· 

第8講 イエスを『唯一の主』とする告白の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第8講:イエスを『唯一の主』とする告白の言葉

(ローマ14章7~12節、2012年2月19日)

 

【今週のキーワード:「イエスは主」】

 信条は主イエスに対する信仰告白が中核となって徐々に定式化されていったものです

が、最も初めに出現した信仰告白は「主イエス」つまり「イエスは主」というものでし

た。使徒信条はイエスを「我らの主」と告白し、ニカイア信条はイエスを「唯一の主」と

告白しますが、本質的には同じ意味です。この「主」は、ローマ皇帝に捧げられた尊称で

あり、また「主なる神」ヤハウェに当てられた言葉でしたので、「イエスは主」と告白す

ることは、皇帝礼拝を拒絶し、またイエスを「主なる神」と同一視することを意味しまし

た。それは帝国やユダヤ教からの激しい迫害を引き起こすものとなり、「イエスは主」と

の告白は命をかけたものとなりました。しかしそれはなにより、イエスこそが自分自身の

主であることを表明することであり、それは自分が自分の主ではないことを告白するもの

でもありました。とことん自分のために生きるわたしたちのために、主は自分を捨て、ご

自分の命によって贖うことで、わたしたちを罪から救い出し、自分自身に対する呪縛から

も解放してくださいました。それによって「主のもの」とされたわたしたちは、何を自分

の主とし、誰のために生きているでしょうか。「わたしたちは、生きるとすれば主のため

に生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、

わたしたちは主のものです」。「主のもの」として生きる、それが「イエスは主」と告白

することなのです。

 

1.迫害の中での主イエスに対する信仰告白

 わたしたちはニカイア信条を告白していますが、これは正確には「ニカイア・コンスタ

ンティノポリス信条」と言い、それよりも前にあった信条を「原ニカイア信条」と言って

区別します。こちらは325年ニカイアという町で開催された公会議で採択された信条で、

この信条の中心にあったことは、イエス・キリストは神であるということでした。この会

議に出席した主教の中には、肢体の一部が欠損していたり、不自由な体を押して参加した

人たちも見られたそうですが、それは、その少し前まで猛威を振るっていたローマ時代最

後の大迫害の傷跡によるものでした1。303年2月に突然始まったディオクレティアヌス帝

による迫害は、キリスト教を根絶やしにしようとの決意の許で実施されたもので、帝国内

のすべての住民にローマの神々への犠牲を捧げることを強要するほど徹底したものでし

た。これに従わない者は、残酷な拷問による死刑か、劣悪な炭鉱への流刑となり、多く

のキリスト者が殉教することとなりました2。その迫害が終息したのは313年、コンスタ

ンティヌスが礼拝の自由を許す寛容令を出したことによってでした。ですからその12年

後に開催された会議に出席した主教たちには、迫害の傷跡がまだ生々しく残されていまし

た。彼らはどうしてそのような目に合ったか、それは彼らが「イエスは主である」と告白

したことによってでした。1コリント12章3節にある「イエスは神から見捨てられよ」

という言葉、原文は「イエスは呪われよ」ですが、これはまさに彼らが時の権力者から強

要された言葉でした。「イエスは呪われよ」、そう言えば彼らはこのようなひどい目に合

うことをまぬかれました。そして「皇帝は主である」と言えば、彼らは助かったのです。

しかし彼らはそう言わず、「イエスは主である」と告白しました。そしてこの告白のゆえ

に、ある者は命を落とし、ある者は拷問にあい、ある者は残虐な扱いを受けたのです。こ

こで見ていく「唯一の主」という告白は、彼らにとって自分の命をかけた告白なのでし

た。

 

