第7講 「天地の造り主」に依り頼む希望の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第7講:『天地の造り主』に依り頼む希望の言葉

(ローマ8章18~28節、2012年2月12日)

 

【今週のキーワード:善き創造】

 「天地の造り主」という条項は、使徒信条が原型とした古い信条にはなく、「われは全

能の父なる神を信ず」に、「天地の造り主」が後から付加されました。それでは最初期の

キリスト教には天地の造り主に対する信仰がなかったのかというと、そうではなく、そ

れは「全能の父なる神」に含まれていると考えられていました。しかしキリスト教がギリ

シャ・ローマ世界に広がっていく中で、そのことを明確に告白する必要が生じてきます。

なぜならそこは、創造を否定する世界だったからでした。特にグノーシス主義という異端

が入り込んで脅威となり、論駁する必要が生じます。このグノーシス主義の背景にあった

のが善悪二元論で、そこでは創造も、それによって生み出された物質も全て悪であり、そ

れを造り出した神は、善の神に対立する悪の神とされました。それに対抗して教会は「善

き創造」を主張しました。創造は悪ではなく元々は善いもので、天地を創造されたのは悪

の神ではなく、善であり全能である父によって為されたことを主張したのでした。この世

界は、善である神が創造された「善き世界」であり、神の善き支配の中に統治されてい

る、それが「天地の造り主」で告白することです。わたしたちは「天地の造り主」と告白

するたびに、たとえ見えるところは災いや問題であっても、それが神の「善なる御業」で

あることを信頼し、「わたしの幸いを目指して」なされる神の摂理に依り頼んでいくので

す。

 

1.創造を否定する異端との戦いの言葉

 ニカイア信条の「天と地、見えるものと見えないものすベてのものの造り主」の条項を

二回に分けて考えています。使徒信条にしろ、ニカイア信条にしろ、洗礼信条には元にし

た原型というものがあり、それが時代の変遷の中で付加されたり、削除されたり、順序

が入れ替えられたりして、現在の形に整えられていきました。そして「天地の造り主」と

いう条項は、使徒信条の原型と考えられているローマ教会の古い信条にはありませんでし

た1。最初は、「われは全能の父なる神を信ず」だけで、そこに「天地の造り主」が付加

されたのでした。それでは最初期のキリスト教には、天地の造り主に対する信仰がなかっ

たのかというと、決してそうではありません。キリスト教は天地の造り主に対する信仰を

ユダヤ教から引き継ぎ、それは自明のことでした。ですからそれは「全能の父なる神」に

含まれていると考えられました。「『天地の造り主』という一節は、『古ローマ信条』な

ど初期の形式には含まれていない。・・・それは、神を『全能の父』と表現した時点です

でに含意されていたのである。神が天地の造り主でもあることをことさらに付け加えるの

は、ほとんど同意反復である。・・・『天地の造り主』は『全能の父』という信仰箇条

にはじめから包含されて信じられていたことが明示化され、言語化されたものに他ならな

い」2。しかしキリスト教がギリシャ・ローマ世界に広がっていく中で、そのことを明確

に告白する必要が生じてきます。なぜならそこは、創造を否定する世界だったからでし

た。特にキリスト教の中にグノーシス主義という異端が入り込んで猛威を振るい、2~3

世紀には脅威となっていたため、それを論駁する必要が生じます。このグノーシス主義

は、様々に分かれていて、細かい点で多くの違いがありますが、共通する点を紹介する

と、だいたいこのような教えです。まずなによりもこの世界や物質や体というものを悪と

見なすということが大きな特徴で、それらはデミウルゴス(造物主)という悪の神が造り

出したものだとしました。そして人間は元々は霊的存在で、かつては善の神と共に天の世

界にいましたが、罪を犯して堕落したために、肉体という牢獄に閉じ込められてしまいま

した。そこで肉体という牢獄に囚われて、悪の世にいる人間を、善の神が憐れんで、魂を

牢獄である肉体から救い出して、天の世界へと導き出すために遣わされたのがキリスト

で、そのためには正しい知識すなわちグノーシスが必要だというものでした3。

 

