、それ自体は自分に固有のことで、それをそのように大切に受け とめてほしいと願います。苦しいこと、つらいこと、それをわたし一人の固有の問題とし て、大切に受けとめてもらえるとき、わたしたちは慰められ、助けられるのではないで しょうか。自分が不特定多数の中の一人として見られるのではなく、大切な一人として受 けとめてもらえること、十把ひとからげではなく、ただの一人として見てもらえること、 それがわたしたちにはとても大切なことです。「あなたがた」ではなく「あなた」とし て、「わたしたち」ではなく「わたし」として、自分が受け入れられていく、それが自分 を立たせるものとなっていきます。ここではそのことに思いをむけていきたいと思いま す。


2.わたしたち人間の救いのために降られた御子

 これまでは、ニカイア信条の第二条項、御子イエス・キリストに対する信仰告白の前半 部分を学んできました。ここからはその後半「この方はわたしたち人間のために、またわ たしたちの救いのために天から降り、聖霊と処女マリアから肉体を受けて人となり、わ たしたちのためにポンテオ・ピラトの時に十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座し、生きている者と死んだ者とを 裁くために、栄光のうちに再び来られます。その国には終わりがありません」について考 えていきたいと思います。これらの箇条の真ん中の部分、「聖霊と処女マリアから肉体を 受けて人となり、わたしたちのためにポンテオ・ピラトの時に十字架につけられ、苦し みを受け、葬られ、聖書のとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座し、生きて いる者と死んだ者とを裁くために、栄光のうちに再び来られます」については、使徒信条 に近い内容と言葉になっていますが、その前の「この方はわたしたち人間のために、また わたしたちの救いのために天から降り」と、最後の「その国には終わりがありません」 は、使徒信条とは違う、ニカイア信条に特有の部分です。そして実はここに、西方教会を 中心に発展していった使徒信条とは違う、東方教会の信条の特色が表されます。今回はそ の最初の部分、「この方はわたしたち人間のために、またわたしたちの救いのために天から降り」を考えてみましょう。この言葉は使徒信条にはなく、まさにそのとおりのこと ではありますが、新鮮味を覚えます。神が、わざわざこのわたしたちのために救いを実現 してくださったということの恵み深さを、改めて覚えさせられる言葉です。


 このことについては、エイレナイオスが「信仰の規範」として、「地の果てまで、全世 界の至る所に植え付けられた教会は、使徒たちと彼らの弟子たちから、同じ信仰を受け ている」と述べる中で、「唯一のキリスト・イエス、神の子、我らの救いのために受肉された方へ〔の信仰〕」と告白しています1。それはカイサレイアのエウセビオスが、カイ サレイア教会の信条として紹介する中にも告白されています。「我々は信じる。・・・唯 一の主、イエス・キリスト、神の言、神からの神、光からの光、生命からの生命、独り子なる御子、すべての被造物の初子、すべての代々に先立って御父から生まれた方、すべて のものはこの方を通して作られた方を。我々の救いのために受肉し・・・」と2。このよ うな告白は、アンテオケ会議の信条第四形式にも見られ、そこでは「この終わりの時にわれわれのために人となって」と告白されています3。またフィリポポリス会議の信条で は「終りの日にわれらのために受肉し」4、さらに第二シルミウス会議の信条では「この 終わりの時にわれらのために人となって」となっています5。エピファニウスも『アンコ ラトゥス』という書物の中に記した信条において、「御子はわれら人類のため、またわれらの救いのために、天よりくだり」と告白されています6。そしてそれは、カルケドン会 議の定式にも受け継がれています。「われわれの主、イエス・キリストは、唯一同一の子 なる方、神性と人性において完全、真の神にして真の人、理性的魂と肉体を持ち、神性に おいて御父と同一の実体であり、人性においてはわれわれと同一の実体であり、『罪を犯 されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様』であられる。彼はその神性において、代々に先立って御父より出で、また、その人性において、時満ちて、われわれの ため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアより生まれたもうた。この方こそ、 唯一同一のキリスト、子なる方、主、そして独り子なる神としておいでのお方なのであ る」と7。