 そしてこの「唯一の主」に対する信仰と共に、「わたしたちは信条の信仰告白の核心部

分に入っていきます。いやニカイア信条の核心部分というよりも、キリスト教の信仰の中

心に入るのです。・・・『キリストは主である』という告白が、あらゆる信仰告白の原型

であり、核であるということです。・・・さらに核心といった・・・意味は、ニカイア信

条の第一項もまた第三項も、この第二項の光の中でのみ正しく理解されるからです。すな

わち父なる神と聖霊なる神の認識は、イエス・キリストをとおして真に可能となるからで

す」3。そしてこの第二項、すなわち信条の中心部分をなすキリスト告白こそ、最初期に

出現した信仰定式で、「『主イエス・キリスト』あるいは『イエス・キリストは主なり』

という句が核となって作られた」ものでした4。ここでは「唯一の主」という条項を考え

ていきますが、この言葉には三つの意味がありました。第一に、ここで「唯一の主」と

言われるのは、ニカイア会議直前まで強要されていた皇帝礼拝に対する信仰告白でした。

今日はまとまった形をもつ信条も、その最初は短い信仰の定式から始まりました。その

中で最古のものの一つが「イエスは主である」という告白です。「主イエス」という言葉

自体が、「イエスは主である」という信仰告白で、パウロも「聖霊によらなければ、だれ

も『イエスは主である』とは言えない」と語りますが、それは「イエスは呪われよ」とい

う言葉と対比してのものでした。ローマ皇帝は「われらの主にして神」dominus et dues

nosterとたたえられ、その皇帝に対する礼拝は、臣民の義務でした。そこでそれを拒否す

るキリスト者は、無神論者として非難され、共同体の輪を乱す反乱分子として弾圧されま

した。そこで「皇帝は主である」という言葉と対比して、「イエスは主である」と告白さ

れたのです5。また当時の異教の神々も「主」と呼ばれ、たとえば「イシスは主である」

と言われていました。そこでパウロは語ります。「現に多くの神々、多くの主がいると思

われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとって

は、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って

行くのです。また唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、

わたしたちもこの主によって存在しているのです」と(1コリント8章5~6節)。こう

して自らを「主」と自称する諸々の異教の神々に対しても、イエス・キリストこそが「唯

一の主」であると告白されていくものなのでした。

 

2.主なるヤハウェはイエスであるとの信仰告白

 第二に、これは旧約聖書が啓示する「主なる神」を「唯一の神、唯一の主」とするユ

ダヤ教に対する、イエス・キリストへの信仰告白でした。先のパウロの言葉でも、「唯一

の神」と「唯一の主」が対応されていました。ニカイア信条でも、第一項の「唯一の神」

と、第二項の「唯一の主」が対応されています。この『唯一の』という言葉によって、イ

エス・キリストへの賛美が、神の主権の反映としてなされていることを知らせるのです。

『唯一の神』への信仰とまったく同じように『唯一の主』への信仰がここで告白されてい

るのです」。6 。パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死

者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と語りますが、そこで

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」というヨエルの言葉を引用して、ここで

「イエスは主である」という「主」が、旧約聖書が啓示する「主」と同じ方であることを

明らかにします(ローマ10章9、13節)。同じ言葉をペトロも、ペンテコステでの説教

で引用していて、そこでこのように語ります。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされ

た方です。・・・だからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた

がたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と

(使徒2章21、22、36節)。この「主」は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯

一の主である。あなたは・・・あなたの神、主を愛しなさい」と言われている「主」のこ

とです(申命記6章4、5節)。つまり「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イ

サクの神、ヤコブの神である主」のことであり、それはヤハウェという名を持つ神のこと

でした。そしてモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた方ご自身

のことなのです(出3章14~16節)。

 

 ユダヤ人は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という第三戒を忠実

に守り(同20章7節)、聖書の中で神の名が出てくる箇所では、その名を呼ばずに、

「主」アドナイと言い換えました。そのためその名をどのように読んだら良いか、分から

なくなってしまったわけですが、おそらくそれはヤハウェと呼ぶことで間違いないだろう

と考えられています。いずれにしてもここで「唯一の主」と告白されるイエスは、「アブ

ラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」のことであり、それは「わたしはあ

る。わたしはあるという者だ」という方ご自身であるということを告白するのです。つま

りこれはイエスが主なる神ご自身だという告白なのです。「唯一の主と呼んでいる時、明

らかに唯一の父と並べている。万物がそのようになったということであり。そのことは

つまり、創造主であるということであり、それは父に属することである。・・・ニカイ

ア信条では一という語に主という語を付け加えて、この呼称全体を、キリストの神性を護

るためのあの定式に一致させている。キリストが主であるとは、キリストが神であること

である」7。主イエスご自身、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言

われたことで、ユダヤ人からの迫害を受けられましたが(ヨハネ8章58、59節)、キリ

スト者もこの告白のゆえに、会堂を追い出され、ユダヤ教から迫害を受けました。しか

しそれでも彼らは、主イエスの前にひざまずいて、「主よ、信じます」と告白していった

のでした(ヨハネ9章34~38節)。

 

