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第5講 『全能の父』を信じる希望の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第5講:『全能の父』を信頼する希望の言葉(イザヤ45章21~23節、1月29日)

 

【今週のキーワード:全能の父】

 神が全能であるとは、神はご自身が意志されることを実現することにおいて全能である

ということです。そこで神が意志されることとは、わたしたちの救いと幸いであり、その

救いの計画を実現することにおいて、全能の力を発揮される支配者として力ある神である

ということです。だから信条は「全能の父」と告白するのです。「全能の神」と「父なる

神」とは、切り離された別々のことではなく、「全能の父」として一つのことだからで

す。わたしたちに対する「父」としての救いの意志を、たしかに実現する力を持たれた

「全能」の神であられるということです。神がご自身を「全能の神」として現されたの

は、イスラエルを救うためでした。エジプトの苦役の中でうめき、苦しんでいたイスラエ

ルを、ご自身の全能の力を奮ってそこから救い出してくださる救いの神として、ご自身を

「全能の神」エル・シャダイであると言われました。その神が呼びかけられます。「わた

しをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果ての

すべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」と。そこでわたしたちも、この方を信じ

て告白します。「たとえこの涙の谷間へ、いかなる災いを下されたとしても、それらをわ

たしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全

能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられる

からです」と。

 

1.神は本当に「全能」か

 11世紀半ば1067年のある日、南イタリアにあるモンテ・カシノ修道院で、二人の神学

者が熱を帯びた議論を長時間交わしたそうです1 。一人は修道院長のデシデリウス、もう

一人はそこを訪れた枢機卿ペトルス・ダミアニで、二人が熱い議論をした問題とは、(も

しかしたら女性の方には、失礼で不愉快な思いをさせてしまうかもしれませんが、歴史

的な出来事なのでお許しください)「神は処女でなくなった者を処女に戻すことができる

か」ということでした。いうまでもなく、そこで神の全能性が問われたわけですが、こ

の議論は、そこからさらに683年遡ってヒエロニムスがアモス書5章2節を注解して書い

た、「たとえ神にはあらゆることが可能であるとはいえ、堕ちた処女をもとどおりにす

ることはできない」という言葉から始まったということでした2。わたしたちからすれ

ば、この二人のスコラ学者の議論は、ずいぶん「お暇な」議論に思います。しかし神が

「全能」であることは、時としてそのような議論を呼び起こす問題でもありました。聖書

ではたしかに神がどんなことでもできることが証言されています。マルコ10章27節に

は、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(ルカ

18章27節、マタイ19章26節)とあります。またクリスマスでよく聞く言葉ですが、天使

ガブリエルはマリアに「神にできないことは何一つない」と断言しました(ルカ1章37

節)。サラに子供が生まれることがアブラハムに約束された際も、「主に不可能なこと

があろうか」と断言されましたし(創世記18章14節)、エルサレムがバビロン軍に包囲

された絶体絶命の危機に際して、エレミヤは神に「あなたの御力の及ばないことは何一つ

ありません」と祈りました(エレミヤ32章17節)。このように神が全能であるというこ

とは、「神は何でもできる」「神にできないことは何一つない」と理解されてきたことは

事実で、そこからさきほどのような、真剣ではありますが「お暇」な議論も生じてくるわ

けです。しかしそれはわたしたちにおいても同じことが言えるのではないでしょうか。こ

の神の全能性を抽象的に考えていくと、わたしたちは袋小路に入り込んでしまいます。

 

