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第15講 全能の主に対する賛美の言葉

「わたしたちは何を信じるのか-ニカイア信条に学ぶ信仰の基礎」


第15講:全能の主に対する賛美の言葉 (コロサイ1章9~20節、2012年4月29日)


【今週のキーワード:パントクラトール】

 パントクラトールとは「全能者」を意味します。そして東方教会では、それがキリスト にあてはめて告白されます。イスタンブールのコーラ修道院にあるドーム天井の真ん中に 描かれたキリスト像が、それを象徴します。それはパントクラトールと呼ばれるもので、 キリストが世界の支配者、宇宙の統御者として、まさしく全能の神であることを描いたも のです。ニカイア信条の「すべてのものはこの方によって成りました」とは、万物が御子 によって創造されたことを告白します。そして御子がこの世界のすべてをお造りになられ たことにより、それらのすべては御子によって支配され、統御されていることを意味しま す。「万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先に おられ、すべてのものは御子によって支えられています」。「王座、主権、支配、権威」 はもとより、「見えるもの、見えないもの」、つまり霊的領域においても、御子は支配者 であられます。御子がこの世界を支配しておられるとは、この方が摂理の神でもあるとい うことです。「すべてのものは御子によって支えられている」のであり、「万物はこの主 によって存在している」のです。このように御子が、御父と共に世界を創造し、それを保 持し、御手の内に支配しておられるという信仰は、厳しい現実を生きるわたしたちの心を 天へと向けさせ、うなだれた心を高く引き上げて、立ち上げていくものとなるのです。


1.パントクラトール(全能者)であるキリスト

 今学んでいるニカイア信条は、正確には325年の原ニカイア信条と区別して、ニカイ ア・コンスタンティノポリス信条と言います。これはこの信条が、381年にコンスタン ティノポリス(コンスタンティノープル)で開催された公会議に由来すると考えられてい るからです。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の帝都だったコンスタンティノープル も、1453年オスマン・トルコのメフメット2世に占領された後は、イスタンブールとい う名前となっています。このイスタンブールで一番有名なのがアヤ・ソフィアと呼ばれる 巨大な建造物です。現在は国立博物館となっていますが、かつては東ローマ帝国の帝都と して、ローマ、エルサレム、アレクサンドリア、アンテオケと並ぶ総大主教座がおかれた 聖ソフィア大聖堂でした。内側には見事なモザイク画などがありましたが、イスラム教の モスクにされたときに破壊されたり、漆喰で塗り固められてしまいました。今ではそれが いくらか復元されて、見ることができるようになっています。特に聖堂の前廊から身廊に入るところに皇帝の扉と呼ばれる入り口があり、そこに描かれたモザイク画に注目してい ただきたいと思います。下部は破壊されて、上半分しか残されていませんが、中央にキリ ストが左手に福音書をもって座っているものです。左側にはマリア、右側には天使ガブリ エルがいて受胎告知が主題であることが分かります。そしてキリストが持っている福音書 にはギリシア語で「汝に平和を、我は世界の光なり」と記されています1。南側階上廊東 端にも、福音書を持つキリストの壁画(左右は寄進した皇帝と皇后)、またその西側に も中央にキリスト、左にマリア、右に洗礼者ヨハネを描いた壁画があります。そしてこう したキリスト像とよく似たモザイク画が、近くのコーラ修道院のドーム天井の真ん中にも 描かれていますが、それはパントクラトールと呼ばれているものです。パントクラトール とは、全能者という意味で、キリストが世界の支配者いや宇宙の支配者、全能の神であることを描いたものです。


 全能の神というと、わたしたちは父なる神について考えます。使徒信条では、全能の神 は父なる神について告白されていますので、御子キリストも全能者であるということにま では、あまり思い至りませんが、東方ではキリストもパントクラトール、すなわち全能者 として崇められて礼拝されており、そのように告白することが、東方の信条の特色とも なっています。そしてこのことが、ここでの主題です。すなわち御子キリストは世界の支 配者であり、宇宙を統御される全能者であられるということで、そのことを言い表したの が、ニカイア信条の「すべてのものはこの方によって成りました」という告白なのです。 ニカイア信条の第二条項、御子イエス・キリストに対する信仰告白の前半部分を学んでい ます。これまでの学びでは、「独り子である神の子、すべての時に先立って父から生れ た、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのではなく生まれ、父と同じ本質であって」までを考えてきましたので、最後の「すべてのものはこの 方によって成りました」について考えていきましょう。ここは他の翻訳では「すべてのも のは主によって造られました」2などと訳されています3。意味はそういうことですが、そ れを「成りました」と訳したのは、原語がヨハネ1章3節と同じで、そこでは「万物は言 によって成った成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と訳されて いるからです。「成った」という言葉の意味は「造られた」、つまり「創造された」とい うことです。そしてこの表現も、前回の「光からの光」と同様、御言葉に基づいたものです。