3.イエスを自分の主とする告白

 第三に、「イエスは主である」と告白することは、自分の主がイエスであることを告白

するということです。つまり自分自身が自分の主なのではなくて、イエスが自分の主であ

り、自分はこの方に仕える僕であるということの表明です。「イエス・キリストが我々の

主であるということは、何よりも先ず彼が我々の上にちょうど主人がその僕に対して持っ

ているような権威と力とを有している、という意味」です8。それは「神であるキリスト

の支配を受け入れ、その権威と教えに従って生きるということ」であり、そのように「キ

リストを主と認めることは、生活のすべての領域において、すべての時間をとおして、キ

リストとの主従関係に基づいた生き方をするということ」です9。このようにイエスを主

と告白することは、「わたしたちが生のあらゆる局面において、神であるイエス・キリス

トの支配と権威に従う仕方で関わることを意味して」いきます10。そしてここで「唯一の

主」と言うとき、そこでは「『イエス・キリストのみが主』であって、その他のいかなる

ものも、わたしたちの主とならない」ということであり、さらに「イエスを主と告白する

ことは、わたしたちの生き方と希望を方向付けると同時に、わたしたちをその他のあら

ゆる『主』となろうとするものから解放する」ということでもあります11。そこでわたし

たちの主となるとするものの中には、自分自身も含まれますし、また自分以外で外から

わたしたちを支配し、呪縛しようとする、あらゆるものについても言われることでもある

のです。「まことの主人は、このように、わたしたちの全体を支配する方であります。自

分の心も、体も、全く、任せることができ、信頼しうるお方であります。わたしたちのす

べてが、その方のものになってしまった時に、はじめて、主とよぶことができるのであり

ましょう」12。

 

 パウロは語りました。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はな

く、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のため

に生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、

わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きているのは、死んだ人にも生き

ている人にも主となられるためです」と(ローマ14章7~9節)。イエスが「わたしの

主」、それも「唯一の主」であるとは、わたしたちがこの方のために生き、また死ぬと

いうことであり、そのようにわたしたちが「主のもの」として生き、「主のもの」として

死ぬということです。そしてここでは、最後の審判のことが語られる中で、「すべてのひ

ざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」という言葉が引用されます。

これはイザヤ45章23節のギリシャ語訳聖書(七十人訳)からの引用ですが、これがフィ

リピ書でも引用されていきます。わたしたちが「主のもの」として生き、また死ぬという

ことが、最後の審判の文脈で語られるというのは、これらの信仰告白の背景にあった歴

史的事情を考えれば良く分かります。「イエスは主である」という告白は、ローマ皇帝を

主とすることを拒否することであり、それは帝国からの過酷な迫害を招くものとなりまし

た。またそれがイスラエルの「主なる神」と同じ方であると告白することは、ユダヤ教

からの厳しい迫害を招くことでもありました。いずれも厳しい状況の中で、それでも「イ

エスは主である」と告白して苦難に直面し、場合によっては命を落とすことになる中で、

それらのすべてはやがて最後の審判において明らかにされ、また報いられていくことが明

らかにされているのです。「イエスは主である」と告白するゆえに地上の命を失った者

は、永遠の命を得るのであり、それを貫くために「主のもの」として生き、そして死ぬの

です。

 

4.「全宇宙の支配者」としての主

 それはまさに主であるイエスご自身も同じでした。それを語るのがフィリピ書です。パ

ウロはここでキリストがご自分を無にしてとことんへりくだり、十字架の死に至るまで従

順であられたことを語った後、こう語ります。「このため、神はキリストを高く上げ、あ

らゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下の

ものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主であ

る』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と(フィリピ2章9~11節)。キリ

ストも、苦難を経て高く上げられました。この方を自分の主とするわたしたちも、同じ道

をたどり、神の栄光にあずかり、永遠の命に至ります。しかしそれはいずれも、父である

神がたたえられるためであり、神に栄光が帰せられていくためで、いずれは「天上のも

の、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イ

エス・キリストは主である』と公に宣べ」ることになります。

 

