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第6講 「見えないもの」を支配する神への信仰の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第6講:『見えないもの』をも支配する神への信仰の言葉

(ヘブライ11章1~3節、2012年2月5日)

 

【今週のキーワード:見えないもの】

 信条は「天地の造り主」が「見えるものと見えないものすべてのもの」の造り主でもあ

ると告白します。「見えないもの」とは何でしょうか。見えないものとは、単に肉眼で認

識できないもののことではなく、「天使や諸霊といった目に見えない被造物」のことで

す。その中には、わたしたちを脅かす悪しき霊的存在もあります。しかしこれらは神と無

関係に存在するものではありません。わたしたちは依然として、こうした悪しき霊的な力

に押さえつけられ、囚われ、支配されているように思えます。しかしまさにそのところ

で、今自分を捕らえ、抑えているように見えるものも、実は全能の父の御手の中にあり、

その支配の中でコントロールされているものにすぎないということが語られるのです。た

しかに今はそのようには見えないけれど、それでも神はそれを統御しておられるだけでは

なくて、必ずふさわしく変えていってくださるのだと。わたしたちは、自分の力ではどう

することもできないようなものに翻弄され、振り回されることもあります。しかしそこで

信じるのです。この問題も、この災いも、この病気も、すべては全能の父の御手の支配の

中にあるものにすぎないし、すべては神によってちゃんと統御されているのだと。神と無

関係に起こる災いはなく、神のあずかり知らないところで生じる問題もない、そのことを

信じることが、「見えるものと見えないもののすべてのものの造り主」に対する信仰なの

です。

 

1.「見えないもの」とは何か

 サン・テグジュペリの書いた『星の王子さま』という本の中で、ある星から来た王子さ

まが、友だちのきつねから、こう言われる場面があります。「心で見なくちゃ、ものごと

はよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」1。わたしたち

は、目に見えるものに心を捕らわれて生きてきたかもしれません。家や財産、車や人と

いったものです。しかしそうしたものをもぎ取られる経験をすることがあります。それは

何も物ばかりではありません。仕事や人間関係、生きがいや周りの状況、そうした目に

見えるものに依存し、それを拠り所として生きてきました。しかしそうしたものが一瞬に

して奪い取られ、失われていくことを経験する中で、本当に大切なものとは何か、本当に

拠り所とするべきものとは何かということへと、思いを向けさせられていくのではないで

しょうか。

 

 ニカイア信条の「天と地、見えるものと見えないものすベてのものの造り主」の条項を

二回に分けて考えます。使徒信条と比べてすぐに気づくことは、使徒信条が「天地の造り

主」としているところに、さらに「見えるものと見えないものすべてのもの」が付け加え

られていることです。今回はこの「見えるものと見えないもの」について考えていきま

す。この「天と地」と「見えるものと見えないもの」とでは、違いがあるのでしょうか。

違いがなければ、わざわざ付け加える必要はないと考えてしまいますが、この両者は違う

ことを言い表しているのではなくて、天地の造り主である全能の父が支配される領域を、

さらに詳しく丁寧に告白したものと考えることができます。この「天と地」という言い方

は聖書に出てくる表現で、それがギリシャ語の世界で通用するように「見えるものと見え

ないもの」と言い表されたのです。つまり「『天と地』は『見ゆるものと見えざるもの』

の同義語であって、しかも意味を補うもの」であり2、聖書的表現である「『天』と

『地』はギリシャ語信条における『見ゆるもの、見えざるもの』に」相当し3 、「天と地

の中に一切の被造物を含む」もので、「『見ゆるもの』『見えざるもの』の二語のうちに

一切の被造物が含められ」ることになりました4。そこで「『見ゆるものと見えざるも

の』と告白するとき、わたしたちはあらゆる被造物が一つの例外もなく、神のご支配に

服していることを言い表している」ことになるのです5。「天地という表現は、聖書の伝

統では常に神以外のすべてのものを指して」いて、「神を『天地の造り主』と認めること

は、この世界の一切がその存在を神に負い、依存していることを表明する」ことを意味し

ました6。

 