2.御言葉による神の天地創造

 詩編33編6節では、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」とあります。創世記1章を見ますと、神がこの天地をご自身の言葉によって創造 された様子が描かれています。神が「光あれ」と言われれば、光が創造されました。「水 の中に大空あれ」と言われれば、天と大空が分かれました。「天の下の水は一つ所に集 まれ」と言われれば、陸地と海が分かれました。こうして神はこの天地万物を、ご自身の 言葉によって創造されました。そしてこの神の言葉は、発したけれどそのとおりには実現 できないという無力なものではなく、その「望むことを成し遂げ」、そこでの「使命を 必ず果たす」(イザヤ55章11節)、力ある言葉です。そのことが先の詩編でも詠われて いて、「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主の 企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」と語られていきます(詩編33編 9、11節)。そのことは新約聖書でも語られます。ヘブライ11章3節では「信仰によっ て、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見 えているものからできたのではないことが分かるのです」と述べられます。この言葉は先 の旧約聖書の言葉と内容的に同じですが、しかし新約聖書の新しさは、同じヘブライ書の 1章2節で「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語りました。神は、この 御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」と語ることで す。つまりここで天地を創造した「神の言葉」とは、言である御子イエス・キリストであるとするのです。


 神が御言葉によってこの世界を創造されたというとき、その御言葉とは、神が発した単 なる音声のことではなく、人格を持たれた神の第二位格である御子のことであり、神は 御子によって天地を創造されたと告白していくのです。そのことを明瞭に語っているの が、コロサイ1章15~17節です。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造 られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないもの も、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物 は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、す べてのものは御子によって支えられています」。ここで言う「万物とは、物質的なもの、 霊的なものすべてを含んでいます。・・・このことは、全被造物が例外なく、御子なる主 イエス・キリストの主権のもとにあることを示しています。御子は救済に関与するだけで はなく、創造と保持にも関わるのです。・・・御子の創造への参与は、摂理の信仰と密接 な関係を持ちます。そして御子の創造への参与の前提となっているのは、言うまでもなく キリストの永遠なる神性です。御子キリストはまったき神であられたがゆえに、万物を創り、支配し、保持することが可能なのです」4。


3.創造と摂理に参与される御子

 使徒信条で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白するわたしたちは、 天地創造の業を、もっぱら父なる神の御業と理解し、御子はわたしたちの罪の贖いを成し 遂げてくださった方と信じ、告白します。『ハイデルベルク教理問答』でも、使徒信条の 解説に入る前に、これらの箇条が三つに分けられるとして、「第一に、父なる神と、わた したちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの贖いについて、第三に、聖霊 なる神と、わたしたちの聖化について」と答えます(問24)。そこで創造は「父なる 神」の御業であると理解しますが、それは「もっぱら」父なる神の御業であるというこ とであって、父なる神「だけ」が果たす御業だということではなく、創造には御子と聖霊 も関わります。同じように「贖い」は、もっぱら御子の働きですが、しかし御子だけのも のではなく三位一体の神ご自身の御業として実現されます。このように「三位一体の神の 外への業は、分けることができない」のです。ニカイア信条は、「すべてのものはこの方 によって成りました」という言葉で、天地創造の御業に御父だけではなく御子も参与され たことを告白します。こうして「救い主としてのキリストを把握するだけでなく、父と同 質であって父の創造の御業に関与しておられることを告白する。使徒信条はキリストの御 業を専ら救いとして捉え、創造は第一項で扱うのと比べて、東方の多くの信条はキリスト を創造主とし、宇宙論的にキリストを把握する」5。パウロもこのことを明瞭に語ってい ました。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から 出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおら れ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」と (1コリント8章6節)。


