第6講 人間が正しく生きる基準としての「愛」

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第6講:人間が正しく生きる基準としての「愛」

 

 あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなけれ

ば、望みのないことを認めますか。

 

「互いに愛しあうことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛す

る者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、

そのほかどんな掟であっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約さ

れます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」ローマ13章

8~10節

 

1.律法-自分の本当の惨めな姿を知る鏡

 わたしたちは、わたしたちを愛される真実な神の愛に応えたか、それが次に考えなけ

ればならない問題です。わたしたちは自分自身の顔を直接、自分の目で見ることができ

ません。自分の顔を見るためには、「鏡」が必要です。鏡によって初めて自分の顔や姿

を見ることができます。実は私たちの心も同じです。わたしたちの本当の姿、心の有様

は、自分が自分を理解し、知っていると考えているほど単純なものではありません。そ

れは鏡も見ずに見当で化粧をするようなもので、それは悲惨な結果をもたらすことで

しょう!わたしたちは、自分の本当の姿、赤裸々な心の状態を知るためには、自分の姿

を映しだす「鏡」が必要です。そしてその自分の本当の姿を写し出す鏡として神が人間

に与えられたものこそ、「律法」でした。それはわたしたち人間の、本来あるべき基準

を指し示したものです。

 

 遊園地にミラーハウスのような施設があります。様々な種類の鏡があって、それに

よっていろいろな自分の姿を見ることができます。くねくね曲がった姿、ほっそりと伸

びた姿、寸胴に縮んだ姿と実に興味深いです。なぜそのように写るかというと、それは

鏡が歪んでいるからです。鏡が歪んでいることを知らずに、そこに写った姿を自分の本

当の姿と錯覚するなら、悲劇です。自分の姿を知るためには、鏡が必要ですが、その鏡

が歪んでいたら、元も子もありません。しかしわたしたちの周りには、わたしたちを惑

わす歪んだ鏡で満ちています。受験生であれば偏差値という歪んだ鏡があり、それだけ

を見ればどんなに優秀で優れていても、実は冷酷で非人間的という別の面が写し出され

ることがありません。美貌、学歴、地位、身分、才能等々、この世にはありとあらゆる

歪んだ鏡があって、多くの人はその歪んだ鏡を見て、自分にうっとりし、自分は大した

ものだと考えるのです。ですからわたしたちが本当の自分の心の姿を知るためには、歪

んでいない正しい鏡が必要です。それが「律法」なのです。今いる部屋を真っ暗にし

て、まっすぐに歩いて見てください。自分はまっすぐに歩いているつもりでも、たいて

い右か左に曲がってしまいます。律法とは、わたしたちが目分量とか見当でまっすぐに

歩くのではなく、正しくまっすぐに歩くために与えられた基準でした。正しく生きるた

めの目安、基準、標準、それが律法なのです。正しく生きること、本来の人間らしい生

き方の標準、その最低ライン、それが律法です。

 

2.愛ー人間の本来のあるべき基準としての律法

 最初に創造された人間は、この神の律法に完全に服従することで、完全な義に至るこ

とができました。それでは、そこで神が人間に求められた「義」、つまり人間本来のあ

り方とは何でしょうか。律法が要求し、律法が指し示す「義」とは何でしょうか。主イ

エスは、「律法の中で、どの掟が最も重要」かを問われ、「『心を尽くし、精神を尽く

し、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟

である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

律法全体と預言者(旧約聖書のこと)は、この二つの掟に基づいている」と言われまし

た(マタイ22章37~40節)。人間本来の生き方、あり方を示したのが「律法」で、その

中心が「十戒」ですが、主イエスはそれを「二つの愛の戒め」にまとめられました。そ

れは、「神を愛し、隣人を愛する」ことであり、この二つが人間に求められる「義」、

人間本来の生き方だと。

 

 しかしそれはさらに一つの愛の戒めにまとめられます。「互いに愛しあうことのほか

は、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしている

のです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟であって

も、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行

いません。だから愛は律法を全うするものです」(ローマ書13章8~10節)。また「律

法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」とあり

ます(ガラテヤ書5章14節)。主イエスご自身、「あなたがたに新しい掟を与える。互

いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合

いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であること

を、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34~35節)と言われました。この教えを受けた

弟子のヨハネは、「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教

え」で、「その掟とは、互いに愛し合うこと」だと語りました(1ヨハネ3章11、23

節)。そして「互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神か

ら生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だ

からです。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたした

ちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互い

に愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの

内で全うされているのです。神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。これが、神か

ら受けた掟です」と勧めるのでした(1ヨハネ4章7~21節)。このように、神が人間

に求められる「義」、「律法」が要求する人間本来のあり方とは、「互いに愛する」こ

となのでした。律法とは、あれをしてはいけない、これをしてはいけないといった禁止

条項のリストなのではなく、その本質は「愛する」ということなのです。神がわたした

ちに求めておられる生き方、人間の本来の在り方とは、「あなたは真実に愛している

か」ということなのでした。

 