 2テモテ2章13節は、口語訳では「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常

に真実である。彼は自分を偽ることができないのである」とあります。この約束があるか

ら、わたしたちは主を心から信頼していくことができるわけですが、うがった見方をすれ

ば、ここで「彼は自分を偽ることができない」とありますから、つまり嘘をつけないと

断言されているわけです。そうしますと神の全能性は崩れてしまうということにならない

でしょうか。神にもできないことがあるからです。同じ箇所は新共同訳では、「わたした

ちが誠実ではなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことが

できないからである」とあります。「御自身を否むことができない」、自分を否定できな

いとは、自分の性質に反することは何もできないということです。また自分の意志に反す

ることもできないということです。そしてそれはさらに自殺することができないというこ

とでもあります。すると、何でもできるはずの神にも、できないことがあることになる、

それでは神が全能であることが崩れてしまうことにならないでしょうか。アウグスティヌ

スも説教の中で、このように語ります。「わたしは神にできないことをあげよう。死ぬこ

とができない。罪を犯すことができない。嘘をつくことができない。欺くことができな

い」と。このように神が、死ぬことも、罪を犯すことも、嘘をつくことも、欺くこともで

きないとしたら、神の全能性は崩れることになり、神はもはや全能の神ではないという

ことになるのでしょうか。神の全能性を抽象的に議論をするなら、そのような議論と

なってしまうのです。

 

2.ご自分が意志されることにおける「全能」

 しかし神を頼りとし、神を信頼して生きるわたしたちにとっては、まさに神が死ぬこと

も、罪を犯すことも、嘘をつくことも、だますこともできないからこそ、全能の神であ

り、心から神を信頼できるということではないでしょうか。先のアウグスティヌスの説教

の前後を含めて引用しましょう。「神はご自分が望まれることをすべて行われるから全能

である。わたしは神にできないことをあげよう。死ぬことができない。罪を犯すことがで

きない。嘘をつくことができない。欺くことができない。もしそれができるなら、全能

ではない」3。自殺し、罪を犯し、嘘をつき、欺く神は、全能の神ではないとアウグス

ティヌスは語り、それでは全能とはどういうことかを語りました。「神はご自分が望まれ

ることをすべて行われるから全能である」と。このことについてオリゲネスも次のように

述べています。「わたしたちの考えによれば、神は、神としての、善としての、また知恵

ある者としての立場を放棄しない限り、すべてのことがおできになります。・・・神は不

正をなすことはできません。なぜなら、不正をなす力は、その神性とそれに基づくすべて

の力に対立するものだからです」、「神にはすべてのことができると言うとき、わたした

ちは『すべて』という言葉を存在しないもの、考えられないことを指すと理解してはなら

ないことを知っています。わたしたちは恥ずべきことを行うことはできないと考えていま

す。そのとき、神は神でありえないからです。実に、神が何か恥ずべきことを行われるな

ら、もはや神ではありません。わたしたちはこう言います。神はご自分の本性に反するこ

と、悪に由来すること、理性に反することは何一つ欲されません」4。

 

 このように「神はご自分が望まれることをすべて行われるから全能である」のであり、

これが代々の教会が信じてきた神の全能性でした。石田先生が指摘されるとおり、教会

は「『神の全能』ということを、『神はご自身が意志されること、ご自身の本質に一致す

ることはすべてすることができる』という意味に解釈してきた」のでした5 。また森本先

生が述べられるとおり、「神は、ご自身の意図を遂行する可能性において全能であ

り・・・ご自身がなそうと欲することは何でもなすことができる、という意味において全

能である」ということです。「そして、神はご自身にとって『ふさわしくかつ義であるこ

と』のみを意志し給うのであるから、嘘をついたり罪を犯したりすることができないと

いうことは、神の能力の欠けを意味するものではないのである。神は、ご自身の意志し

給うことをなすことにおいて、全能である」ということで、「神は何ごとにおいてもその

なそうとすることを妨げられることがない。つまるところ、『全能』とは神の『自由』を

あらわす概念である」ということなのです6。神はご自身が意志されることを実現するこ

とにおいて全能である。それはそのとおりですが、しかしこのことをわたしたちはまだ抽

象的に考えていないでしょうか。ここでさらにわたしたちは、それでは神は何を欲し、望

み、意志されるかを考えなければなりません。神が意志されることとは何でしょうか。

それが問題です。なぜならわたしたちは、様々な問題に直面し、それに翻弄される中で、

「父なる神」を、まるで自分の運命を弄ぶ独裁者でもあるかのように考えることがあるか

らです。「全能の神」を、不条理な運命の中でわたしたちを苦しめ、様々な災いでわたし

たちを悩ます過酷な支配者でもあるかのように見なしてしまうことがあるからです。です

からそこで、「神は、ご自身の意図を遂行する可能性において全能であり・・・ご自身が

なそうと欲することは何でもなすことができる、という意味において全能である」という

とき、それは「神はご自身にとって『ふさわしくかつ義であること』のみを意志し給う」

ということをしっかり押さえている必要があるのです。

 