 たしかに今は、この主の権威に服そうとはしない時の権力者や為政者に苦しめられてい

ます。あるいは主イエスの神の栄光を認めようとしない者たちによって悩まされていま

す。しかしやがて終わりの時には、これらのすべてもイエスを主とあがめて、その前にひ

ざをかがめるようになっていき、そこで神の栄光が輝かされていきます。なぜならわたし

たちの主は、「天と地の一切の権能を授かっている」方であり(マタイ28章18節)、

「すべての支配や権威の頭」であって(コロサイ2章10節、エフェソ1章21、22節)、

その方が「教会の頭」であるからです(コロサイ1章15~18節)。ここで言う「主」と

は、「何よりも全宇宙の支配者を意味する」ものなのです13。「イエスが主であること

は、それ自体の中に、彼が私たちについて決定し、私たちを導き、そして支配することを

含んでいます。なぜならイエスは、・・・王的な支配権を神から受領したからで

す。・・・『神の世界統治はキリストの統治である』。・・・私たちの小さな人生は、イ

エスの大きく、恵みに満ちた支配、栄光の目標へと導く支配の一部であり、その目標へ

と私たちと世界とをイエスは導こうとされており、また導くでしょう。それゆえ私たちは

信仰においてその支配にまったく身を委ねてよいのです。・・・イエスは主であり、それ

ゆえ私たちの支配人なのです」14 。こうして「天上のもの、地上のもの、地下のものがす

べて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公

に宣べ」るその時を待ち望みつつ、自分が今委ねられている信仰の戦いを戦い抜き、信仰

の道を走り抜いて、自分を「主のもの」として献げつつ主のために生きていく、それが

「イエスは主である」と告白することです。

 

5.贖いによってわたしたちを「主のもの」に

 そこでわたしたちは「主のもの」として生き、また死ぬことについて考えたいと思いま

す。ここでパウロは、キリストの謙卑を語ります。「キリストは、神の身分でありなが

ら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身

分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで

従順でした」と(フィリピ2章6~8節)。考えてみてください。キリストがそうしてく

ださったのは、何のためでしたか。キリストが十字架にかかってくださったのは、誰のた

めでしたか。わたしたちのためでした。たしかに「イエスは主である」という告白は、他

のだれでもない主イエスこそ、わたしたちの主、つまり主人であり、わたしたちはその僕

に他ならないということの表明です。しかしわたしたちはどのように生きてきたでしょう

か。この方の僕として、真実にこの方を自分の主として仰ぎ、人生の主として従って生き

てきたでしょうか。否と言わざるをえない。わたしたちはとことん自分のために生き、

自分を主として歩んできました。それにもかかわらず、この方はご自分を捨てて、わたし

たちのために十字架にかかり、わたしたちを罪から贖い出してくださいました。とことん

自己中心に生きるわたしたちのために、ご自分を無にして、わたしたちを救い出してくだ

さったのです。ここでこの方がわたしたちの主であるということは、ただ一方的に要求さ

れ、強いられていることではありません。この方がわたしたちに向かって「主である」こ

とを求めるとき、そのためにはこの方がまずご自分を捨て、僕としてわたしたちに仕えて

くださいました。その命を代価として、わたしたちをご自分のものとしてくださいまし

た。この贖いを根拠にして、わたしたちに呼びかけてこられるのです。わたしはあなたの

主であると。

 