 こうしたグノーシス主義の背景にあったのは善悪二元論でした。そこでは創造も、それ

によって生み出された物質も全て悪であり、それを造り出した神は、善の神に対立する悪

の神です。ですから当然、人間を救うために来られたキリストも、悪である肉体をとるは

ずはなく、そのように「みせかけた」だけだとしました。そこから「仮現論」という教

説も生み出されていきました。しかしそれでは、体をもって生き、体と共に罪にあるわた

したちを本当に救うことは成り立たなくなってしまいます。そこで教会は、主が本当にわ

たしたちと同じ肉体をとって生まれ、その肉体をもって十字架にかかって死に、その肉体

において復活し、その肉体をもって再び来られることを告白しました。アンティオキアの

司教で、殉教したイグナティオスは、手紙の中でキリストが実際に肉体をとられたことを

強調して述べました。「イエスはダビデの裔、マリアから真実に生まれ、食べ飲み、ポン

ティウス・ピラトゥスのもとに真実に迫害され、真実に十字架につけられて死んだので

す。それは天と地と地下の諸霊の眼前で起こったことなのです。彼はまた真実に死者の中

から甦ったのです」4。「そして彼は真実に受難したのです。ちょうど真実に甦ったのと

同じように。ある不信者どもが、彼の受難はみせかけだけだというのは違います」5 。だ

から信条は、第二項つまり御子キリストの条項の部分が長いのですが、それは体と魂を

分離して、牢獄である肉体から魂が解放されることが救いであるとするギリシャ的な思考

に対して、体と魂の両方から成る人間の全体が救われることを主張するためでした。「グ

ノーシス主義は二元論に立っていました。精神的なもの・霊的なものを善とし、優位に置

き、物質的なものを悪とし、下位に置いて切り捨てました。グノーシス主義に対抗した教

父たちは、こぞって物質界が唯一の神によって創造されたものであり、善であることを主

張しました」6 。そしてそこでは、創造は悪ではなく元々は善いものだったし、天地を創

造されたのは、悪の神ではなく、唯一の神、善であり、全能である父によって為された

「善き創造」であることを主張したのでした。こうしてこの世界は、善である神が創造さ

れた「善き世界」である、それが「天地の造り主」という条項を付け加えた理由でし

た。ですからこの「天地の造り主」という「教義は、『全能の父』という言葉が既にの

べているところを、その最も鋭い、最も根本的な形で、表現している」ものなのでした

7。

 