3.わたしたちの救いと幸いを意志される神

 そこでわたしたちは、それでは神は何を欲し、望み、意志されるかを考えなければなり

ません。神が意志されることとは何でしょうか。主イエスは言われました。「わたしをお

遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わり

の日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を

得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と(ヨハ

ネ6章39、40節)。神が意志されること、それは「すべての人々が救われて真理を知る

ようになること」です(1テモテ2章4節)。まさにこの救いの計画を実現することに

おいて、全能の力を発揮できる力ある神であられるということが「全能」であるというこ

となのです。この方はわたしたちの運命を弄ぶ独裁者ではなく、むしろわたしたちの救い

を心から願う救いの神であり、「あなたの神、主があなたに求めておられること

は・・・あなたが幸いを得ること」だとあるとおり(申命記10章12~13節)、わたした

ちの幸せを願う「父」なのです。ですから神が「全能」であることと、その神がわたした

ちの「父」であることを切り離して考えてはなりません。だから信条は「全能の父」と告

白するのです。「全能の神」と「父なる神」とは、切り離された別々のことではなく、

「全能の父」として一つのことだからです。「全能の神は、父として全能の神である。わ

れわれに対し、父としての意図をもって接し給うことにおいて、全能の神なのである」

7。それはわたしたちに対する「父」としての救いの意志を、たしかに実現する力を持た

れた「全能」の神であられるということです。優しい父だけれど、わたしたちを守るだけ

の力を持たない無力な神だというのではなく、また全能の力を持った支配者だけれど、わ

たしたちの運命を弄ぶ独裁者でもないということです。福音書の中で主イエスが言われ

た、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とは、ま

さにそのことを語られたことでした。ここで「人間にできることではない」と言われてい

ることとは、金持ちでも救われるかということでした。つまりこの世の富に執着している

ような人間でも、そうした執着から解放されて救われるかということでした。そしてそれ

はたしかに「人間にできること」ではありません。しかし「神にはできる」のであり、

そのような人間をも富の誘惑から自由にし、執着から解放して、心から神を求めるように

変えてくださるのです。その意味、つまりわたしたちが救われるということにおいて、

「神は何でもできる」と言われたのでした。

 

 そして出エジプト記6章3~8節でも、御自身を「全能の神」と言われた主は、モーセ

にこう約束してくださいました。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、

ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはま

た、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束し

た。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、

わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主

である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救

い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなた

たちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたし

があなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知

る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたた

ちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である」と。こうし

てエジプトの苦役の中でうめき、苦しんでいたイスラエルを、ご自身の全能の力を奮って

そこから救い出してくださる救いの神であることにおいて「全能の神」エル・シャダイだ

と言われるのです。そこでロッホマンはこう語ります。「神の全能は根拠なき恣意に基づ

いているのではなく明瞭に言い表される解放の歴史に根拠づけられている。それゆえに、

それは決して、はかりつくされない隠れた神の任意の無制約的な意味においてではなく、

神のその民を自由にする誠実さの意味において理解し立証すべきものである」8。

 