3.頌栄としての信条

 さて、このように神の救いの業が「わたしたちのため」のものであるということについ て、関川泰寛氏は『ニカイア信条講解』の中で次のように論じます。「主イエス・キリス トは、『われら人間のため』『われらの救いのために』、まことの神でありながら、ま ことの人となられました。この二つの言葉は、繰り返しによる強調と言うより、失われ た人間に対する神の憐れみをほめ讃える言葉と言えましょう。この一節によって、永遠な る神の救いのご意志と神の存在が、われわれに向けられたものであることが明らかにな ります。われら人間のために、神の御子の受肉は起こったのです」8。そして「天から降 り」について紹介した後次のように述べていきます。「この節全体を支配するのは、救済 論的な関心です。すでに『同質』という言葉によって、御父と御子の関係が語られまし た。御父と御子が同質であるがゆえに、神の御子イエス・キリストの下降によって、歴史 のただ中に、救済の出来事が生起したのです。神の御子が、人間の困窮せる現実に、人間 の罪の深淵にまで来られたのです。ニカイアの神学者たちは、この救いのゆえに、福音の 使信に喜びをもって接し、救い主をあがめ、礼拝するという頌栄的な姿勢を強く持ったの です。ですから、この信条の一節によって、・・・神の救いのご決意と恵みがここでも讃美されるのです」と9。


 「神の御子が、人間の困窮せる現実に、人間の罪の深淵にまで来られた」、それが 「天から降り」という言葉に込められた意味であることを明らかにし、関川氏はこのよう にニカイア信条を、神の救いの業と出会った教会の「讃美の言葉」として、頌栄的な視点 から信条を紹介していきます。「『信条』や『信仰告白』とは、信仰者の口からあふれで る喜びと感謝、そして讃美の言葉なのです」10。「信条とは、はじめから頌栄的、典礼的 なものであり、『神学的言表と頌栄的辞句とが結合されている』と言われているのです。 繰り返しになりますが、信条は、父・子・聖霊として現臨される神に対する讃美の言葉で す」11。そして御子についての箇条をたどりながら、こうした「御父と御子の関係につい て、頌栄的な言明を続け」ることで、「神の本性をあおぎ見ながら、レンガを積み重ねて いくような、ほめ讃えの言葉が続きます」と語ります12。そしてこうした「讃美の言葉 は、高みから来られた御方が、へりくだり、僕のかたちをとり、いやしめられたお姿で地上の生を送られたことを讃える言葉でもある」と指摘していきます13。


4.天から降ってこられた御子の謙卑

  こうして栄光に輝く御子が、こうした謙卑の姿でおいでになられたことを言い表したも のが「天から降り」という一句でした。この表現は、原ニカイア信条では、ただ「降り」となっているだけですし、先に紹介したカイサレイア信条にはありません14。しかし 先に紹介したエピファニウスの信条においては、「御子はわれら人類のため、またわれらの救いのために、天よりくだり」と告白されています15。アンテオケ信条には、「彼はわ れらのために降り」とあり16、またアレクサンドリア信条にも、「彼は降り来て」と告白 されています17。また『使徒憲章』の中にあるシリアの信条には「天から降り」18、そし てモプスエスティアのテオドロスの信条でも、「私たちのために人となり、私たちの救い のために天から降り」と告白されています19。その他、アンテオケ会議の信条の第一形式 では「御父の恵みによって降り」20、第二形式では「彼はこの終わりの時に、上よりくだり」21、第三形式では「この終わりの時に降り来て」22と告白されています。さらに第五 シルミウス会議の信条では「彼は神の独り子にして、父の指示によって、罪を取り除くた めに天より来たり」23、またニケ会議の信条では「父から遣わされて天よりくだり」24と告白されています。