2.神の創造された世界は「善い」世界

 前回見たように、創世記が示す天地創造は「善き創造」でした。「神はお造りになっ

たすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1章31節)。神が創

造されたものはすべて完全で完璧であり、しかも善いものでした。そしてこのことは、わ

たしたちにとても大切なことです。自分に自信を持って生きている人には関係ないことか

もしれませんが、大なり小なりわたしたちは自分に対する劣等感やコンプレックスを抱

いて生きています。自信満々であることが、実は強い劣等感の裏返しだということもあり

ます。また自分についてだけではなく、自分自身の人生に対しても劣等感や引け目を感じ

ながら生きているということもあります。どうして自分の人生はこんなのだろうと、まる

でいつも貧乏くじを引いてしまったかのように残念に思いながら、こんな人生しか歩ませ

てくれなかった神を、どこかうらむということがあるかもしれません。会社に行っては上

司から叱られ、同僚からはうとんじられ、部下からはつき上げられて、どこに行っても、

自分をほめてもらうことがない。それは子供も同じで、先生や親から色々注意はされて

も、評価されたり、ほめてもらうことがない。どこにいっても注文はたくさんつけられま

すが、自分という存在を喜んでもらうことがない。そして自分も自分を喜べない。そうい

う毎日を過ごしているのではないでしょうか。そういうわたしたちに対して「善き創造」

が語られるのです。それは、そんな情けないわたしたちなのに、神は「良し」と言ってく

ださるということです。そんな惨めなわたしたちを、神は喜んでくださるのです。どうし

てわたしたちは毎週、ここに来るのでしょうか。神から叱られるためでしょうか。ここ

が足りない、これができていないと注文をつけられるためでしょうか。そうではなくて、

こんなわたしを、それでも神は「良し」と言ってくださり、わたしという存在を喜んでく

ださる、その神の喜びに包まれて、神からの「良し」という言葉をいただいて、また立ち

上がっていくためです。厳しい説教のときもありますが、それでも礼拝の最後は、「安心

して行きなさい」と約束されて送り出されるのです。ある方が、この礼拝の最後の言葉を

聞くと、神から頭をなでてもらっている気がすると言われましたが、まったくそのとおり

です。自分が出来の悪い子であることは、自分自身が一番よく分かっています。そして誰

も自分を良い子だとは言ってくれないし、思ってもくれません。しかしそれでも神は、そ

んなわたしに向かって、力強く「良し」と言ってくださるのです。そしてわたしたちを喜

びながら迎え入れてくださった神は、わたしたちを「良し」と言って、また喜びながらこ

こから送り出してくださるのです。その神が、ここからまた歩み始めていくわたしの人生

をも善いものとしてくださる、それが「天地の造り主」に対する信仰なのです。

 

 神は今も、この世界を「善い世界」として見てくださると共に、完成させようとしてく

ださっています。そして今はその完成を目指した救いの歴史のただ中にあって、善なる世

界、安息に満ちた世界へと一歩ずつ近づいているのであり、その神の御業の中に、わたし

の今日があり、人生があるのです。しかし見えるところは、そうではないかもしれませ

ん。人間が罪を犯して堕落し、神の善い世界を台無しにしてしまったからです。そしてわ

たしたちは自分が蒔いたものを刈り取るべく、日々に悲惨さの中に生きています。病気、

貧しさ、困難、思いもかけない災い、自分や家族に起こり来る問題、しかしこれらはも

とはと言えば、自分が蒔いたものの結果でした。自分の罪、自分の弱さ、自分の失敗の

ゆえに招いた問題や困難でした。そしてその問題の前にわたしたちは立ちすくみ、立ち往

生し、かがみこみ、どうにも立ちゆかなくなります。そんなわたしたちを、パウロは、

「被造物は虚無に服して」おり、「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と語

ります(ローマ8章20、22節)。そしてわたしたちは、自分が抱え込む問題を前にし

て、うなだれ、弱り果てていくばかりです。目の前の問題の大きさの前に、かがみこんで

しまうばかりです。けれどもここでパウロはさらに、「現在の苦しみは、将来わたしたち

に現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います」とも語り継いで

いきます(同18節)。そこには「希望」があると。「つまり、被造物も、いつか滅びへ

の隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」と続けま

す(同21節)。わたしたちは、自分の罪と堕落の結果を背負い続けていて、神の呪いの

許におかれているというのではなくて、むしろそこからの救いへと導かれ、祝福の許に招

かれ続けているというのです。だからその希望の中で、今日という一日をしっかりと生き

抜いていくことができます。なぜならたとえ今日が苦しみと悩みの一日であるとしても、

それはまた神の安息の完成を目指して一歩一歩着実に近づいている一日でもあるからで

す。無力なわたしたちは、自分の罪と悲惨の中で翻弄されながら生きていますが、しかし

それでも、そのわたしを捕らえてくださり、わたしの人生をご自分の祝福と幸いへと招き

入れるために生きて働き続けてくださっている、恵みの神の御手の中にいる、それもたし

かなことなのです。

 

 だからここでパウロは、こう語ることができました。「神を愛する者たち、つまり、

ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わた

したちは知っています」と(同28節)。「万事が益となるように共に働く」ように、神

が今も働き続けてくださっている、だからわたしたちは、困難な現実を前にしてもなお立

ち続けることができるのです。わたしが自分の力で立てるからではなく、立てないわたし

を立ててくださる方がおられるからです。わたしを支えてくださる方がおられるからで

す。わたしを導いてくださる方がおられるからです。天地を創造された神、わたしを造ら

れた主が、無力で弱いわたしを助け、守り、支えてくださる、だからわたしは立つことが

できるのです。今日の問題がどれほど大きなものであるとしても、わたしたちは神の安息

の完成を目指した創造の七日目の中にあり、救いの完成を目指した神の大きな御手の中

におかれているのです。アテネでパウロは、「わたしたちは神の中に生き、動き、存在す

る」と語りました(使徒言行録17章28節)。このように天地創造を信じるとは、神の摂

理を信じることです。ご自身の安息が完成するように、終わりの時を目指して着々と神の

救いの御業が実現し続けている、その神の大きな御手の中にあって、わたしたちの人生の

一こま一こまが整えられ、一日一日が導かれている、しかもそれは「わたしの幸い」を目

指したものであることを忘れてはなりません。

 