 ここで押さえておきたいことが3つあります。第一は、天地創造の御業には御子も参与 しておられ、この世界は御子によって造られたということです。そこから第二のことが言 われます。コロサイ書が「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないもの も、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」とあるように、御子が この世界のすべてのものをお造りになられたということにより、それらはすべて御子に よって支配され、統御されているということです。「王座、主権、支配、権威」はもとよ り、地上のもの、歴史の中のものだけではなくて、「見えるもの、見えないもの」ともあ るように、霊的領域においても、御子は支配者であられるということです。そしてこれが コーラ修道院のドームの天井を飾っている「パントクラトール(全能者)であるキリス ト」のモザイク画が象徴していることなのです。御子がこの世界を支配しておられると は、この方が摂理の神でもあるということです。だからこそ、この方は「まことの神からのまことの神」であられるのです。それが第三のことで、「すべてのものは御子によって 支えられている」のであり、「万物はこの主によって存在している」のです。このように 御子が、御父と共に世界を創造し、それを保持し、御手の内に支配しておられるというこ とこそ、この方がパントクラトール、すなわち全能者にして世を支配される神であるとい うことです。そしてこのことこそ、わたしたちがこの方を、「我らの主イエス・キリス ト」と告白する意味なのです。


4.「王の王、主の主」であるキリストに対する賛美の言葉

 イエスを「神の子・キリスト・主」と告白するのは、この方こそ「王の王、主の主」で ありたもうからです(黙示録19章16節、17章14節)。それはこの方が、この世を支配し たもう全能の主権者であられることを告白するということです。原ニカイア信条、そして ニカイア・コンスタティノポリス信条が問題とした第一の相手は、アリウスでした。神の 唯一性を堅く信じるアリウスは、御子が御父から生まれた神的存在であることは認めま したが、御子が神であることを認めることができず、「神の完全なる被造物」と見なしま した。つまり御子は「神の意思によって時間に先立ち代々に先立って造られた」としまし た6。アリウスと最初に論争したアレクサンドリアのアレクサンドロスは、アリウスが主 張したこととして「神の言は常に存在したのではなく、存在しないものから作られたので ある。実に、神である方が、存在しなかった〔言〕を無から造られたのである。・・・ 実に、御子は被造物であり、造形物である。〔御子は〕ただ単に造形物ならびに形成物 の一つであり、間違って言並びに知恵と言われるが、〔御子〕自身も神の言そのもの、並 びに神の内なる知恵そのものによって作られたのであり、神は〔知恵〕によって万物と 〔御子〕とを造られたのである」と述べていることを指摘します。そして御父はどうして 御子を造られたかというと、それは「道具のように彼を通して神が我々を造るため」であ ると主張しているとするのです7。アリウスも、御子が万物を創造されたことは認めてい ます。神は「この〔独り子〕を通して代々と万物を造られました」とか8、「天と地にあるすべてのものはこの方を通して作られた」と述べています9。そしてそれは、御父が御 子彼によって万物を創造するためですが、そこでは御子はどこまでも「道具」にすぎず、 御父と一つとなって天地創造を共に果たされたということではありませんでした。そこで はなによりも、御子は「作られたものらの一つ」「ご自身を通して成ったものらの一 つ」、「万物と共に数えられる者」10と主張されることになります。つまり万物を創造さ れた方が、ご自分が創造されたもの(被造物)と同じものと見なされるということです。 このようなアリウスの冒瀆的な考え方に対しては、アリウスに同情的だったカイサレイア のエウセビオスも、次のように語りました。ニカイア信条の「(御子は)造られたのでは 6 なく生まれ」という言葉について、「『生まれた者であり造られたものではない』という 表現をも私どもは承認しました。と申しますのも、『造られたもの』という言葉は、御 子を通して作られ、御子とは全く似たものではない他の被造物ら一般に適応される言葉で あると、彼ら(ニカイア正統派のこと)は言明したからです。〔御子は御子〕を通して作 られたものらに似たものとして造られたのではなく、造られたすべてのものらよりも遥か に優れた本体(ウシア)に属する方であられますので、聖書は御父から生まれたと教えて いるのです。・・・『御子は御父と同一本体(ホモウシオス)の者である』という表現 は、神の御子は作られた被造物と似ているところは全くなく、この方を生んだ御父のみ にあらゆる点で似ており、別の何らかの実体(ヒュポスタシス)や本体(ウシア)に由来 するものではなく、御父の由来することを指摘するものです」と11。