 しかしそこで「見えないもの」とは、具体的には何を意味するのでしょうか。見えない

ものというとき、まず思い浮かぶのは、肉眼で認識できないという意味での「見えな

い」ものです。たとえば電波は目に見えません。皆さんそれぞれ携帯電話をお持ちでしょ

うから、ここではさぞかし多くの電磁波が飛び交っていることでしょうが、それは目に見

えません。また今日は放射能の脅威というものがあります。放射能の恐さの一つは、目に

見えないことです。ここにどのくらいの放射能があるのか分かりません。たしかにこうし

たものは目に見えません。肉眼で見えないという意味ではそうでしょう。しかしこれら

は計測できるもので、どこまでも物理的なものですから、そうしたものはむしろ「見える

もの」に入るのではないでしょうか。また実際には見えないけれど、やはり「見えるも

の」に入るものがあります。例えば歴史です。これまで起きた歴史的な事件はすでに過去

のもので、今のわたしたちには見えません。しかし実際に起きた出来事ですから、肉眼で

は見えないけれど、やはり「見えるもの」に入るのではないでしょうか。そうすると「見

えないもの」とは何を意味するのでしょうか。ニカイア信条が作成された時代の歴史的な

意味で言えば、天使といった霊的な被造物、目に見えない被造物のことでした。あるい

はわたしたちの霊的な部分や、この世の中の見えないこと、例えば真理とか、美とか、善

といった理念、そういうものを指すと考えてよいでしょう。単に肉眼で認識できないとい

うだけではなく、生まれながらの心では知ることができないもの、信仰によらなければ

見ることも知ることもできないもののことで、具体的には「天使や諸霊といった目に見え

ない被造物」のことです7 。そうしたものも被造物、つまり神がお造りになられたものだ

ということです。

 

 そういったもののすべてを神がお造りになったということは、神がそれらを造ったとい

うだけではなくて、それらの全てを支配し、維持しておられるということです。単に天地

創造という過去の出来事を意味するだけではなくて、それを今も御手をもって支配し、統

治しておられるということです。またこれからも統御してくださる、そのようにコント

ロールしておられるということで、神の創造だけではなくて、摂理の御業を信じるという

ことです。神が全能の父として、見えるもの、物理的なものだけではなく、見えないも

の、霊的なものも創造しただけではなく、今もそれを支配し、これからも御手に握り締

めて統御してくださるということで、これが「天地の造り主」を信じるということの眼目

です。

 

2.「見えないもの」を見ていく信仰

 なるほどそうか、それは天使のような霊的存在であると。しかしそこでわたしたち

は、別の疑問が生じてきます。そうした目に見えない霊的存在は、すべてが善いもの、善

い霊ばかりだというのではなく、悪い霊もあります。そしてそうした悪しき霊的存在、神

に背き、神に逆らう霊的勢力が、わたしたちをも脅かしているのではないかということで

す。端的に言えば悪霊です。そしてそうした悪しき霊が、わたしたちを脅かしているばか

りではなく、むしろわたしたちを支配していないかということです。エフェソ書にこうい

う言葉があります。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたの

です。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に

今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」(2章2節)。ここにはわたした

ちのかつての姿が描かれています。そこでわたしたちは、「この世を支配する者、かの空

中に勢力を持つ者」に支配され、牛耳られて、それに促されて過ちと罪を犯し続けていた

のであり、そうした霊は、不従順な者たちの内に今も働いていると。たしかにこれも「見

えないもの」です。そうしますと、わたしたちの中にむくむくと疑問が湧いてきます。そ

れではこうした悪しき霊も、神が創造されたということかと。限られた紙面でこの難問を

説明することはとてもできません。しかし答えは明確で、否です。なぜなら神が創造され

た世界は「善い」ものだったからです。前回考えたように、善である神は善しか意志しま

せん。悪を意志することはご自分の善である本性に反することで、決してそれを望んだ

り、求めることはありません。悪を創造することもありません。しかしそこに後から悪

が侵入して、神が創造された善き世界を悪しきものにしてしまった、それが聖書の教えで

す。それでは悪はどこから来たのか、悪の起源は何か、それについてもここで説明するこ

とはできません。簡単には解決できない難問です。ただ一つはっきり言えることは、神は

この世界を「善いもの」として造られたこと、そしてそこに後から闖入してきた罪と悪を

も、全能の御手を持って支配し、統御しておられるということです。そしてやがてはそれ

らに対する裁きを行い、終わりの時に最終的な決着をつけてくださるのです。そしてこの

ことこそ、「天と地、見えるものと見えないもののすべての造り主」ということで言い表

され、わたしたちが信じるべきことなのです。

 

