第16講 キリストにある交わり(仕え合い)に生きる

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第16講:キリストにある交わり(仕え合い)に生きる


あなたは、最善を尽くして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持するこ

とを、約束しますか。


「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わた

しにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)


1.仕え合う共同体の形成

わたしたちは、この地上にあるキリストの手足として、キリストの御心を行う者とし

て生きていくことが求められています。そこでそのようなわたしたちが集められ、この

地上でのキリストの手足として、キリストの御心を代行していく集団、それが教会で

す。この働きを担うために、わたしたち一人一人それぞれにそれにふさわしい賜物が与

えられました。それによって皆が協力し、皆が補い合い、皆が配慮し合い、皆が一つ心

となって、一つの業を主に果たしていくためです。そこでの原則は「受けるよりは与え

る方が幸いである」ということです(使徒20章35節)。そうしてわたしたちは、互いにそ

れぞれに与えられた賜物を用いて、互いに仕え合っていくことが求められているので

す。教会での相互奉仕(仕え合い)について考える上で大切なことは、わたしたち自身

とわたしたちの持てる全てのものは、本来キリストのものであるということです。わた

したちはキリストの所有するものであり、わたしたちの持てるものは全てキリストのも

の、キリストのために用いられるべきものだということです。そしてわたしたちは、互

いにそれぞれに与えられた賜物と財とを用い、互いに仕え合っていくことによって、は

じめて成長していくことにもなるのです。


a.奉仕における信仰の成長

 教会においては、奉仕がどうして求められるのでしょうか。奉仕はもちろん、神のた

めです。神のためにわたしたちは奉仕します。その通りなのですが、それでは神はわた

したちの奉仕を必要とされるのでしょうか。わたしたちの奉仕がなければ、神の働きは

できないのでしょうか。答えは否です。実はむしろ奉仕は、まずわたしたち自身のため

のものです。わたしたちの信仰が成長するために必要なのです。子供が成長するために

は、必要な栄養が十分摂取されると共に、適度な運動が必要です。身体の成長だけでは

なく、心の成長も「遊び」の中で身につけていきます。多くの人との出会いや摩擦の中

で子供は色々なことを学習し、心を成長させていきます。どんなに栄養を与えても、そ

れだけで健全に成長するわけではありません。わたしたちの信仰も同じです。奉仕は、

何より自分のため、自分の成長のためなのです。神はわたしたちの働きを必要とされる

方ではないのに、わたしたちを用いてご自身の働きをしてくださいます。それは神がわ

たしたちを必要とされるというよりも、それによってわたしたちを信仰の成長へと促す

ためでした。


 また、わたしたち一人一人の奉仕が、教会の働きのために必要なことは言うまでもあ

りません。教会の働きを維持し、さらにそれを発展させていくためにも、わたしたちは

奉仕をします。しかしそれはそこにとどまらず、わたしたちは自分が実際に奉仕をし、

教会の働きに参与することで、いっそう教会の必要が見えてきます。教会の足りなさ、

弱さ、様々な必要が見えてくるのです。そしていよいよ教会の弱さと足りなさと問題を

引き受けながら、それを担っていく責任と自覚が生みだされていくのです。奉仕はわた

したちを傍観者・批評家にしません。そこでは、共に礼拝している兄弟の弱さと必要も

見えてきます。ただ礼拝に出席するだけでは分からなかった、それぞれの兄弟姉妹の特

性、性格、必要、問題、弱さなどが少しずつ見えてきます。奉仕なしのつきあいである

なら、この世の人と同じように、程々につきあって、後は無関係の態度をとるでしょ

う。しかし奉仕の中で兄弟に出会い、その必要と弱さを知るとき、わたしたちは表面的

なおつきあいでその兄弟と関わろうとしないはずです。その兄弟に対する痛みと関心と

愛が生み出されてくるからです。奉仕をもってその兄弟に関わるときには、その兄弟の

問題と弱さを自分の事柄として引き受けようとする愛と自覚が生み出されます。何よ

り、これまで自分のことで頭が一杯で、他の人を顧みる思いもなく、自分の殻に閉じこ

もって自分のことばかり考えてこうしてわたしたちは、奉仕によって、奉仕を通し他者

と関わることで、自分自身が変えられていきます。人の痛みが見え、他の兄弟の悲しみ

が見えてくる、そしてそれを真実に分かちあおうとする者に変えられていくのです。そ

の時、わたしたちは真実に、自分たちが信じ仰ぐ「神」を知るようになります。「互い

に愛しあいましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神を知っているからで

す。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(1ヨハネ4章7、8

節)