 このように御子を被造物とするアリウスに反対して、アタナシウスはこう語りました。 「御父は永遠の方であられ、御子もまた永遠の方であられるのです。実に、この方〔御 子〕を通して諸々の世は作られたのです(ヘブ1章3節参照)。御父が存在されます。当 然、御子もまた〔存在される〕のです。パウロが言っているように、〔御子は〕「万物の 上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」(ロマ9章5節)。御父につい て、『存在しなかった時がかつてあった』と言うことは許されないことです。御子につい て、『存在しなかった時がかつてあった』と言うことは許されないことです。御父は万物 を支配する方(パントクラトール)であられます。御子も万物を支配する方(パントクラ トール)であられます。『今おられ、かつておられ、やがて来られる方、万物を支配され る方』(黙1章8節)と、ヨハネが言っているからです。御父は光であられ、御子は反映 〔輝き〕であられ、真の光であられます。御父は真の神であられ、御子も真の神であられ ます。実に、ヨハネが次のように記しているとおりです。『私たちは真実な方の内に、そ の御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真の神、永遠の生命です』(1 ヨハ5章20節)。」と12


 わたしたちは、御子が御父と同質であるとか、一つであるといったことを、これまで考 えてきました。しかし、それはそれでとても重要なことであることは分かるけれど、それ が今の自分の現実とどのように触れてくるのか、あまり良く分からないまま、学んできた かもしれません。そのような御子についての教えは、とても高尚なものであることは分か るけれど、毎日の厳しい生活を生きている自分とどのように関わってくるのか、よく見え ない中で、難しいなあと思いながら聞いておられたかもしれません。しかしこの教えは、 単に教えとして重要だというばかりではなくて、厳しい現実を生きるわたしたちの心を、 天へと向けさせていき、うなだれがちな自分自身の心を、高く引き上げ、立ち上げていく 教えでもあることがお分かりいただけると思います。今、自分が直面し、苦しめられてい る問題も、すべては御子の支配の許にあるのであり、今、自分が抱え込んで、悩まされて いる事柄も、全能者である主イエスの摂理の御業の中で、一つ一つが整えられているとい うことを信じさせていく言葉だからです。そうしてうつむいたわたしたちの心を、天へと 高く上げさせていくのです。なぜならそこには、わたしたちを全能の御手で支配し、ふさ わしい道を開き、最善の解決をもって導いておられる全能者、御子イエス・キリストがお られるからです。


 コロサイ書はこのように続けます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いて おられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさ い。・・・あなたがたの命であるキリストが現われるとき、あなたがたも、キリストと共 に栄光に包まれて現れるでしょう」と(3章1、2、4節)。天地の創造主であり、全能 の支配者である神の独り子を見上げていくとき、たとえどんな大きな問題に直面してくず 折れることがあっても、わたしたちはそこで立ち上がる力を与えられ、その問題に向き 合っていく勇気を与えられていくのです。わたしたちの信じる主イエスは、ただお優しい だけの非力な救い主なのではありません。どんな問題の中にあっても、そこでわたしたち を必ず救うことができる方です。なぜならこの方は、全能の神、主の主、王の王であられ る方だからです。そしてそれが、ニカイア信条が「独り子である神の子、すべての時に先 立って父から生れた、(神からの神)光からの光、まことの神からのまことの神、造られ たのではなく生まれ、父と同じ本質であって、すべてのものはこの方によって成りまし た」と告白したことなのでした。この御子についての前半の学びを終えるにあたり、わた したちは使徒と共に、パントクラトールであられる方に対する、心からの賛美をささげて いきたいと思います。「栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」と (ヘブライ13章21節)。




1 陳舜臣、『イスタンブール』世界の都市の物語4、1992年、文芸春秋、72頁

2 ニケア信条(日本キリスト教協議会共同訳)、『讃美歌21』93-4-2、147頁

3 信条本文訳注⑦参照。「原語は、ヨハネ1章3節と同じで「(存在するように)成っ た」。同じ訳は、関川、信条集、ヤング。

 多くの翻訳では「造られた」と訳してい る」。

4 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、106~107頁

5 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、166頁

6 アレイオス、「アレクサンドリアのアレクサンドロス宛ての手紙」、小高編『原典 古 代キリスト教思想史』2 

 ギリシャ教父、2000年、教文館、18頁

7 アレクサンドリアのアレクサンドロス、「すべての司教宛ての手紙」、同上、23頁

8 アレイオス、「アレクサンドリアのアレクサンドロス宛ての手紙」、同上、18頁

9 アレイオス、「コンスタンティヌス帝宛ての手紙」、同上、19頁

10 アレクサンドリアのアレクサンドロス、「すべての司教宛ての手紙」、同上、24頁

11 カイサレイアのエウセビオス、「教区の信徒宛ての手紙」、同上、32頁

12 アタナシオス、「セラピオン宛ての手紙」2・1~9、小高編『原典 古代キリスト教 思想史』2 

 ギリシャ教父、2000年、教文館、48頁。長い引用を第13講に掲載。