第9講 罪を犯した私たちのために神がしてくださったこと

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第9講:罪を犯したわたしたちのために神がしてくださったこと


あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなけれ

ば、望みのないことを認めますか。


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人

も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。


1.罪とは、神の愛に対する裏切り

 これまでは「罪」について考え、それがどれほど深く、大きなものであるかを見てき

ました。神がわたしたちに求められる本来の正しい生き方、戒めの中心は「愛」でし

た。そしてわたしたちは、愛に結びつけられた「交わり」に生きるように造られ、また

それが求められていました。「愛の交わりに生きる」、そこにわたしたちの真の幸福が

あるのです。しかし、この愛の源泉である神との交わりを拒絶し、その愛を踏みにじっ

たことで、わたしたち人間の愛は曲がり、ゆがんだ「自己愛」に変形してしまい、そこ

からおのおのに自己中心な生き方・在り方に生きるようになり、そこから必然的に互い

にぶつかり、傷つけあう悲惨な人間関係が生み出されるようになっていったのでした。

家族や友人といった様々な交わりの中におかれながら、しかもその中で深い孤独を味わ

うという、矛盾した悲惨さも生み出されていきました。聖書が語る「救い」とは、罪が

生みだしたこういった悲惨な現実、つまり各々が自己中心に生き、自分勝手な要求を求

めあって、真実な交わりの中に生きることができなくなっている現実、真実な愛と愛の

絆に結ばれていくことができなくなっていながら、それでも愛を求めてやまない現実か

ら救いだされるということです。それが「罪からの救い」なのです。それは、罪と罪が

もたらした悲惨な現実からの救いのことなのです。このような「救い」はどこから来る

のか、それをこれから考えていきたいと思いますが、その前に、これまでの学びで、

「罪」について、どのようにお考えになったでしょうか。


 「罪」ということでこれまで見てきたことは、観念的抽象的なことではなくて、人格

的なものだということでした。それは端的に、愛に対する裏切りなのです。心から信頼

し、愛している人から裏切られ、心を踏みにじられたという経験はないでしょうか。わ

たしたちが神に罪を犯したというとき、それは禁じられていることを破り、悪いことを

したというだけのことではなくて、もっと深く、そもそも、そこで神の愛を裏切り、信

頼を踏みにじったということなのでした。あなたに、愛を交し合い、結婚を約束した

人、あるいは結婚している配偶者がいるとします。その相手があなたとの愛の誓いを破

り、別の異性に心を寄せるようになったら、どう思いますか。ましてはその人が、別の

相手と関係を結ぶようになり、深い関係になっていったとしたらどうでしょうか。自分

は相手を信頼し、自分は相手を裏切ることはなかったのに、相手がその愛と信頼に応え

ず、その愛と信頼を裏切り、踏みにじったとすればどうでしょうか。軽い気持ちでした

だけだとか、たった一回のことだけだと言ったとしても、それを赦し、受け入れること

ができるのでしょうか。そう簡単に相手を赦す気にはならないでしょうし、赦したとし

ても、そこで一度崩れてしまった関係は、そう簡単に修復したり、やり直すことはむず

かしく、一度抱いた疑念は、そう簡単に消し去ることはできないのではないでしょう

か。そこで崩れ去った愛の関係を、もう一度もとに戻すことは容易なことではありませ

ん。


 わたしたちが、罪を犯したということは、この神からの信頼を裏切り、その愛を泥靴

で踏みにじったということなのです。わたしたちは、いともお手軽に、自分は罪を犯し

ましたと考え、多少は反省しますが、それが神にとっては、どれほど心痛むことであ

り、神を苦しませ、悩ませ、痛めつけるものとなっているか考えたことがあるでしょう

か。自分が、心から信頼していた人から裏切られ、踏みにじられた経験のある人なら、

その神の思いがいくらかは理解できるはずです。そこでのあなたの苦しみは、実はあな

たが神にしている仕打ちなのです。罪を、観念的・事務的に考えないでください。法律

に違反したかどうかといった次元の問題である以上に、それは人格的な問題なのです。

わたしたちは、あれほど神に信頼されながら、神を裏切り、神を捨て、神の愛を踏みに

じったのでした。最初の人間が神から、罪を犯すなら「あなたは必ず死ぬ」と警告され

ましたが、それはそういう意味なのです。神との約束を裏切り、その信頼を捨て去った

とき、神との関係も絶たれたからでした。神との愛の関係が、そこで切れてしまった、

それによってわたしたちは死んでしまったのでした。


2.愛の破綻である「罪」は、愛による「赦し」でしか解決できない

 こうして「自己愛」にふくれあがり、自己中心に生きるようになったわたしたちに

とって、「罪」とは、神の愛に対する裏切りであり、それは神との交わりの破綻をもた

らすものとなりました。この破綻した愛の関係を、どのように修復し、回復させていく

か、そこで神がしてくださったことが、イエス・キリストなのでした。破綻した愛は、

愛によってしか回復させることができません。破壊された交わりは、「赦し」によって

でしか和解することができません。「愛はすべての罪を覆う」(箴言10章12節、1ペト

ロ4章8節)とあるとおり、自分を裏切り、捨てた相手に対して憎しみ、敵対すること

によっては、解決することはできません。その相手を、それでもなお赦し、愛し、受け

入れることによってだけ、相手との関係を回復させることができるのです。そして神

が、交わりの破綻してしまったわたしたちとの関係を回復させるためにしてくださった

ことこそ、「赦し」なのでした。そしてその「赦し」とは、罪を愛で覆い包むというこ

となのでした。そしてそのために送ってくださったのが、ご自分の一人子イエス・キリ

ストだったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り

子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるよ

うになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神

を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとし

て、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4章9、10節)。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のた