3.災いの計画ではなくて平和の計画

 「全能の神」について考えましたが、「神は何でもできる」ということと同じことを

語っている言葉に、エレミヤの祈りがあります。「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる

力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つあ

りません」とエレミヤは神に祈りました(エレミヤ32章17節)。これはユダ王国がバビ

ロニア帝国の侵攻を受け、首都エルサレムが四方を囲まれて絶体絶命の危機に陥っていた

ときのものです。エルサレムは陥落寸前で、実際翌年には王国が滅亡します。ユダの地に

はバビロン軍が満ちて、占領されていました。しかもエレミヤは投獄されて、エレミヤ自

身も絶体絶命の状態におかれていたときのものでした。神は獄の中にいたエレミヤに、自

分の親戚の土地を、正式の売買契約を結んで購入するように求めます。エレミヤはそれに

したがっていとこのハナムエルからアナトトの土地を銀17シェケルで購入し、その証書

を素焼きの器に入れて保存させます。その契約を済ませた後の祈りが、この言葉でした。

そこでエレミヤは神に率直に訴えました。「今や、この都を攻め落とそうして、城攻めの

土塁が築かれています。間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカル

デア人の手に落ちようとしています。それにもかかわらず、主なる神よ、あなたはわたし

に、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われました。この都がカルデア人の手に落ち

ようとしているこのときにです」と(同24、25節)。いずれバビロンによって占領され

るわけですから、こんな売買契約に何の意味があるのかということです。このエレミヤの

危惧は翌年に実現し、エルサレムを含めユダの全域はバビロンに占領され、王国は滅亡し

ます。神殿は破壊され、人々は捕囚としてバビロンに連行されるという過酷な運命が待ち

受けていました。生活基盤のすべてが破壊され、生きるよりどころも土台も奪われて、希

望のない日々に至ることになりました。神はイスラエルに対する約束を反故にされたの

でしょうか。反故にされても仕方がないのがイスラエルでした。彼らが神との契約を破り

続けてきたのですから。だからこの罰がくだされ、イスラエルと神との関係は断絶し

た、誰もがそう考えた時、神はエレミヤを通して、この出来事を行わせ、約束してくださ

いました。「しかし今や、お前たちがバビロンの王、剣、飢饉、疫病に渡されてしまった

と言っている、この都について、イスラエルの神、主はこう言われる。『かつてわたしが

大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安ら

かに住まわせる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまな

い。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わた

しは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植え

る。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今

や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。』」と(32章36~44節)。

 