 「天」とは、大空のはるか上といった物理的な空間を指すのではなくて、神がおられる ところを意味します。関川氏は、詩編18編10節で「主は天を傾けて降り」とあるよう に、「神のいます『天』が、ちょうどテントの一端に亀裂が入ってそれがいっきに破れる ように下って来る」とし、「その有様は、神が己れを低くすることを暗示」すると指摘し ます。そして「超越者なる神は同時に、自己卑下する神でもあります。この神秘こそ、ニ カイア信条の告白する『天より下り』にこめられている要点なのです」と述べていきます 25。こうして信条は「天から降り」と告白して、主イエスの地上での働きを述べた後、 「天に昇り」と続けて、その後の神の右への着座と再臨について告白します。そうするこ とで、「天から降り」と「天に昇り」が対比される構造となっていて、まさしく「『天』 は神性にふさわしい栄光の位置を意味するもの」であることを明らかにするのです26。御 子は、まさにそこから降って来てくださったのですが、それはまさしく「神がわれら人間 に目をとめ、憐れみと慈しみを持ちたもう」方であることを明らかにすることであり、こ うして「神の御子が、人間の困窮せる現実に、人間の罪の深淵にまで来られた」ことを告白するものでした27。


 そしてそのように神の御子が天から降って来てくださったのは、「わたしたち人間のた め、わたしたちの救いのため」でした。ここでもう一度考えたいと思います。主が「わたしたち」の罪のために十字架の贖いを成し遂げてくださり、「わたしたち」の救いのため においでくださったということは、何度も何度も聞いてきたことでした。しかしそこで語 られる「わたしたち」の中に、自分自身が含まれているということは自覚しても、どこか 他人事のように考えてしまう「わたしたち」ではないでしょうか。そうではなく主の贖い と救いは、この「わたし」のためであり、「あなた」のためのものであったということ が、ここで語られていることなのです。古代から問われてきたことがありました。もし堕 落した人間がただ一人だけであったとしても、そのただ一人のために主は天から降って、 十字架にかかってくださっただろうかと。皆さんはどのようにお考えになりますか。現実 には、アダムにあってすべての人が堕落したのであり、すべての人が罪人です。けれども 他の人は堕落せず、その中のただ一人だけ、自分だけが堕落してしまったとして、そのた だ一人のためにも、主は天から降ってきて、十字架の贖いを実現してくださったでしょう か。主は言われました。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、 九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言って おくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだ ろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の 御心ではない」と(マタイ18章12~14節、ルカ15章4~7節)。そうです。「これらの 小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」のです。たとえ 他のすべての人が義人であり、堕落したのはただ一人だけであったとしても、そのただ一 人の罪人のために、主は十字架にかかって贖いを成し遂げてくださるでしょう。主は、そ のただ一人の救いのために天から降って来てくださったのでした。それが「わたしたち人 間のために、またわたしたちの救いのために、天から降り」という言葉によって告白され ていることなのです。


5.わたしたちのために「苦しむ神」

  これまで学んできた、御子についての箇条の前半では、御子と御父との関係が問われて いきました。そしてそこでは、「まことの神からのまことの神」として、「造られたので はなく生まれ、父と同じ本質」であることが告白されていきました。すでに考えてきたよ うに、アレイオスは、「神の意思によって時間に先立ち代々に先立って造られた」と主張 し28、御子が神であることを認めることをせず、「神の完全なる被造物」としました。ア レイオスがそのように考えた理由は、「御子の苦しみと十字架への歩みが、御子の神性の 劣化した様態の結果である」と理解したからでした29。アレイオスがこのように考えた背景には、当時のギリシア哲学の 神についての考え方がありました。ギリシア哲学において神とは「不動の一者」でした。 つまり神とは、何ものによっても動かされることがなく、変化させられることもない唯一 の存在です。他を動かしたり、変化させることはあっても、神が他のものによって動かさ れたり、変化させられることはありえない。もしそうであれば、それは神ではないので す。だから神は、人間によって心を動かされることはありえません。たとえ人間の苦しみ をご覧になっても、それによって神が苦しまれたり、悲しまれたりすることは、ありえな いのです。もし神がわたしたちの苦境をご覧になって苦しまれるとしたら、それはもはや 神ではないのです。しかし主イエスはわたしたちのために苦しんでくださいました。そし てわたしたちのために十字架にかかって苦しまれました。だからアレイオスからすれば、 苦しむ御子は、神であるはずがないのです。「アレイオスにとっては、御子は御父が神で あるようには神ではないのです。・・・たしかにアレイオスは御子イエスを卓越した救済 者として理解しました。しかし、重要なことは、アレイオスにとっては、御子はその苦し みのゆえに、父なる神と同じ神ではありえないという基本的な認識です。それゆえ、御子 の苦しみと死のゆえに、アレイオスの神は、そこには存在しても沈黙し、完全なる超越の ゆえに御子の十字架からは遠く離れ、御子ないしロゴスの仲保によって、働くにすぎない のです。御子の『苦しみ』ゆえに、御子自身が神より劣った神として位置付けられるにす ぎないのです。このために、アレイオスの神は、その本質において被造世界と直接には関 係することはありません」30。


