第8講 罪がもたらした、わたしたちの悲惨と死

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第8講:罪がもたらした、わたしたちの悲惨と死


あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなけれ

ば、望みのないことを認めますか。


「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を

住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」

                              2コリント5章10節


1.罪とは、神の愛に対する裏切り

 これまでは「罪」について考え、それがどれほど深く、大きなものであるかを見てき

ました。神がわたしたちに求められる本来の正しい生き方、戒めの中心は「愛」でし

た。そしてわたしたちは、愛に結びつけられた「交わり」に生きるように造られ、また

それが求められていました。「愛の交わりに生きる」、そこにわたしたちの真の幸福が

あるのです。しかし、この愛の源泉である神との交わりを拒絶し、その愛を踏みにじっ

たことで、わたしたち人間の愛は曲がり、ゆがんだ「自己愛」に変形してしまい、そこ

からおのおのに自己中心な生き方・在り方に生きるようになり、そこから必然的に互い

にぶつかり、傷つけあう悲惨な人間関係が生み出されるようになっていったのでした。

家族や友人といった様々な交わりの中におかれながら、しかもその中で深い孤独を味わ

うという、矛盾した悲惨さも生み出されていきました。聖書が語る「救い」とは、罪が

生みだしたこういった悲惨な現実、つまり各々が自己中心に生き、自分勝手な要求を求

めあって、真実な交わりの中に生きることができなくなっている現実、真実な愛と愛の

絆に結ばれていくことができなくなっていながら、それでも愛を求めてやまない現実か

ら救いだされるということです。それが「罪からの救い」なのです。それは、罪と罪が

もたらした悲惨な現実からの救いのことなのです。このような「救い」はどこから来る

のか、それをこれから考えていきたいと思いますが、その前に、これまでの学びで、

「罪」について、どのようにお考えになったでしょうか。

 