4.救いを実現することにおける「全能」

 神はわたしたちを救うということにおいて全能であられる。しかしそこでなおわたした

ちは問うてしまいます。本当にそうなのかと。初めに中世の「お暇」な議論を紹介しまし

た。それはたしかに中世においてはそうでしたが、その議論の発端となったヒエロニムス

においては切実で真剣な問いでした。ゴート族が襲撃し、ついには西ローマ帝国を滅亡さ

せようとしていた時代だったからです。西ローマ帝国はゴート族の脅威におびえ、破壊と

蛮行の危機にさらされていました。周辺の地域では、文化的な町も修道院も略奪され、女

性たちは暴行を受け、犯されました。そこで修道女の中には、純潔を守るために自らの命

を絶つという人も出てきます。そこで純潔が汚されることと、純潔を守るために自殺する

こととでは、どちらが赦されうることかということが真剣に問われた、その中での問いで

あり、言葉だったのでした。ですからわたしたちは、なお問わざるをえません。全能で

ある神が、ご自身に従う者たちをどうして守ってはくださらないのかと。そして「なぜこ

の世にはかくも不条理な苦しみが満ちているのか。義人が災いを受け、罪のない者が犠牲

になる」のはなぜかと問わざるをえないのではないでしょうか9。あの大震災という未曾

有の出来事について、そこで今でも苦しみ、悩む現実について、すべての人を納得させら

れる答えをわたしたちはもっていません。そしてそれは自分たちに起こり来る現実につい

てもそうです。しかしわたしたちを背負ってくださると約束される主は、このように語ら

れます。「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約

束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。東から猛

禽を呼び出し、遠い国からわたしの計画に従う者を呼ぶ。わたしは語ったことを必ず実

現させ、形づくったことを必ず完成させる」と(イザヤ46章10~11節)。そこで必ず実

現させると約束されていることとは、イスラエルを苦しめているバビロンをペリシャの王

キュロスによって救い出すという計画のことでした。だからこう続きます。「わたしに聞

け、心のかたくなな者よ。恵みの業から遠く離れている者よ。わたしの恵みの業を、わた

しは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わた

しはシオンに救いを、イスラエルにわたしの輝きを与えることにした」と(12~13

節)。そしてさらにこう約束されます。「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与

える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを

得よ。わたしは神、ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵み

の言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」(45章21~23節)。

 

 たとえ目に見える現実は災いばかりであり、神の恵みの御手が依然として見えないとき

にも、「わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは

遅れることなく救いをもたらす」という「全能の神」の約束を信じていきたいと思いま

す。そこで約束された言葉を必ず実現し、完成すると約束される「万軍の主」が言われる

のです。「救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わた

しを仰いで、救いを得よ」と。そしてそこでこの方は誓ってくださるのです。「わたしは

自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り

消されない」と。たしかに神の為さることは、わたしたちには分からないときもありま

すが、わたしたちの見えない、あるいは理解できないところで、しかし神の守りはちゃん

とあることを信頼していきたいと思います。『ハイデルベルク教理問答』は、「われは天

地の造り主、全能の父なる神を信ず」について、次のように告白します。「わたしはこの

方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてを、わたしに備えてくだ

さること、また、たとえこの涙の谷間へ、いかなる災いを下されたとしても、それらをわ

たしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全

能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられる

からです」(問26)。そして「神の摂理」については、「全能かつ現実の、神の力です。

それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた

支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も

飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手に

よってわたしたちにもたらされるのです」と答えていきます(問27)。この方は、わた

したちの「全能の父」として、わたしたちをご自身の御手の中において守り、導いてくだ

さる恵みの主です。「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨

の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」方なのです。そのことに希

望をおいて信頼していきたいと思います。『全能の父を信じる』とは、その方を信頼する

希望の言葉なのです。

 

 

 

1 森本あんり、『使徒信条 エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』、1995年、

 新教出版社、39頁参照。

2 384年に記された書簡の一節

3 小高毅、『クレド〈わたしは信じます〉キリスト教の信仰告白』、2010年、教友社、

 170頁参照。引用はアウグスティヌス「説教」213.

4 同上、引用はオリゲネス「ケルソス駁論」3・70、5・23.

5 石田学、『日本における宣教的共同体の形成 使徒信条の文脈的注解』、2004年、

 新教出版社、73頁。

6 森本、前掲書、42頁。

7 森本、前掲書、43頁。

8 ロッホマン、『講解・使徒信条-キリスト教教理概説』、1996年、ヨルダン社、86

 頁。

9 森本、前掲書、40頁。