 ルターは『小教理問答』の中で、「神の独り子、我らの主イエス・キリストを信じま

す」という条項によって、どのような信仰を言い表しているかと問い、それにこのように

答えます。「わたしは信じます。永遠に父から生まれたまことの神、処女であるマリアか

ら生まれたまことの人であられるイエス・キリストこそ、わたしの主であります。主は、

失われ、既に断罪されていた人間であるわたしを、一切の罪、死、悪魔の支配から奪い返

し、ご自身のものとすることによって、救い出してくださいました。それも金や銀によら

ず、ご自身の聖なる、価高き血、そして罪責なくして受けた苦しみと死によってでありま

す。それは、主ご自身が、死のうちから甦り、永遠に生き、支配しておられるのと全く同

じように、わたしが、その主のものとなり、そのみ国にあって主のもとに生き、永遠に義

とされ、永遠に罪責から解き放たれ、永遠の祝福にあって、主に仕えることができるよう

になるためであります。これこそ、確かに真実のことであります」15 。『ハイデルベルク

教理問答』では、「なぜこの方を『われらの主』と呼ぶ」のかという問いに対して、この

ように答えます。「この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪

と悪魔のすべての力から解放し、また買い取ってくださり、わたしたちを体も魂もすべて

を御自分のものとしてくださったからです」と(問34、1ペトロ1章18、19節)16。この

尊い犠牲によって、わたしたちは「主のもの」とされ、主の僕、主に仕える者とされまし

たが、その前提に、主がわたしたちの僕となって、わたしたちに仕えてくださったことが

あるのです(テトス2章14節)。ただ一方的に仕えることを強要され、強制的に僕とさ

れたのではなく、ご自身の大きな犠牲のゆえに、わたしたちが「主のもの」となり、こ

の方を自分の「主」とお呼びする者とされたことを覚える必要があります。わたしたちは

「代価を払って買い取られた」ものたちでした(1コリント6章20節)。そこでこの教

理問答の最初の問いでは、このように語られています。「生きるにも死ぬにも、あなたの

ただ一つの慰めは何ですか。わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるに

も死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御

自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたし

を解放してくださいました」と(問1)17 。この方だけがわたしを罪から救い、贖い出し

てくださいました。だからこの方だけがわたしたちにとっての「唯一の主」なのです。

 

 2世紀にリヨンで司教をしていたポリュカルポスという殉教者を紹介したいと思います

18。リヨンでキリスト教徒迫害が激しくなる中で、指導者であるポリュカルポスも逮捕さ

れます。しかし彼を逮捕した長官は、90歳近い彼を哀れに思い、何とか釈放したいと考

えて、こう言います。「『皇帝は主である』と言い、香を焚けば、わたしの権限で釈放す

る」と。しかしポリュカルポスはそれを断ります。長官はけげんに思い、「『皇帝は主で

ある』と言って、いったい何が悪いのか」と問いますが、ポリュカルポスは拒みます19。

そこで彼は荒れ狂った群集が待ち受ける競技場に引き出され、今度は総督の前で尋問を

受けます。総督は、「皇帝に誓って、ただ一言、『イエスは呪われよ』と言えば、助けて

やる」と語りますが、それにポリュカルポスは、こう答えます。「わたしはこの歳に至る

まで、実に86年の長きにわたって主に仕えてきました。その間主はわたしに慰めと平安

と力を与えてはくださいましたが、ただの一度も悪いことはなさいませんでした。それな

のにどうして、この恵み深い主を呪うことなどできましょうか」と。そして何度ものやり

取りの後、火あぶりになると脅されますが、それにポリュカルポスは答えるのでした。

「閣下はわたしを火あぶりで殺すと脅されますが、そんな火はほんの一時間ほど燃えれ

ば消えてしまいます。それよりももっと恐ろしい火があることをご存知ですか。不信者の

ために用意されている最後の審判の日の火は、永遠に燃え続ける刑罰の火です。閣下こ

そ、その火を恐れるべきです」と。そして火刑に処せられていきます。ここでのポリュカ

ルポスの言葉に心を留めてください。「イエスは呪われよ」と求められたのに対して、彼

はこれまでの信仰の生涯における主の真実を語り、「わたしはこの歳に至るまで、実に

86年の長きにわたって主に仕えてきました。その間主はわたしに慰めと平安と力を与え

てはくださいましたが、ただの一度も悪いことはなさいませんでした。それなのにどうし

て、この恵み深い主を呪うことなどできましょうか」と答えました。これが「イエスは主

である」という告白の本質です。ポリュカルポスが火刑に処せられたとき祈った言葉が伝

えられています。「これがために、一切のことについて、あなたの愛する御子、永遠なる

天上の大祭司イエス・キリストによって、あなたをたたえます。御子によって、あなたに

誉れが今も世々も帰されますように」。それは「キリストによって神を礼拝する」(テル

トゥリアヌス)ということなのでした20。

 