b.奉仕はどのようにしたら良いか

 奉仕に対する優先順位は、奉仕の内容そのものにも関わってきます。自分の好む奉仕

は喜んでするが、気にいらない奉仕には関わろうとしないなら、奉仕に対する考え方を

考え直す必要があります。自分の教会に対する自覚と責任は、他の人がしようとしない

奉仕へと目を向け、喜んでそれを担う者としていきます。苦手な奉仕でもそれをうまく

やる努力をし、気乗りのしない奉仕でもそれを楽しく担おうと工夫するでしょう。自分

のしたいことをするのが奉仕ではありません。様々な仕事や用事がある中で、限られた

時間を主に捧げることが奉仕ですから、一日や一週間の時間の使い方が変わってくるは

ずです。また自分の教会での奉仕と働きを優先することが大切です。対外的な奉仕や他

の集会に忙しくして、自分の教会での奉仕がなおざりにされているのであれば考えもの

です。奉仕は、自分の教会に対する責任と自覚の中で、果たされるべきものだからで

す。そうして教会における自分の位置づけがきちんと確保されることが大切です。宙ぶ

らりんの教会生活は面白くないし、健全でもありません。自分の席が教会にあること、

そうしてしっかりと教会に組み込まれていくことで、教会も建て上げられ、自分もその

「生ける石」となって成長していくのです。そうやって自分の教会の責任を引き受け、

用いられていくことが、教会に対する責任と自覚をさらに深めていくのです。

 また奉仕とは、教会での個別の具体的な働きや責任、仕事や頼まれてする働きだけと

はかぎりません。新しい人の隣に座り世話をすることも、悩んでいる兄弟に声をかけ励

ますことも、相談に乗ったり便宜を図ることも奉仕です。玄関のゴミに気づいて拾うこ

とも、主に対する立派な奉仕です。そこではわたしたちがいつも主に対して、どのよう

な心、姿勢であるかが明らかにされるのです。何かをしたかの問題ではありません。主

に対する姿勢が、形となって現われるのです。奉仕は、具体的な行動だけではなく、

色々な働きや必要を覚えてもなされます。つまり「祈り」です。直接具体的に話したり

働きかけることが出来なくても、その人や働きを覚えて祈ることが出来ます。祈りは、

教会に与えられた「祭司」としての重要な務めであり、それこそ第一の奉仕です。様々

な必要を覚えて執り成す働きは、最も直接に神に働きかけ、神に働いていただく奉仕で

す。ある人は「一生を終えて後、我々に残るものは、我々が集めたものではなく、我々

が与えたものである」と語りました。自分のため、自分のためと自分に生きる人生は、

虚しいです。虚しさにおわらない人生、そのために神はわたしたちを神の働きへと召し

出し、神と隣人に生きる人生という使命を与えてくださったのでした。わたしたちに奉

仕が与えられたのは、どこまでも自己中心に生きるわたしたちが、その自分という殻か

ら解放されて、生き甲斐のある、喜びのある人生に生きるためでした。虚しさにおわら

ない人生、そのために神はわたしたちに奉仕を与え、使命に生きる人生へと召しだして

くださったのでした。この神の憐れみと祝福を覚えて、その神の召しに応えていく人生

としていきましょう。


2.感謝と献身の印としての献金

a.わたしたちのものは主のもの

 わたしたちがキリスト者として、この世から召し出され、神の働きのために聖別され

たのは、己が身と心とを全て主に捧げて生きる者となるためでした。「自分の体を神に

喜ばれる聖なる生きたいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼

拝です」(ローマ12章1節)。それを具体的に表わすのが、教会での奉仕と献金です。献

金とは、神の恵みに対する賛美の捧げ物であり、「感謝と献身のしるし」です。地上に

おける教会の働きは、それを構成する信徒一人一人の支えによって維持されていきま

す。それは活動と奉仕という点でも、経済的な面でもそうです。神は教会の働きを維持

し、経済的必要を満たすためにも、わたしたち一人一人を各々の教会へと召し集められ

たのでした。わたしたちに必要な一切を満たしてくださるのは、それによって教会の働

