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第10講 イエスをキリストと仰ぐ感謝の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)


第10講:イエスをキリストと仰ぐ感謝の言葉(マルコ8章27~34節、2012年3月4日)


【今週のキーワード:苦難のメシア】

 イエス・キリストとは、名前ではなく、「イエスはキリストである」という信仰告白で

す。そこでキリストとはメシア、油を注がれた者という意味です。古代イスラエルでは、

王、預言者、祭司といった神の働きをする人が職務につけられるとき、オリーブ油を頭に

注がれました。この油は聖霊を象徴するもので、これらの働きをするために必要な神から

の賜物が与えられたことを意味しました。しかし王国が滅亡し、捕囚の憂き目にあい、

大国の支配の許で呻吟する中で、キリストとは、神の民イスラエルを救うために神から遣

わされた救い主を意味するものとなりました。「ダビデの子」として、かつてのダビデ帝

国を復興し、その栄華を回復してくれる救い主であり、悪人がのさばり、義人が苦しめら

れるという、歪んだこの世を正しく裁いて、世直しをしてくれる救世主として、その到来

を待望するようになっていきました。そこで人々が待望したメシアは「栄光のメシア」

であり、圧倒的な軍事力によって敵を蹴散らす、頼りがいのある軍事的指導者であり、力

強く平和を維持してくれる、力の支配者でした。しかし主イエスがご自身をメシアと自覚

されたとき、そこで考えられたのは第二イザヤが預言した「主の僕」であり、それは

「苦難のメシア」でした。そして主は、最後の最後まで、この「苦難のメシア」としての

道を歩み続けてくださることで、わたしたちのメシア=キリストとなってくださったので

した。


1.キリストとはメシア、油注がれた者

 イエス・キリストについて、一般の方は誤解をしている場合があります。三川栄二の三

川は姓、栄二は名前ですが、それと同じように、イエスは名前で、キリストが姓、つまり

イエス・キリストをこの方の氏名と勘違いされるわけです。当時は、高貴な身分の人以外

は姓がなく、一般庶民はただ名前だけしかありませんで、名前だけで呼ばれていました。

けれども同じ名前がある場合もありましたから、区別するために出身地や親の名前をつ

けて呼びました。ですから主は、ナザレのイエスとか、ヨセフの子イエス、あるいはマリ

アの子イエスと呼ばれました。それが主のお名前ですが、キリストは名前ではありませ

ん。それではキリストとはどういうものでしょうか。キリスト、クリストスとはギリシャ

語で、それがヘブライ語ではメシアです。だからペトロは、主イエスを、「あなたは、メ

シアです」と言いました(マルコ8章29節)。この言葉はむしろマタイの方でご存知だ

と思います。マタイでは「あなたはメシア、生ける神の子です」となっています(16章16

節)。メシアは、いずれも原文ではキリストで、新改訳聖書では、「あなたは、生ける神

の御子キリストです」となっています。キリストとはメシア、そしてメシアとは油を注が

れた者という意味で、これは旧約聖書が背景となっています。


 古代イスラエルでは、王、預言者、祭司といった大切な働きをする人が、その職務に

つけられるとき、オリーブ油を頭に注がれました。こうして頭に油を注がれた人、それが

メシアで、神の働き人を意味しました。そこでこの油とは、聖霊を象徴するもので、これ

らの働きをするために必要な神からの賜物が与えられたことを意味するものでした。それ

が時代がくだって主イエスの時代になると、この王であり祭司である、つまりメシアが現

れてイスラエルを復興してくれるというメシア待望の信仰となっていきます。こうしてメ

シア・キリスト、つまり油を注がれた者とは、イスラエルを救うために神から遣わされ

て、それに必要な力と賜物である聖霊を注がれた救い主を意味するものとなりました。で

すからナザレのイエスをキリストと呼ぶのは、この方こそ、旧約聖書において預言され、

その出現が待望されていた救い主、神の民を救うために神から遣わされ、そのために聖霊

を注がれた方メシアであるということを告白することでした。イエス・キリストとは、イ

エスはキリスト、すなわち待望しされてきたメシアであるという信仰告白で、「イエスは

主」とか「イエスは神の子」という告白が、ローマ社会に生きる人々に向けたものである

のに対して、「イエスはメシア」という告白は、ユダヤ人に向けて為されたものでした。


2.人々が期待した「栄光のメシア」

 このペトロの信仰告白の直後、マルコでは主イエスの意味不明な言葉を伝えます。「す

るとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちに戒められた」(8章

30節)。「メシアの秘密」と呼ばれる箇所で、その意図については様々な解釈がありま

すが、とにかくマルコ福音書には、ところどころこのような主イエスの言葉があります。

そこで繰り返し、主は、御自分のことを人々には話さないように注意されます。ここでも

ご自分がメシアであることを人々に吹聴しないようにと釘を刺しますが、これは主が、

ご自分はメシアであることを否定していたとか、そこまで信じる確信がなかったというこ

とではありません。主はご自分がメシアとしてこの世に来られたことを自覚しておられま

したし、メシアとしての使命を果たすために、活動しておられました。しかしそこで主が

自覚されたメシアは、当時の人々が期待し、待望したメシアとは違うものでした。実際

そのギャップは最後まで埋められることがなく、主イエスが十字架にかけられたのも、そ

のためであったと言うことができます。エルサレムに入場された主イエスを、人々は「ダ

ビデの子にホサナ」という歓呼の声で迎えました。「ダビデの子」とは、メシアの別称と

言っていい呼び方です。なぜならイスラエルを救うために来るメシアは、ダビデの子つま

りダビデの血筋を引くダビデの子孫で、かつてのダビデ帝国を復興する救世主と期待され

ていたからでした。そして「ダビデの子」として、かつてのダビデ帝国を復興し、その栄

華を回復してくれる救い主であり、悪人がのさばり、義人が苦しめられるという、歪んだ

この世を正しく裁いて、世直しをしてくれる救世主として、その到来を待望するように

なっていきました。しかしそれが自分たちの期待するようなメシアでないことが分かる

と、人々は手のひらを返したように、数日後には「十字架につけろ」と叫びます。自分た

ちが期待したメシアとは違うので、主イエスをメシアとして認めることも受け入れること

もできず、むしろ拒絶し、そして主を偽メシアとして処刑したのです。


 そこで人々が求めたのは「栄光のメシア」でした。紀元前722年に北イスラエル王国、

586年に南ユダ王国が滅亡して以来、エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、シリ

ア、そして今はローマ帝国と、次々に大国に支配され、蹂躙されて生き延びてきた彼ら