 エレミヤや当時のユダの人々は、王国滅亡とバビロン捕囚という目先の出来事に心を

奪われて、絶望していました。しかし神は、もっと先の計画をもっておられたのですが、

それはイスラエルが本当の意味で神に立ち帰ることができるようになり、神の民として新

しくされていくために必要なことでした。国家滅亡と捕囚という大きな苦難を経て、しか

し彼らは神に立ち帰り、神の戒めに従う民へと大きく変えられていくことになります。そ

の中で神ご自身が語ることが、「わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろう

か」という呼びかけでした(同27節)。これが神の全能なのです。このような危機的状

況の中で神がエレミヤを通して約束されたことは、「バビロンに七十年の時が満ちたな

ら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地

に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言

われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものであ

る。」ということでした(29章10、11節)。人間の目には、そこには「災いの計画」し

か見えません。けれども実はそれは「将来と希望を与える」平和の計画であり、その実

現のために神は生きて働かれるのでした。しかしそのためには、70年のバビロン捕囚と

いう苦難を経なければなりませんでした。しかしその苦難のただ中にあっても、災いの最

中にあっても、神の「御力の及ばない事は何一つありません」と約束される力強い神の働

きがイスラエルを守り続けていったのでした。これが神の全能なのです。わたしたちは目

の前のことばかりに心を捕らわれて、神の全能を疑いますし、神の恵みを信頼できなくな

ります。しかしここで神がわたしたちのために立てておられる計画は、「平和の計画で

あって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるもの」なのです。目の前に見えるのは

「災いの計画」ばかりでしょう。しかしそこでの苦難を経ていくことで、「将来と希望」

へと至らせていこうと神は導いておられるのであり、そのために神はご自分の大きな救い

の御手を動かしてくださっているのです。こうして神は、全能の御力をもってすべてを支

配し、取り計らってくださるのですが、その力はわたしたちの救いのためであり、「わた

しの幸い」を目指したものに他なりません。だから「全能の神」は「わたしたちの父な

る神」でもあられるのです。

 

4.本当の「わたしの幸い」のために

 そこで『ハイデルベルク教理問答』8は、「天地の造り主を信じる」ということを、父

なる神がすべてのものを造られただけではなくて、それを摂理をもって支配しておられる

ということだと告白していきます。そして神の摂理について、「木の葉と草、雨とひで

り、豊作と不作、食べることと飲むこと、健康と病い、富と貧しさ、そしてすべてが偶然

ではなく、彼の父としての御手から、わたしたちに送られて来る」と約束し(問27)、そ

こで「わたしはこの御方を信頼し、かれがからだと魂に必要なすべてのものをわたしのた

めにご配慮くださり、この涙の谷間でわたしがどのような禍いにあわせたもうとも、それ

わたしの幸いめざしてなさることを疑わない」と答えていきます(問26)。そこには

健康だけではなくて病気もあり、豊かさだけではなくて貧しさもありますが、しかしそ

れらの「すべてが偶然ではなく、神の父としての御手から、わたしたちに送られて来る」

ものだと信じるのです。なぜなら、この方は、「全能の神ですからそれができ、忠実な父

としてなさる御こころ」をもっておられるからです。そしてこのようにしめくくられま

す。わたしたちが「どんな逆境の中でも忍耐強く、順境にあっては感謝し、将来について

は、わたしたちの忠実な父によく信頼し、どの被造物も一つとしてわたしたちをかれの愛

から引離すことはないと確信できる」のだと。「すべての被造物がかれの御手の中にあっ

て、かれの御意志がなければ立ち上がることもできず、身動きすることさえできないか

ら」だと(問28)。

 

 しかしたしかにわたしたちの目には、そのように見えないことも起こります。祈っても

願っても、道が開かれず、かえって願わない方向に道が開かれていくこともあります。

「神がそれをわたしの幸いめざしてなさっている」と言うけれど、これのどこがそうなの

かと問いたくなることもあります。しかしだからそこで覚えていきたいのです。「わたし

の幸い」とは、必ずしも自分が考えるような幸いではないかもしれないということです。

わたしが願うような幸い、わたしが求めるような幸いが、必ずしも本当の意味で「わた

しの幸い」だとは限りません。わたしたちは、自分のことをすべて知り尽くしているわけ

ではありませんし、ましてやこれからどのようなことが起こるのか、自分の人生の先行き

さえ何も知りません。その中でこうなってほしいと考えたり、あのように実現してほしい

と願うことが、本当にこれからの自分の幸いとなるとは限らないわけです。しかしすべて

のことを知っておられるばかりか、すべてのことを支配し、導いておられる方は、先を見

越して、本当の意味での「わたしの幸い」のために働き続けてくださっているのです。だ

からその中で与えてくださる出来事の一つ一つには意味があり、役割があるはずです。そ

のときの自分には受け入れられないものであるとしても、そこでなお「神がそれをわたし

の幸いめざしてなさっている」のだと信頼し、従っていく、そこにまことの信仰があるの

ではないでしょうか。

 