きを維持し、そのために用いるためでもあるのです。献金とはわたしたちの神への感謝

と献身のしるしです。神が必要の全てを満たして、恵んでくださることへの感謝と共

に、そもそもわたしに与えられたものの全ては、一切が神ご自身のものであることの信

仰告白です。神はわたしたちに与えられた恵みによって、まずわたしたちの生活を維持

し、また単に必要を満たすだけというのではなく、豊かな楽しい生活へと満たしてくだ

さいます。わたしたちはそのことの感謝として、その幾分かを神にお返しするのです。


 b.強制されてではなく、喜んで捧げる恵み

 献金は自分の収入の中から、自発的に、それぞれの信仰の量りに従ってするべきこと

です。それは何より各々が自分で心に決めて、生活に応じて捧げるべきもので、原理・

原則に縛られるものではありません。2コリント8~9章には、献金の原則が教えられ

ています。そこでは、献金は嫌々するものでも、強制されてするものでも、また無理に

自分の力以上にするものでもないことが教えられます。そして神に感謝し、また祝福し

てくださる神を信じて心から捧げる捧げものを、神は喜んで受入れ、祝福し何倍にも用

いてくださり、さらにはそのようにして捧げる者を一層の祝福によって富ましてくださ

るのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の

貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(同8章9節)。献金は、

この主に対する心からの感謝と献身のうちになされるべきものなのです。そのような形

で、主がわたしたちの生活を支え、祝福してくださる恵みを感謝して、また様々な教会

の働きや必要を覚えて献金するのです。そのようにわたしたちが喜んで献金できるこ

と、また献金できるよう必要を主が満たしてくださっていることを心から感謝したいと

思います。献金できること自体が神の恵みです。主の働きのため、隣人の必要のために

献げたいと願う心が与えられ、支えられること自体、主の恵みなのです。それによって

わたしたちは「受けるよりも与える方が幸いである」との主の言葉の恵みを味わい知る

者とされ、それによってさらなる豊かさと祝福を知るようになっていくからです。


 c.献金とは「分かち合う」こと

 さらに覚えていただきたいことは、献金はわたしたちが「互いに分かちあう」ことの

ために与えられたものでもあるということです。主の働き、教会の活動、そういったこ

とのために捧げられ、用いられていくように献金します。しかしそれだけではなく、互

いが互いの弱さや足りなさを覚えて、その不足をお互いに補いあうことで、互いの交わ

りを豊かなものとし、そうやって支えあって「共に生きていく」ことを実現していくの

が、教会です。パウロは、貧しさと闘いながら困窮していたエルサレム教会のために、

霊的には彼らに負っているローマ世界の諸教会が、物質的に援助していくことを提唱

し、献金を募りました。パウロはこの献金について、「他の人々には楽をさせて、あな

たがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにする」ためのもの

だと語りました。「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆ

とりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれる」からと。こう

して「献金」とは、互いが互いの欠乏を補いあって、助け合って生きていくことを具体

化し、それぞれに与えられた神の祝福を「分かちあう」ものであることを明らかにして

いるのです。献金とは「分かちあう」ことです。自分の多少のゆとりが、他の人の欠乏

をいくらかでも補い、助け合っていける、そのような豊かさを知っていくとき、わたし

たちは本当に祝福されていきます。自分のために、あれもこれもとひとり占めするより

も、それを分かちあうことの方が、ずっと幸せで豊かです。献金は、そのことをわたし

たちに教え、実践させていくものなのです。