めに死んでくださった。・・・わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたし

たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されまし

た」(ローマ5章6、8節)。


 南洋諸島にある宣教師が遣わされ、熱心に福音を宣教しましたが、部落の人々は彼の

言葉に耳を傾けず、嘲笑するばかりで、いっこうに聞こうとしませんでした。そのうち

その部族に大きな問題が起こります。その地域では近接するいくつかの部族が対立し、

互いに敵対しあっていました。ところがあるとき、その部族の若者が、いつも敵対して

いる隣の部族の若者と口論になり、争いから相手を殺してしまったのです。それは彼一

人の問題にとどまらず、部落同士の問題に発展し、抗争となって、ついに部落同士が戦

いあう、殺し合いに発展してしまいます。毎日、部落の前途有望な若者が死んでいく中

で、争いを集結させようということになり、酋長同士が話し合いをしました。そのとき

に争いを終わらせるための条件として出てきたのが、最初の殺人事件についての償いを

するということでした。こちらの部落の誰かが、部落の代表となって、殺してしまった

相手の償いをするということでした。それではだれが犠牲となるか、誰も犠牲にはなり

たくありません。固唾を呑んで酋長の言葉を待った部落の人々は、驚くべき言葉を聞く

ことになります。何と酋長は、自分の息子、それも一人息子を、犠牲に差し出すという

のでした。跡継ぎとなるべき酋長の息子が、相手の部落まで連れられて行き、彼らの目

の前で、最初の罪の償いのために、犠牲となりました。自分の息子の胸にナイフを突き

刺し、血だらけになって死んだ、息子の遺骸を抱きかかえながら、酋長は、これで赦し

てほしい、これで争いを終わらせ、殺し合いを終わりにしてほしいと頼みました。こう

して、酋長の一人息子の犠牲によって、これまで敵対しあっていた部族同士が和解する

ことになりました。憎しみ合いと殺し合いは終わり、互いの間に平和が戻りました。そ

れは酋長の一人息子の犠牲によってもたらされたものでした。この出来事の後、人々は

宣教師の言葉に耳を傾けるようになりました。なぜなら彼らは、宣教師が語ってきたま

ことの神が、まさに自分たちの目の前で起きたことをされたことを知ったからです。神

はその独り子を、わたしたちの罪の償いとして犠牲に差し出すことで、両者の間にあっ

た争いを終わらせてくださったのでした。彼らは、神がわたしたちのために与えてくだ

さった、御子イエス・キリストを信じるようになりました。それは、キリストの尊い犠

牲による罪の償いがなされたことを受け入れたからでした。


3.神の愛との出会いが、愛する者・赦す者へと変えていく

 「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」(1ヨハ

ネ4章7節)。そしてこの神からの愛、神の愛は、独り子であるイエス・キリストに

よって現されました。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた

時に、不信心な者のために死んでくださった。・・・わたしたちがまだ罪人であったと

き、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対

する愛を示されました」(ローマ5章6、8節)。「神は、独り子を世にお遣わしにな

りました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛

がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたした

ちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。こ

こに愛があります」(1ヨハネ4章9、10節)。こうして「ここに愛があります」と

いって指し示されたのは、イエス・キリストの十字架です。その十字架で、神の御子が

わたしたちの身代わりとしてご自分をささげ、わたしたちの罪のすべてを引き受けて死

んでくださったのです。その十字架の上で主は、「父よ、彼らをお赦しください。自分

が何をしているのか知らないのです」と祈られました。ここに「赦し」があるのです。

自分が何をしているのかもわきまえずに罪を犯し、悪を行なってきたわたしたちのため

に、イエス・キリストが執り成してくださったのです。「わたしが代りにその罪を引き

受け、罪の刑罰を自分のものとするから、どうか彼らへの裁きをわたしにくだしてくだ

さい、そうして彼らを赦してください」と祈られたのです。ここに愛があります。そし

てわたしたちの愛は、この神の愛から生み出されるのです。十字架に示された神の愛を

知ることで、わたしたちははじめて「愛する」ことを知り、その神からの愛によってわ

たしたちも「愛する」者へと変えられていくのです。「イエスは、わたしたちのため

に、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」

(同3章16節)。わたしたちは、自分が神によってすでに赦され、愛されている、そし

てそのために神は御子を遣わして、わたしの罪の代りに十字架につけて殺されたのでし

た。そして「赦せない」自分、「愛せない」わたしが、そこで十字架とつけられて死ん

だのです。この神の愛に出会い、この神の愛に愛される者となったわたしたちは、「愛

する」者に変えられていくのです。神の赦しの中におかれるようになったわたしたち

は、「赦す」者へと変えられていくのです。神の愛と赦しに出会い、愛される者、赦さ

れた者として、愛と赦しに包まれて生きる者とされたからです。「愛する」ことの何で

あるか、「赦す」ことの何であるかを知る者とされた、そこからわたしたちも「愛す

る」こと、「赦す」ことを始めていくようになるのです。わたしたちは「愛される」よ

うになったから「愛する」者になり、「赦された」者だから「赦す」者とされたので

す。