 わたしたちは、いつか自分の信仰の生涯を振り返ったとき、ポリュカルポスと同じよ

うに語ることができるでしょうか。それとも自分の人生は惨めだったと、不平と不満で

溢れ返るでしょうか。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」

とは、初代教会の信仰告白でした(2テモテ2章13節)。不真実なわたしたちなのに、

それでも誠実を尽くしてくださる真実な主、それがわたしたちの主です。だからこの方だ

けがわたしたちの「唯一の主」なのです。この世の何かでも、自分自身でもありません。

わたしたちは、一体だれを、自分の主としているでしょうか。カルヴァンは『キリスト教

綱要』において次のように語ります。「わたしたちはわたしたち自身のものではない。し

たがって、わたしたちの理性や、意志に、自分たちの思いや行動を左右されてはならな

い。わたしたちはわたしたち自身のものではない。したがって、肉に従って自分たちに都

合のよいものを求めることに目的をおいてはならない。わたしたちはわたしたち自身のも

のではない。したがって、わたしたちはできるかぎり、自分自身と、自分のものとを忘れ

なければならない。その逆に、わたしたちは神のものである。したがって、わたしたちは

神のために生き、そして神のために死ぬべきである。わたしたちは神のものである。した

がって、わたしたちのあらゆる行動は、神の知恵と意志によって支配されねばならない。

わたしたちは神のものである。したがって、わたしたちの生のいっさいの部分は、唯一の

正しい目的としての神に向かわなくてはならない」21。わたしたちもパウロと共に告白し

たいと思います。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一

人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死

ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたち

は主のものです。」。

 

 

 

1 「このニケアの会議に集まって来た人たちの中にも、迫害のときに負った傷をからだに

 留めている教会の指導者たちが何人もいたと伝えられています」。加藤常昭、『ニケア

 信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白』(加藤常昭説教全集29)、2006年、教

 文館、20頁、また70~71頁参照

2 「303、4年およびそれ以後のディオクレティアヌス帝の迫害によって異教の帝国は、最

 後にもう一度かつてない激しさでキリスト教を根絶しようとした」。H.I.マルー、

 『キリスト教史2 教父時代』、平凡社ライブラリー168、1996年、平凡社、19頁。

 迫害の状況については、第2章「最後の迫害と教会の平和」、参照。

3 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、91頁

 「新約聖書においては『イエス・キリストは主である』という告白がキリスト論の核心

 とされた」。ロッホマン、『講解・使徒信条』、1996年、キリスト新聞社、139頁参照

4 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、64および46頁参照

5 同上、49および70~71頁参照

6 関川、前掲書、95頁

7 バルト、『われ信ず 使徒信条に関する教義学の主要問題』、2003年、新教出版社、

 51頁

8 同上、52頁

9 石田学、『日本における宣教的共同体の形成 使徒信条の文脈的注解』、2004年、

 新教出版社、81頁

10 同上、87頁

11 同上、88~89頁

12 竹森満佐一、『正しい信仰』、1988年、東京神学大学出版委員会、39~40頁

13 ロッホマン、前掲書、145頁

14 ファン・リューラー、『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信

 条』、2000年、教文館、117~118頁

15 加藤常昭、「マルティン・ルター『小教理問答』・私訳と略解」、1995年、『季刊 

 教会』21号、日本基督教団改革長老教会協議会神学委員会

16 吉田隆、『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、2005年、新教出版社、69~70頁

17 同上、8頁

18 弓削達、『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』、1984年、日本基督教団出版局、

 168~178頁;半田元夫、『血と十字架』、1967年、人物往来社、267~282頁

19 ロッホマン、前掲書、141頁

 ユングマン、『古代キリスト教典礼史』、1997年、平凡社、147頁

20 ユングマン、前掲書、211~212頁

21 カルヴァン『キリスト教綱要』第3篇7章1節、ただし引用は、エルシー・マッキー、

 『執事職 改革派の伝統と現代のディアコニア』、1998年、一麦出版社、33頁から