 だからパウロは、このように語りました。「わたしたちは、このような希望によって救

われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを

だれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐し

て待ち望むのです」と(ローマ8章24、25節)。この箇所の希望という言葉を信仰に置き

換えて読んだら、信仰とは何かということが分かります。「わたしたちは、このような信

仰によって救われているのです。見えるものに対する信仰は信仰ではありません。現に見

ているものをだれがなお信じるでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを信じてい

るなら、忍耐して待ち望みつつ信じるのです。」ヘブライ書では、「信仰とは、望んでい

る事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります(11章1節)。自分の

目には、今起きていることが「わたしの幸い」のためのものだとは見えないし、思えない

としても、そこでなお「神がそれをわたしの幸いめざしてなさっている」のだと信頼し、

従っていく、それが神の摂理に対する信仰であり、天地創造の神に対する信仰なのです。

そしてそれは、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事

が益となるように共に働くということ」を信じるということなのです。その中で起こり来

る出来事は、「わたしの幸い」を目指して神が与えてくださるものです。だからわたした

ちは、たとえ自分の目にどのように見えるとしても、「神を愛する者たち、つまり、ご計

画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」ということを信じ続け

ていきたいと思います。戦いと困難はなお続くとしても、そこで生きて働いてくださる摂

理の神を信頼して、その神の摂理に委ねつつ、それぞれの自分の戦いへと赴いていきたい

と思います。そこでは、神がわたしに対して「良し」と言ってくださり、またわたしの人

生を「善い」ものにしてくださっているからです。

 

 先日ある方から、このような話を聞きました。その方は、寝たきりになり、認知症に

なってしまったお母様を自宅に引き取って、一生懸命に介護しておられた方ですが、お母

様の状態がどんどん悪くなるばかりで、一生懸命にお世話をしても、暴言を吐かれたり、

なじられたりということで、ほとほと疲れ果ててしまったそうです。そこである時、自宅

の隣にある教会で、その苦しみを切々と神さまに祈ったのですが、それでも心は晴れず、

重たい心で家に帰ろうとした時のことでした。ドアを開けたら甘い香りがしたので、ふっ

と顔を上げると、目の前にほおの木があって白い大きな花を咲かせていたのです。しかも

木いっぱいにたくさんの花が咲いていたので、わあっと思って上を見上げていったら、さ

らにその上に満天の星空が広がっているのに気づいたのでした。来た時からほおの花は咲

いていたし、星も輝いていたわけですが、うなだれた思いでやって来て、うつむいたまま

だったので気づかなかったのです。ほおの花も星空も、気づく前からあったのですが、下

を見ていたので分からなかったのです。わたしたちも、問題に悩んでしまうと、うつむい

ていまいます。しかしそんなときこそ上を向くのです。主を見上げるのです。主は何も変

わりません。そして変わることなく、わたしたちを見守り続けてくださっているのです。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは

来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121編1、2節)。

 

 

 

1 渡辺信夫、『古代教会の信仰告白』、2002年、新教出版社、61頁

2 森本あんり、『使徒信条 エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』、1995年、

 新教出版社、46~47頁

3 「共通な特徴は次の三点であった。(1)造物神(デーミウルゴス)と至高神との区

 別。(2)宇宙開闢以前の『堕落』を意味する万物の起源の説明(3)霊的なエリー

 トのために神性との再統合を約束する人間性の評価。それは物質界に捕らえられていた

 火花であり、秘教的なグループにより伝えられた秘密の『知識』によって解放されるの

 だとして、『物質』を救済が及ばないものとして退け、通常の教会員を二流のものと見

 なした」。

 F.ヤング、『ニカイア信条・使徒信条入門』、2009年、教文館、56頁。他を参照。

4 アンティオケイアのイグナティオス、「トラレスの教会への手紙」9・1~2、

 小高毅編、『原典 古代キリスト教思想史』I、1999年、教文館、37頁

5 同上、「スミュルナの教会への手紙」1・1~2、前掲書

6 小高毅、『クレド〈わたしは信じます〉キリスト教の信仰告白』、2010年、教友社、

 155頁

7 カール・バルト、『われ信ず 使徒信条に関する教義学の主要問題』、2003年、

 新教出版社、新教セミナーブック11、32~33頁

8 登家勝也、「ハイデルベルク教理問答」、『宗教改革著作集』14巻、1994年、教文

 館、305~306頁