3.完全に徹底的に愛し抜くことを要求する愛の戒め

 それなら大丈夫だとあなたは言われるかもしれません。しかし本当にそうでしょう

か。ここで求められている愛は、まあまあ愛していれば良いとか、ある程度の愛で許さ

れるといったものではなく、徹底した愛、完全な愛が求められているということです。

まず第一に、神への愛が求められます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし

て、あなたの神である主を愛しなさい」ということは、半端な愛し方ではありません。

片手間で、思い出した時に愛を確認するといったものではなく、徹頭徹尾神を愛し、神

を第一とし、神のためには生命さえ惜しまず捧げて捨てるほどに神を愛するということ

です。神の御心を中心にして、神の願うように望まれるままに生きるということ、つま

り己れの我欲を捨て切り、徹底的に「神中心」に生きるということです。しかもそれだ

けではなく、「神の像」に似せて創造された「隣人を自分と同じように愛する」ことも

求められます。それではこの「隣人」とは誰か、主イエスは答えられました。単に自分

の周りや隣にいる人のことだけではなく、ましてや自分によくしてくれる人のことだけ

でもない、あなたの敵も隣人であると(マタイ5章43~48節)。あなたの気に入らな

い、あなたを憎み、敵対する人であると(ルカ11章27~37節)。さらにはあなたにとっ

て価値なく意味のない人であると(マタイ25章34~40節)。そのような自分の敵や「小

さな者」を愛することが、ここで求められているばかりか、神を真実に愛することはこ

のような人々を愛することによって具体化され、実現し、成就するとさえ言われます

(ローマ13章8~10節)。逆に隣人を愛さず、依然として憎むことは、神を憎むことに

なります(1ヨハネ4章20節)。ここでは徹底的な隣人に対する愛が要求されているの

です。それは生半可な「愛」ではなく、自分自身を捨てることを求められるほどに厳し

い愛です。

 

4.罪とは自己愛に生きること

 聖書が示す「愛」の基準は、「友のために自分の命を捨てること」です(ヨハネ15章

13節)。わたしたちの主「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。

そのことによってわたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3章16節)。これが愛の基

準です。相手のためには自分を捨てる自己否定、自分の最も大切なものである命さえ相

手のために捧げる自己犠牲、徹底して相手のために尽くしていく他者中心性、それがこ

こで求められている「愛」なのです。しかしわたしたちの愛は、それと比べるならば何

とみすぼらしく、醜いものでしょうか。わたしたちの愛は、愛しているといいながら、

自分の相手に対する自分の思いを押しつけ、それに応えることを相手に強要するもので

あり、実は自分に対する愛でしかありません。「自己愛」を、愛と勘違いしているだけ

です。自分を捨てるどころではない、自分の「愛」を貫徹させようとする我欲にすぎま

せん。愛という美しい装いをこらした醜い自己愛、我欲、自己中心、それがわたしたち

が「愛」と誤解しているものの内実であり、わたしたちの愛そのものなのです。それは

「自己愛」にすぎません。そしてこのような愛、実は「自己愛」が、親と子の間に、夫

婦の間に、恋人の間に、家族や隣人の間に蔓延し、だから互いにぶつかり合うのです。

だから互いに受け入れられず、理解しきれず、互いが互いに自己主張を繰り返して、傷

つけ合うのです。この歪んだ自己愛がもたらす歪んだ人間関係こそ、わたしたちの悲惨

さそのものではないでしょうか。あなたのためだ、君のためだと称して、自分を押しつ

け合う、醜く歪んだ「自己愛」の姿こそ、わたしたちの悲惨さなのです。英語では、罪

とはSINです。真中にI(わたし)があること、つまり自己中心こそ、罪の本質なの

です。

 

 この「自己中心」は、聖書が教え、神が求める「愛」と対極にある在り方です。わた

したちは神が求められる義の基準、つまり「愛の戒め」を守り行うことができるでしょ

うか。「わたしにはそれができない」と答えざるをえません。なぜできないのでしょう

か。わたしたちは、愛を本質的に知らないからです。また知っても、本当には愛するこ

とができないからです。なぜならわたしたちは、皆すべて、自己中心に生きているから

です。そして「愛」という美名のもとに、それとはまったく異質な別のものを「愛」と

誤解したまま、歪んだ「自己愛」の世界の中で、自分も相手もからめこんだまま、苦し

んでいるのです。ここに、「罪」に生き、それにからめとられて生きているわたしたち

の悲惨さがあるのです。わたしたちは、この神の要求を全く満たすことができないばか

りか、むしろこの不完全な愛と満たされない愛のゆえに苦しみ、悩み、もがいているの

です。神の律法の要求することは、「愛」でした。このように、わたしたちの内にある

のは「自己愛」でしかありません。そしてこの自分中心な愛、自分ばかりを愛すること

を人に要求する愛、自分しか愛さない愛、その中で「愛している」と錯覚するところに

わたしたちの悲劇があり、また苦しみと悲惨さがあるのです。聖書は、この不完全で自

己中心な「愛」に生きるわたしたちの生き方、この倒錯したわたしたちのあり方を指し

て、「罪」と言うのでした。わたしたちは神と隣人を愛することができません。それは

不完全な愛でしか愛せないとか、「完全に」はそれを達成できないということだけでは

なく、むしろそれが自己中心的な「自己愛」として醜く歪み、変形し、曲解したものと

なってしまっているからです。不十分ながらも「愛」と言いながら、それが「愛」とは

似ても似つかない醜いものに歪められ、すべてが自分を中心に考えられ、求められるよ

うなものとなってしまったのでした。「愛」とは、与えるものではなく奪うものであ

り、自己犠牲ではなく自己貫徹・自己実現であり、捧げるものではなく受けるものとし

て、常に自分の要求を押しつけ、自分が満たされるための自己充足の手段と化してしま

いました。