 たしかにわたしたちは依然として、こうした悪しき霊的な力に押さえつけられ、囚わ

れ、支配されているように思えます。そこでは神の善き創造、神の善なる業は見えませ

ん。聖書の最初に記された天地創造の記事では、「神はこれを見て、良しとされた」とい

う言葉が繰り返され(創世記1章4、10、12、18、21、25節)、最後に「神はお造りに

なったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と記されています

(31節)。けれどもわたしたちの日々の生活には、この神の善き創造の御業が少しも見

えてきません。むしろとんでもない問題に巻き込まれ、思いもかけない病気になり、自分

の力ではどうにもできない困難に直面する中で、災いは重なるばかりです。そこに神の恵

みを見ることはできず、むしろ自分が得体の知れない何かの力に押さえつけられ、囚われ

てしまっているようにさえ思います。しかしまさにそのところで、今自分が捕らえられ、

抑えられているように見えるものも、実は全能の神の御手の中にあり、その支配の中でコ

ントロールされているものにすぎないということが語られるのです。たしかに今はそのよ

うには見えないけれど、それでも神は必ずそれを統御しておられるだけではなくて、ふさ

わしく変えていってくださるのだと。わたしたちは、自分の力ではどうすることもできな

いようなものに翻弄され、振り回されることもあります。しかしそこで信じるのです。自

分ではどうすることもできない、この問題も、この災いも、この病気も、すべては全能の

父の御手の支配の中にあるものにすぎないし、すべては神によってちゃんと統御されてい

るのだと。神と無関係に起こる災いはなく、神のあずかり知らないところで生じる問題も

ない、そのことを信じさせるのが、「見えるものと見えないもののすべての造り主」に対

する信仰ではないでしょうか。

 

3.「見えないもの」を信じる信仰

 ヘブライ書には次のように記されます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えな

い事実を確認することです」と(11章1節)。そしてこう続けました。「信仰によって、

わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えて

いるものからできたのではないことが分かるのです」と(同3節)。見えるものは見えな

いものからできている、つまり神の言葉によってです。神の意志です。善いものが存在す

るように願い、それを意志して天地を造られた、その神の恵みの言葉、神の愛の言葉で

す。その神の言葉によって、この世界のすべては造られました。その後に続くのは信仰者

列伝です。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたと

き、おそれかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界

を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」(同7節)。ノアにも見

えなかった、しかしそれを信じて従いました。それはノア一人だけではなく、アベル、エ

ノク、アブラハムも同じでした。アブラハムについては、パウロもこう語ります。「『わ

たしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在

していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたち

の父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、

『あなたの子孫はこのようになる』と言われたとおりに、多くの民の父となりました」

(ローマ4章17、18節)。アブラハムは、「彼は希望するすべもなかったときに、なお

も望みを抱いて、信じ」た。まだ見えないときに、信仰を持って見たのです。まさしくこ

れが信仰ではないでしょうか。だからこのように語られていきます。「わたしたちは、こ

のような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありませ

ん。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないもの

を望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と(8章24、25節)。見えないからこ

そ、信じるのです。

 

 「見えないもの」とは、わたしたちの目から隠されたもののことです。それは単に肉眼

で見えないということだけではなくて、わたしたちの心においても見えないことです。

もっと言うなら、わたしたちには理解できないし、すぐには受け入れられないような出

来事、そのような神の御業も含まれます。例えば会社が倒産したり、家が破産したり、大

変な問題に出会ったり、災いとしか言いようがないような出来事に直面したり、病気に

なったりといったことで、どうしてあなたはこのようなことをするのですか、と問いたく

なるような、神のなさりようのことです。そうしたものも見えない、それは肉眼で見えな

いという意味ではなくて、分からない、理解できない、受け入れられないという意味での

「見えない」です。わたしたちは神が見えなくなるときがあります。その場合も、神が霊

だから見えないということではなくて、神がなさることが理解できないという意味で「見

えない」ということです。イザヤ45章15節に「まことにあなたは御自分を隠される神」

という言葉があります。「御自分を隠される神」、だからときどきわたしたちには、神が

見えなくなるのです。前回は詩編34編20節の「主に従う人には災いが重なるが」という

言葉を考えました。神を信じ、主に従う人でも苦難に遭います。苦しみに直面します。災

いとしか言いようのない問題に振り回されます。そこで「主はそのすべてから救い出し、

骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる」ということが、すぐに分か

ればよいのですが、多くの場合はそうではない。そこでわたしたちは神を見失ってしまい

ます。神が見えない、つまり神がなさることが理解できなくなり、信じられなくなってし

まうのです。神はわたしたちから隠れてしまう、このことをある人は「神の日食」と言

い、別の人は「神の沈黙」と言いました。わたしたちが痛み苦しむとき、神は応えてくだ

さらず、神の助けを最も必要とするとき、神は沈黙したままで、御自身を隠しておられる

と思うことがあります。詩編22編で詩人はこう訴えます。1~3節「わたしの神よ、わた

しの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻

きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は呼び求めても答えてくださらな

い。夜も、黙ることをお許しにならない」。このようなとき、わたしたちには神は見えな

いのです。そして神がなさることも、その御手の業も、わたしたちには隠されたままで

す。しかし信条は告白するのです。わたしたちの目には見えないものも、神はお造りにな

られたと。神がわたしたちのために為してくださる御業も、わたしたちには見えないけれ

ど、それでもなお神はわたしたちのために御業を実現してくださると。

 

