第7講 「愛」から大きく外れて生きるわたしたち

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第7講:「愛」から大きく外れて生きるわたしたち


あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなけれ

ば、望みのないことを認めますか。


「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえっ

て憎んでいることをするからです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、

善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実

行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わた

しは何と惨めな人間なのでしょう」              ローマ7章15~25節


1.「的外れ」に生きるわたしたち

 ゆがんだ自己愛に生きるわたしたちの姿を見てきました。「愛」という本来のあるべ

き姿、人間としての規準から大きく逸脱して、悲惨さに生きる人間の姿とその有様、そ

の生き方を聖書は「罪」と語ります。聖書で言う「罪」(ハマルティア)は、「的外

れ」という意味です。つまり罪とは、神が創造された本来の人間の姿と在り方から大き

く逸脱して生きている状態そのものを指します。ですからわたしたちは、自分ではまっ

すぐに生きている、歩いているつもりでも(目をつぶって歩くと、どちらかに傾くよう

に)、必ず「罪」へと傾いてしまう罪への「傾き」、傾向性を持っています。神と隣人

とを愛する者として創造された人間は、しかし愛とは似てもにつかない姿と在り方で生

きている、その本末転倒した生き方そのものが「罪」なのです。「互いに愛し合う」と

いう律法の要求は、外面的表面的なものでは満たすことにはならず、内面的完全さが要

求されました。ですから不完全な愛とは、歪んだ自己愛では、その要求を満たすことに

は全くならないのです。傾いた斜面に球を置いたらどうなるでしょうか。その球はかな

らず下の方に転がり落ちていきます。何度試しても、どのように置き方を工夫しても、

球が上にころがることはありません。そのようにわたしたちの心は、生れながらに罪の

方に傾斜しているので、かならず罪へと転がり落ちていき、罪へと向かっていくので

す。それは球の問題ではなく、球の置き方の問題でもありません。球を置く斜面が、そ

もそも傾斜していること、それが問題です。そのようにわたしたちの心は、はじめから

罪へと傾斜しているので、かならず罪へと向かってしまうのです。この「罪へと傾く傾

向」は、罪に引きずられていくとか、罪に傾きやすいということではなく、わたしたち

の心、生まれながらの本性そのものが歪んでしまい、心の軸がはじめから罪へと傾斜し

ているということです。正しくまっすぐ歩むためには、神が求められる本来の生き方に

生きるためには、まずこの心の歪みと罪への傾斜をなんとかしなければならないので

す。


 「愛する」と正反対の方に傾斜するとは、「憎む」ことです。わたしたちは「神と隣

人を憎む方に心が傾いている」のです。愛するどころではなく、不完全ながらも愛する

というのでもない、実は神と隣人を憎む方へとわたしたちの心は傾き、そこからお互い

同士の醜い関係が生み出され、悲惨な結果をもたらしていくのです。そして生れながら

にそうした傾向を持っているため、自分が相手を愛そうとしながら、実は自分自身を愛

し、相手を憎んでいることに気づかず、だから故意であれ、無自覚的・無意識的であ

れ、相手を傷つけ、苦しめ、痛みつけることを言ったり、行ったりします。わたしたち

は他人の中傷を快く思い、悪口で一致します。人を悪しざまに言うことで仲間意識と連

帯感を持ち、友を落としめることで協力するのです。それは自覚的に為されるだけでは

なく、無自覚的に何の罪責感や心の呵責もなしに為されます。自分がそれほど神が求め

られる「愛」の姿から程遠いところに生き、むしろ積極的に憎みながら生きているとい

うことにさえ気づかず、それを当然のようにして生きている、それほどわたしたちの心

は歪み、罪へとまた憎しみへと傾斜しているのです。


2.人間の「罪」の本質-自己中心な生き方

 人間の罪の本質・正体とは「自己中心」でした。人間はどこまでも自己中心的にしか

生きることができなくなってしまったということです。なぜそうなったかというと、義

(正しさ・愛)の源である神との交わりを、自分の方から拒絶して、交わりを失ったた

めでした。神との交わりを失ない、神との関係はゆがんだもの、敵対関係となってし

まったからでした。それによりもはや神を正しく知る知識も、完全な義も聖さも失っ

て、もはや神の意志に一致することも、それを求めることも、行なうこともできなく

なってしまったのです。ただ神との関係が歪んでしまっただけではなくて、他人との関

係も破壊され、相互に自己中心に生きる者となって、互いに敵対するようになってし

まったのでした。なぜなら、自分の心から「神」を失ったことによって、自分自身が神

となり、自分を中心にして生きるようになったからでした。そしてこの罪への傾向性と

自己中心性から、あらゆる具体的な罪と悲惨な現実が生み出されるようになってしまっ

たのでした。わたしたちが現実に犯す罪(それを「現行罪」と言います)罪は、単に表

に表われる犯罪だけではなく、心の中に起こりくる悪しき思いと意志と言葉の一切も含

まれており、それは罪の根を持っていて、絶えずそこから罪が生み出されてくるので

す。だからわたしたちがどれほど自分で意志し決心しても、それで罪を犯さなくなるわ

けではなく、この罪の源を根から取り除かなければなりません。中にドロの入った水

は、しばらくすれば「うわずみ」がきれいになり澄んできますが、それをかき回すと中

のドロが出てきて、全体がまっ黒になるように、いつもは正しく生きているかに見える

わたしたちですが、なにかあると心の奥に潜んだドロ(罪)が出てきて、様々な悪を生

み出すのです。それは心そのものが悪で染まり、悪に浸かり、罪で満ちているからで

す。これが堕落によってわたしたちが陥った状態です。


 主イエスは、外側の汚ればかりに気を使い、肝心の心の汚れ、内面的な汚れにまで思

い至らない人々に対して、こう言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。

中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、

殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪

はみな中から出て来て、人を汚すのである」と(マルコ7章20~23節)。わたしたち

は、外側ではなく内側が汚れ、悪しき思いと欲望に捕らえられています。いわば自分の

罪の「奴隷」また情欲の「虜」となってしまっています。聖書は、「罪を犯す者はだれ

でも罪の奴隷である」と語ります(ヨハネ8章34節)。そしてそんなわたしたちの姿

を、パウロは次のように言い表わしました。「わたしは、自分のしていることが分かり

ません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたし

は、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善

をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む

善は行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれ

ば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なので

す。わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを五体の内にあ

る罪の法則のとりことしているのが分かります。わたしは何と惨めな人間なのでしょ

う」(ローマ書7章15~25節)。


3.神の義の基準から逸脱し、遠くおよばないわたしたち

 「罪とは、神の律法にそむくこと」ですが(1ヨハネ3章4節)、まさしくわたした

ちは、神の律法、つまり「愛する」という人間本来のあり方から大きく逸脱し、的を外

れ、それに逆らって生きており、その生き方・あり方こそが罪なのです。聖書が語る

「罪」とは、神との交わりを失ったまま生きているわたしたち人間の生き方そのものの

ことです。それはいわゆる犯罪や罪人(ざいにん)とは違う、もっと本質的で根本的な

もので、それは、このように神から離れて生きる人間の生き方そのもののことなので

す。このわたしたちの悲惨な現実、つまり交わりが破壊され、愛を喪失し、徹底的に

「自己愛」に生きる生き様を、「罪」と言うのでした。わたしたちが考える「罪」と

は、そのような神なしの、神ぬきの自分の生き方から生みだされてくる「実」にすぎま

せん。そして、犯罪を生み出し、悲惨な状況を生み出す原因は、わたしたち一人一人の

中に、その根を持っているのです。こうして、「人が心に思うことは、幼いときから悪

い」(創世記8章21節)ということになり、ダビデが「わたしは咎のうちに産み落さ

れ、母がわたしをみごもったときも、わたしは罪のうちにあった」(詩51編7節)と語

るとおり、人間は生れながらに「罪人」として、罪を持つ者として産まれて来る者と

なってしまいました。無垢な人間は、一人もいません。このように人間の心そのもの

が、その根源から全面的に腐敗してしまっていること、つまり最初から罪へと傾斜して

いることを「原罪」と言います。わたしたちは生れながらにこの「原罪」、つまり「心

の全面的腐敗と罪への傾斜」を持っているため、必然的に罪を犯すのです。腐った鯛や

りんごからは、腐敗臭が漂います。罪に腐敗した心からは腐敗した行動と思いが生み出

されるだけなのです。普通に言われる罪は、表面に現われた罪、実際に犯された罪(現

行罪)、それも行いにおける罪が考えられますが、聖書は心の中で犯される罪、思いに

おける罪、内面的な罪もまた「現行罪」なのであり、この外面的・内面的な罪、行いと

思いにおける罪の両方が、実は原罪、罪に腐敗した心そのものから生み出されると教え

るのです。


 主イエスは言われました。「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、

これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心か

ら出て来るからである。これが人を汚す」(マタイ15章18~20節)と。そしてこの腐っ

た心から、罪と悪の実りが結ばれていくのです。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、

良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。・・・善い

人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪

いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ6章43~45

節)。「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口か

らは、心にあふれていることが出て来るのである。・・・言っておくが、人は自分の話

したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分

の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ12章

33~37節)。このようにわたしたちは、神が求められる善、完全な愛において、全く見

込みがありません。わたしたちの行いと思いの中心である心そのものが罪によって腐っ

ているからです。そしてこれはわたしたちの生活のどの部分も、罪の影響を受けて腐敗

しており、また罪の支配の許に置かれているということでもあります。それは単にわた

したちが悪しき行いをするということだけではなく、わたしたちの生活と生き方そのも

のが罪に満ちているということであり、行動だけではなく言葉と思いの源であるわたし

たちの心そのものが罪に満ちており、また罪に汚染されているということでもあるので

す。外面的な行いであれ、内面的な思いであれ、わたしたちの生活と一切の行動の根源

である心そのものが罪の支配を受けていて、罪から自由にされていない、罪に捕らわれ

てしまっている、だからその心から生み出されるものはすべて罪深いものとなってしま

うのです。たとえそれが人に対する善意や愛、親切であっても、それさえ罪に腐敗した

ままのものにすぎず、罪深く、神に喜ばれ、受け入れられるものとはならないのです。

腐敗したものからは、腐敗したものしか生み出せないのです。聖書は、このようにわた

したちが、罪の腐敗からまぬがれた部分がどこもないほどに全面的に腐敗しきってお

り、腐った心からは腐った業しか生み出されないことを明らかにするのです。