 「罪」ということでこれまで見てきたことは、観念的抽象的なことではなくて、人格

的なものだということでした。それは端的に、愛に対する裏切りなのです。心から信頼

し、愛している人から裏切られ、心を踏みにじられたという経験はないでしょうか。わ

たしたちが神に罪を犯したというとき、それは禁じられていることを破り、悪いことを

したというだけのことではなくて、もっと深く、そもそも、そこで神の愛を裏切り、信

頼を踏みにじったということなのでした。あなたに、愛を交し合い、結婚を約束した

人、あるいは結婚している配偶者がいるとします。その相手があなたとの愛の誓いを破

り、別の異性に心を寄せるようになったら、どう思いますか。ましてはその人が、別の

相手と関係を結ぶようになり、深い関係になっていったとしたらどうでしょうか。自分

は相手を信頼し、自分は相手を裏切ることはなかったのに、相手がその愛と信頼に応え

ず、その愛と信頼を裏切り、踏みにじったとすればどうでしょうか。軽い気持ちでした

だけだとか、たった一回のことだけだと言ったとしても、それを赦し、受け入れること

ができるのでしょうか。そう簡単に相手を赦す気にはならないでしょうし、赦したとし

ても、そこで一度崩れてしまった関係は、そう簡単に修復したり、やり直すことはむず

かしく、一度抱いた疑念は、そう簡単に消し去ることはできないのではないでしょう

か。そこで崩れ去った愛の関係を、もう一度もとに戻すことは容易なことではありませ

ん。わたしたちが、罪を犯したということは、この神からの信頼を裏切り、その愛を泥

靴で踏みにじったということなのです。わたしたちは、いともお手軽に、自分は罪を犯

しましたと考え、多少は反省しますが、それが神にとっては、どれほど心痛むことであ

り、神を苦しませ、悩ませ、痛めつけるものとなっているか考えたことがあるでしょう

か。自分が、心から信頼していた人から裏切られ、踏みにじられた経験のある人なら、

その神の思いがいくらかは理解できるはずです。そこでのあなたの苦しみは、実はあな

たが神にしている仕打ちなのです。罪を、観念的・事務的に考えないでください。法律

に違反したかどうかといった次元の問題である以上に、それは人格的な問題なのです。

わたしたちは、あれほど神に信頼されながら、神を裏切り、神を捨て、神の愛を踏みに

じったのでした。最初の人間が神から、罪を犯すなら「あなたは必ず死ぬ」と警告され

ましたが、それはそういう意味なのです。神との約束を裏切り、その信頼を捨て去った

とき、神との関係も絶たれたからでした。神との愛の関係が、そこで切れてしまった、

それによってわたしたちは死んでしまったのでした。


2.罪の結果としての「死」-神との交わりの決定的な喪失

 自分の生命の源である神との交わりを失い、全く断絶してしまったわたしたちは、

ちょうど木の実が枝から切り離されると、もはや成長することも、さらに実を結ぶこと

もできなくなるばかりか、逆に腐っていくように、義なる神から離れることで、人間と

しての本来あるべき姿を失い、それによって人間本性はその全体において腐敗してし

まったのでした。木の実が、悪臭を放ってどんどん腐敗するように、それはもはや死ん

でしまっています。人間は、生れながら死んだ状態で生まれてくるというのが、人間に

対する聖書の教えなのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ書6章23節)とある

通りです。しかも肉体の死を経て、決定的な死、第二の死、つまり永遠の死に至るので

す。堕落によって人間が喪失したものの本質は、生ける神との交わり、生命の源である

神との交わりの喪失、つまり永遠の生命の喪失です。永遠の生命とは、永遠の神との交

わりのことです。その交わりを失ったことで、わたしたち人間は自分の生命そのものを

失ってしまったのでした。神との交わりを喪失した姿を、聖書は「霊的死」と教えま

す。人間は生れながらに、まことの神を知らず、求めず、逆らって生きる者として生ま

れ、つまり死んで生まれてくるのです。


 しかも、このように「罪」へと堕落したことは、わたしたち人間に、深刻な結果をも

たらしました。「人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっ

ている」(ヘブライ9章27節)、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、

善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを

受けねばならない」(2コリント5章10節)とあるように、死後に神の裁きを受ける者

となってしまったのです。人間の社会でも、罪を犯した人間は罰せられ、罪に応じた裁

きを受けます。ましてや完全な義を要求される神の前では、わたしたちは自己中心に生

きて、多くの人を傷つけ、苦しめて、身勝手に生きたことの責任を問われ、自分の犯し

た罪についての裁きを受けなければなりません。神は、ご自身の義と法(律法)に照ら

して、罪を犯した人間に対する裁きを行います。主イエスも、「言っておくが、人は自

分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなた

は、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」と言

われました(マタイ12章36、37節)。「わたしたちは皆、神の裁きの前に立つのです。

それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるので

す」(ローマ14章10、12節)。生きている間、悪行を働いてきた者たちについて、「彼

らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければ

なりません」と警告されます(1ペトロ4章5節)。そこでわたしたちが受けるべき刑

罰は、永遠の刑罰です。「罪からくる報酬は死である」と聖書にあるとおり、わたした

ちは自分の罪による神との交わりの喪失と、罪に対する神の怒りと呪いの結果として、

罪の刑罰をくだされるのです。それが、「死」なのです。しかしこの死は、罪によって

この世に入り込んできたもので、本来はなかったものでした。それは神との永遠の交わ

りの喪失、断絶で、それが聖書で言う「死」(第二の死、永遠の死)なのです。その最後

の審判の様を黙示録は次のように描きます。「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこ

に座っておられる方とを見た。・・・わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者

も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開

かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づ

き、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府

も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府

も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されてい

ない者は、火の池に投げ込まれた」(20章11~15節)。


3.神へと立ち帰る(悔い改め)ことへの呼びかけ

 このようなわたしたちの悲惨な現実と、その結果としての死、そして最後の裁きは、

最初の人間アダム(アダムとは人間という意味)によってもたらされました。最初の人

間アダムは全人類の代表者として、神との交わりに入れられたのですが、そのアダムが

間違った道、つまり神との関係を拒絶し、神を拒否する道を選び取っていった、そのア

ダムの間違った一歩によって、後に続くすべての人間も、間違った道を歩む、的外れな

生き方に導かれていったのでした。それはたとえて言えば、学校の遠足で、先導する先

生が道を間違うと、後に続く生徒全員も道に迷うのと同じです。最初の人間以来、わた

したち人間は、神に背を向けて歩みつづけ、自分の滅びに向かって進みつづけているの

です。「このようなわけで、一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死

が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからで

す」(ローマ5章12~21節)。ですからそこから救い出されるには、今まで背を向けて

いた神の方に向き直って、これからは神に向かって歩んでいくことが必要です。今まで

進んできた道を「回れ、右」して、神へと立ち帰っていくことを「回心」(悔い改め)

といいます。わたしたちも、神に立ち帰っていかなければなりません。


 最初の人間が最初の罪を犯して、神から隠れたとき、神は彼らに呼び掛けられまし

た。「どこにいるのか」と(創世記3章9節)。これは神がアダムの居る場所を知らな

かったということではありません。そうではなくて、神は今や神から離反してしまった

アダムに対して問いかけたのです。あなたが今いる場所は正しい場所か、あなたが居る

べき場所なのか、なぜわたしから離れてしまったのか、あなたが居るべき場所はわたし

の許ではないのかと。そしてこの神の呼び掛けは、今でもあなたに向けられています。

「あなたはどこにいるのか」、あなたはわたしと離れて、神なしに生きているが、それ

で本当に良いのか。神なしに、神抜きで生きるあなたの人生は、あなたの正しい居場所

なのかと。この神の悲痛な呼び掛けに応えて、あなたも今すぐ神の方に身を向けなお

り、神の許に立ち帰ってください。神は今でもあなたに呼び掛けておられます。「あな

たはどこにいるのか」と。わたしたちに罪とその悲惨とを示される神の御心は、罪を犯

したわたしたちを怒り、棄て、裁くためではなくて、わたしたちをご自身の救いへと招

き入れることでした。神はわたしたちに今も、「生きよ」と呼びかけておられます。

「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰る

ことによって、生きることを喜ばないだろうか。・・・それゆえ、イスラエルの家よ。

わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改

めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせ

よ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イ

スラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ば

ない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18章23、30~32節)。「わたしは

悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立

ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは

死んでよいだろうか」(エゼキエル33章11節)


 そこで聖書はわたしたちに、悔い改めを迫ります。「悔い改めなさい。めいめい、イ

エス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜

物として聖霊を受けます」(使徒2章38節)。イエス・キリストの福音は、単なる一般

論として聞き流されたり、聞き捨てられるものではなく、一人一人に悔い改めを迫るも

のとなります。それも、「みんなの罪」とか「人類一般の罪」ということではなくて、

一人一人が犯した「自分の罪」として、自分自身の悔い改めを迫るものでした。「だか

ら、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(使徒3章19節)。

このように、主イエスの福音を聞いた者には、悔い改め、すなわち神への立ち帰りと罪

の告白が求められています。そしてこの「悔い改め」は、一般論ではなくて、一人一人

が個別になすべきこととして呼びかけられています。「悔い改め」とは、悪人が自分の

犯した罪を反省して涙ながらに悔悛するといった外面的なものではなくて、端的に「神

に立ち帰る」ことです。これまでは神に背を向けて生きていました。そして罪の道を

まっしぐらに進み、滅びに向かって真っ直ぐに歩きつづけていました。それを「回れ

右」して、今度は神に向かって生きていくことです。そうして「心を変え、生き方を変

える」ことです。単に改心することではなく、「回心」するのです。それはこれまでの

自分を中心とした生き方をやめて、神を中心に生きていくということです。そして自分

の思いや考えで生きていくのではなく、神の御心に従って生きていこうとすることで

す。神からの、「生きよ」との呼びかけに、あなたも応えていってください。