4.ヨブの苦しみに対する神の答え

 わたしたちは問題に直面する中で苦しみます。しかしわたしたち信仰者にとっての苦し

みは、直面した問題がもたらす苦しみ以上に、そこで与えられる苦しみの意味が分からな

いということにあるのではないでしょうか。神はなぜこのような苦しみを遭わせるのか、

どうしてこのような問題に直面することを許されるのかと、神が為さることが見えないこ

と、それがわたしたちをいっそう苦しませていきます。こうした不条理な苦しみを深く神

に問いかけた信仰者の一人に、ヨブがいます。彼は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を

避けて生きていた」人でした(1章1節)。ところがそのヨブに、次々と不幸が襲いか

かります。しかしそこでヨブは語ります。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろ

う。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と(同21節)。そして聖書は

こう記します。「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」

と(同22節)。しかしヨブはさらなる災いに見舞われます。ところがそこでヨブはなお

こう語るのでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただ

こうではないか」と。そしてこう記されていきます。「このようになっても、彼は唇を

もって罪を侵すことをしなかった」と(2章10節)。信仰者の模範というか、鏡のよう

なヨブです。ところが3章から一転します。3人の友人たちと対話を繰り返す中で、ヨブ

の言葉はどんどんエスカレートし、鋭さを増していきます。そこでヨブは繰り返し、どう

して自分がこのような苦しみに会わなければならないのか、その苦しみの意味を問い続け

ていきます。自分のどこに落ち度があり、問題があるのか答えてほしいと繰り返し、ヨブ

の最後の問いは次のようなものとなります。「どうか、わたしの言うことを聞いてくださ

い。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください」と(31章35節)。こ

うした議論を延々と読んだ後、そうしたヨブの切実な問いに、やっと神は現れて答えられ

ます。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言

葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ね

る、わたしに答えてみよ」(38章1~3節)。

 

 わたしたちも自分が直面した苦しみの意味が分からず、同じ悩みの中でヨブ記を読むわ

けですが、そこでたいてい落胆します。ここで語られる神の答えは、およそヨブの切実な

問いに対する答えとなっていないからです。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこに

いたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(同4節)。こうし

て41章まで続く神の言葉は、神がこの世界を創造し、それを今も支配しておられるとい

うことです。けれども無垢で信仰深いヨブが、どうして不条理な苦しみに会わなければな

らなかったか、その苦しみの意味は解き明かされていきません。そしてわたしたちも悩み

ます。ここからは答えを得られないからです。ところがそれにもかかわらず、ここで生け

る神の現臨に出会い、神の創造の御業を見せられたヨブは、意外なことに、自らの非を

認めて悔い改めます。「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨

げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を暗く

するとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき

御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えて

みよ。』あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ま

す。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42章1~6

節)。このヨブ記の終わり方は、わたしたちには意味不明で理解不能です。神はヨブの問

いに、そしてわたしたちの問いに答えてくださいません。なぜわたしがこんなに苦しむの

ですか。この苦しみはどういう意味があるのですか。この問いにヨブ記は答えてはくれな

いのです。

 