 関川氏は、『アタナシオス神学の研究』の中で、アレイオス主義の核心が「苦しむ神」 にあるとする研究を紹介します。「『苦しむ神』という教説こそ、アレイオス主義者が新 約聖書から読み取ろうとした神学的な核心である」と31。しかしそれによれば、「苦しむ 神」を欲するアレイオス主義は、この「苦しみ」を至高なる神に帰することはできないた め、この「『苦しむ神』を説明しうる唯一の方法が不受苦にして至高なる神の存在と、苦 しみを経験する神性の劣った神(すなわち御子イエス)の存在とを仮定すること」である とし32、その上で次の点を指摘します。「アレイオス主義者の言う『苦しみ』は、その出 発点は新約聖書の御子の苦しみにあるとしても、結局至高なる神の存在を保つために、御 子の神性を劣化させる機能を果たしているにすぎないように思われる」と33。しかしこの ように理路整然としたアレイオスの合理的な神は、第4講で紹介したオリゲネスの神、い や聖書が教える神とは、どれほど隔たっていることでしょうか。オリゲネスは『エゼキエ ル書注解』の中で次のように記しました。「(救い主は)人類を悲しみ憐れむために地上に降りてこられたのであり、十字架の苦しみに耐えてわれわれの肉を帯びてくださるほ どに、自らわれわれの苦難を負われた。もし救い主が苦難を受けなかったならば、人間 としての生活を共にするために来られることはなかったであろう。われわれのためにあら かじめ被ってくださったこの苦難はいったい何だったのか。それは愛の苦難である。宇宙 の神であり、『寛大であり十全な慈しみ』を持ち(詩103編8節)、情け深いお方である 御父ご自身は、どのようなかたちであっても苦難を受けないのだろうか。それとも人類を 取り扱う際に彼は人間の苦難を経験しておられることを、あなたは今知っているだろう か。『あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたの性質を背負ってくださった』 (申命記1章31節)。それゆえ、まさに神の御子としてわれわれの苦難を負われたよう に、神はわれわれの性質を背負われたのである」と34。


 わたしたちの苦難をご自分のものとして、わたしたちを背負ってくださる神について、 イザヤは語りました。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによっ て彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担って くださった」と(63章9節)。そこで語られる神とは、わたしたちの苦難をご自分のも のとして、わたしたちを背負ってくださる神でした。わたしたちにとっては、苦しみあえ ぐわたしたちをご覧になって、神も共に苦しんでくださり、その苦しみを一緒に背負って くださる方だからこそ、それがわたしたちの慰めであり、助けとなります。わたしたちの 苦しみを天のはるか遠くから見やりながら、そこで何一つ感じることもなく、心動かさ れることもない、そんな無感動の神を信じたところで、何の意味があるでしょうか。わた したちの苦しみを共に担ってくださらない神を信じたとしても、そこにどのような救いが あるというのでしょうか。しかし聖書ははっきりと約束します。わたしたちが信じる神と は、わたしたちの苦しみを見てくださり、それに心を痛めるだけではなく、その苦しみを 共に担ってくださり、それをご自分の苦しみとして助けてくださる方であるということを です。