は、いつの日かメシアが現れて、彼らの敵を蹴散らし、かつてのダビデ帝国の栄光を復興

してくれると信じました。このイスラエルの栄光を取り戻してくれる救世主こそメシアで

あり、それは綺羅星のごとき武将を引き連れて、圧倒的な軍事力で敵を滅ぼしてくれる、

頼りがいのある軍事的指導者であり、力に支配されて苦しむ彼らを、もっと大きな力で敵

を追い散らしてくれる力のメシアでした。そしてそこで獲得した平和を力強く維持してく

れる力の支配者でした。そしてこうしたメシアに対する期待は、何もユダヤの人々だけで

はなく、最も身近にいて寝食を共にした弟子たちさえ同じでした。それがこのペトロの言

葉によく表れています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、

祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と

弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、

ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見

ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、

人間のことを思っている。』 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。

『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさ

い』」(同31~34節)。ここで主は、ご自分の後に従う者たちに「自分の十字架」を背

負うことを求められます。そうして自分の十字架を背負いながら主に従い、その後につい

ていくとき、その先頭におられる主ご自身も、十字架を背負っておられるということで

す。十字架にかけられるために来られた方、それが主イエスであり、主が考えるメシアで

した。


3.「苦難のメシア」としてのキリスト

 そこで主が考えられていたのは、第二イザヤの「主の僕」であり、「苦難のメシア」で

した。そこでは、このメシアが次のように描かれていました。「彼が担ったのはわたした

ちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の

手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたし

たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼

の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わた

したちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行っ

た。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53章4~6節)。

「苦難のメシア」とは、わたしたちの罪のすべてを身代わりに背負って、わたしたちの代

わりに神の裁きと罰を引き受けてくださった「主の僕」であるということでした。


 前回わたしたちは、イエスという名について考え、それは「自分の民を罪から救う」と

いう使命を帯びたものであることを学びました(マタイ1章21節)。主が、このイエス

という名の通りの使命を果たし、わたしたちを「罪から救う」ためには、キリストであ

る必要がありました。イエスがキリストでなかったら、それは名前倒れとなってしまいま

す。イエスがキリストとなられたから、イエスとしての使命、つまりわたしたちを罪から

救う働きを果たすことができたのでした。そのキリストとは、「栄光のメシア」ではなく

「苦難のメシア」であるということにおいてでした。この「主の僕」について、第二イザ

ヤはこう続けます。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に

引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかっ

た。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろ

うか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたこ

とを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にさ

れ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自ら

を償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の

手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わた

しの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わ

たしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自ら

をなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた

者のために執り成しをしたのは、この人であった」(同7~12節)。「イエスはキリス

ト」と信じるとは、この方がわたしたちのために十字架にかかることで、わたしたちの罪

を背負い、ご自身が償うことによってそれを取り除いてくださったということを信じるこ

とです。


 パウロは語りました。「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えていま

す」(1コリント1章23節)。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それ

も十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と(同2

章2節)。受難を覚える季節に、主の聖餐にあずかることにより、そこでわたしたちの罪

を背負うために十字架にかかってくださったキリスト、それによってイエス、つまりわた

したちを罪から救う方となってくださった救い主を覚えて、心からの賛美と感謝を捧げて

いきたいと思います。1ペトロ2章22~24節「『この方は、罪を犯したことがなく、そ

の口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さ

ず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその

身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義に

よって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやさ

れました」。