 ただここで気がついてほしいことは、たしかにヨブの疑問は「解決」したわけではあり

ませんでしたが、「解消」してしまったということです。問いに解答が与えられたわけで

はなく、問題が解決されたわけではありませんが、解答の必要がなくなってしまったので

す。なぜなら問いそのものがなくなってしまったからです。『隠されたる神 苦難の意

味』の中で山形謙二さんは、このように語ります。「ヨブに対する神の答えは、苦難の解

決にあったのではない。苦難をもたらした状況は何も変わっていないのに、すべては変

わってしまった。変わったのはヨブ自身である。全能なる神に出会うことによって、苦難

の問題に対するヨブの態度が変えられたのである。矢内原忠雄氏は、ヨブの疑問は『解

決』したのではなく『解消』したのであると言っている。ヨブの疑問に対する解答があっ

たのではない。しかし、その解答の必要がなくなってしまったのである。全能にして全宇

宙の支配者なる神の前に出たとき、ヨブはその偉大なる神と争っている自分がいかに弱

く、小さく、しかもあまりに高慢であるかを十二分に思い知らされた。そのときヨブは

ただちに無条件降伏せざるをえなかったのである。全能なる神との出会いによりヨブ

は、自分の頭でわかっていることが決してすべてではないこと、そして、たとえ自分がこ

の苦難の理由について知ることができなくても、自分の理解力をはるかに超えた広大な真

理が存在していることを悟ったのである」8 。天地の造り主である全能の父に出会うと

き、わたしたちが変えられます。これまでは見えなかった神の御業が見えるようにされて

いくのです。そこでわたしたちは、神が「見えるもの」だけではなく「見えないもの」の

造り主でもあることを知るのです。その「見えないもの」とは、今はまだわたしにはその

ようには見えないけれど、わたしのために最善を為してくださる恵みの御業のことなので

す。

 

5.新しく「見えないもの」を造られることへの信頼

 ここでわたしは、「見えないもの」ということを、二つの別の意味でお話しています。

一つは最初に申し上げた、目に見えない霊的な存在です。そしてそうした得体の知れない

見えない存在によって、わたしたちが脅かされているように見えます。そこには神の恵み

の御業が見えません。わたしに対する神の守りと祝福が見えない、しかしまさにそこで

神はもう一つの「見えないもの」を造り出してくださいます。見えないものを創造された

神は、わたしたちの内に、もう一つの見えないものを創造してくださるのです。それは神

の見えない恵みの業に対する信仰です。見えるところは厳しい現実ばかりです。悲惨とし

か言いようがない現実ばかりが続き、状況は何一つ変わっていかないように見えるかもし

れません。神は本当に生きておられるのかとつぶやきたくなる毎日で、そこでは神の善き

業は何一つ見えてきません。しかしこのように、わたしたちに対する神の慈しみの意志が

少しも見えない現実の中にあって、それでも神がわたしのために善きことを実現してくだ

さることを見えるようにしていく、信仰を創造してくださるのです。

 

 およそ神の恵みの御手が見えない現実のただ中にあって、そこにも神が生きて働いてく

ださり、わたしのために最善を実現してくださっていることを見るという、神への信仰を

創造してくださる。わたしの不信仰のただ中に、神に対する信仰を新しく生み出してくだ

さる、そういう創造です。新しく目が開かれていくことで、目に見える現実に逆らって、

なお神を信頼する信仰が生み出されていくのです。そして、そこではまだ見えない神の恵

みの御業を、それでも信じる者へと変えられていくのです。最初にサン・テグジュペリの

『星の王子さま』の一節を紹介しました。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないっ

てことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。この言葉は、そのような意味で真

理ではないでしょうか。「かんじんなことは、目に見えない」、だから「心で見る」ので

す。信仰の心で、まだ見えてはいないけれども、確かに現実の中で生きて働いておられる

神を見るのです。それはまだ見えていないかもしれません。しかしだからこそ、それを心

で見る、信仰の目で見るのです。「神が全能であることを信じることは、神の未来に望み

を託することである。悪と苦難の現実の中で、『望んでいる事柄を確信し、見えない事実

を確認すること』によって、忍耐し、望みを失わず、神を信じる生き方を続けてゆくこと

を可能にするのが、神が全能の神であるという信仰に他ならない」9 。そしてこのことこ

そ、「見えないもの」をも造り、それを御手の中で支配しておられる方に対する信仰では

ないでしょうか。

 

 

 

1 サン・テグジュペリ、『星の王子さま』、1985年、岩波書店、115頁

2 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、156頁

3 渡辺、前掲書、62頁

4 渡辺、前掲書、156頁

5 関川泰寛、『ニカイア信条講解 キリスト教の精髄』、1995年、教文館、86頁

6 石田学、『日本における宣教的共同体の形成』、2004年、新教出版社、60頁

7 ロッホマン、『講解・使徒信条』、1996年、ヨルダン社、99頁

 「信条は天使や聖霊といった目に見えない被造物のことを考えている・・・」

 関川、前掲書、86~87頁、

 「『見えざるもの』で、天使や諸霊の存在が示唆されていると考えてもいいでしょ

 う」。

 渡辺、前掲書、156~157頁

 「『見えざるもの』・・・は、・・・より高貴な被造物、すなわち天使を指していると

 考えて良いであろう」。

8 山形謙二、『隠されたる神 苦難の意味』、2008年、キリスト新聞社、103頁

9 石田学、前掲書、74頁