 ニカイア信条が告白することはとても抽象的で、厳しい現実の中を生きる自分たちとは 何か縁遠い、無関係な神学議論と考えてしまいがちかもしれません。しかしこのような厳 密な言葉によって、ニカイアの神学者たちが守り抜こうとしたことは、天の栄光の座を捨 てて、「わたしたち人間のために、またわたしたちの救いのために天から降り」、人と なって贖いを成し遂げてくださった神の独り子に対する信仰と感謝であり、またこの御子 を惜しむことなくわたしたちのためにお与えくださることによって、御子と共にわたした ちの苦しみを共に背負ってくださった御父に対する、溢れるほどの讃美なのでした。そして神が、また御子が、ここまでしてくださったのは、わたしたちを十把ひとからげにでは なく、一人一人として大切にしてくださり、そこで苦しみ悩むわたしたち一人一人の悩み 苦しみの一つ一つを、ご自身のものとするためなのでした。それは「あなたがた」の苦し みとしてではなく、「あなた」の苦しみをご自分のものとして背負うためであり、まるで そこには「わたし」一人しかいないかのように、その一人にすぎないこの「わたし」を 慈しみ、大切にしてくださろうとする神の決意が、そこに表されているのです。ニカイア 信条が、「この方はわたしたち人間のために、またわたしたちの救いのために天から降 り」と告白するとき、その「わたしたち」とは、不特定多数の「わたしたち」なのでは なくて、たった一人の「あなた」のことであり、その「あなた」のための救いであること を告白していくのです。わたしたちも、「この方はわたしたち人間のために、またわたし たちの救いのために天から降り」と告白するたびに、御子と御子をお遣わしくださった 御父に対して、心からの感謝と讃美をささげていきましょう。




1 エイレナイオス、「異端反論」1・10・1、小高編『原典 古代キリスト教思想史』1  初期キリスト教思想家、1999年、教文館、108~109頁

2 カイサレイアのエウセビオス、「教区の信徒宛ての手紙」、小高編『原典 古代キリス ト教思想史』2 

 ギリシャ教父、2000年、教文館、29頁;

 なおほぼ同文が、『中世思 想原典集成』2.盛期ギリシア教父、1992年、平凡社、58~62頁以下、

 および関川泰 寛、『ニカイア信条講解-キリスト教の精髄』、1995年、教文館、59~63頁に所収:

 カイサリア信条は、渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、 107、122~124頁;

 J.N.D.ケリー、『初期キリスト教信条史』、2011年、一麦出版 社、186頁に所収。

3 渡辺、前掲書、130頁、同じ信条は、小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリ シャ教父、232~233頁にも所収。

4 同上、132頁

5 同上、133頁

6 同上、144頁;ここでは短い方をあげたが、長い方は「御子はわれら人類のため、ま た、われらの救いのためにくだりたまい」となっている。

 同上、146頁

7 マクグラス、『キリスト教神学資料集』上、2007年、キリスト新聞社、647~648頁

8 関川泰寛、『ニカイア信条講解-キリスト教の精髄』、1995年、教文館、107頁

9 同上、109~110頁

10 同上、23頁

11 同上、34頁、他に71、84、101頁など

12 同上、98頁

13 同上、99頁

14 同上、108頁

15 同上、144頁;ここでは短い方をあげたが、長い方は「御子はわれら人類のため、ま た、われらの救いのためにくだりたまい」となっている。

 同上、146頁

16 渡辺、前掲書、109頁;ケリー、前掲書、189頁及び190頁

17 同上、但し同書では「下り来て」と訳されているが上記と合わせ「降り来て」とし た。

18 ケリー、前掲書、191頁;渡辺、前掲書、131頁、こちらは「天より下りて」

19 同上、193頁

20 渡辺、前掲書、127頁 21 同上、128頁、献堂式信条とも呼ばれる。同じ信条は、小高編『原典 古代キリスト教 思想史』2 

 ギリシャ教父、227~228頁にも所収。

22 同上、129頁

23 同上、137頁、同じ信条は、小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリシャ教 父、238~239頁にも所収。

24 同上、138頁、同じ信条は、小高編『原典 古代キリスト教思想史』2 ギリシャ教 父、240~241頁にも所収。

25 関川、前掲書、109頁 26 渡辺、前掲書、168頁

27 関川、前掲書、109頁、但し後者は先にも引用したもの、注8参照。

28 アレイオス、「アレクサンドリアのアレクサンドロス宛ての手紙」、小高編『原典 古 代キリスト教思想史』2 ギリシャ教父、18頁

29 関川、前掲書、97頁

30 同上、105~106頁 31 関川泰寛、『アタナシオス神学の研究』、2006年、教文館、497頁

32 同上、498頁

33 同上

34 A.E.マクグラス編、『キリスト教神学資料集』上、2007年、キリスト新聞社、 443~444頁