第15講 キリストの僕としてふさわしく生きる

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第15講:キリストの僕としてふさわしく生きる


あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きる

ことを、決心し約束しますか。


「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人々

が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下

さった方のために生きることなのです」(2コリント5章15節)


1.キリストを主として生きる人生-その御心に従う人生

 主イエスがご自分の尊い血によってわたしたちを贖ってくださったことにより、わた

したちは「主のもの」とされました。それは、主イエスが「わたしの主」となられたと

いうことであり、そこでわたしは「キリストの僕」とされました。こうしてわたしたち

が「キリストの僕」として生きるとは、キリストを自分の「主」として、その主の御心

に従って生きるということです。わたしたちはイエスを「主」と呼びますが、それは主

イエスを「自分の主」とすることで、つまり「自分の主人をもつ」ということです。そ

れは「自分は自分の主人ではない」ということでもあります。キリストを主と告白しな

がら、依然として自分を主として生き、自分の心の思いと願いのままに生きているな

ら、それはキリスト者とは言えないのです。しかしこのようにキリストを自分の主とし

て生きる生き方は、とても困難です。この世には、わたしたちをその奴隷、僕にしよう

とする、偽りの主人がたくさんあるからです。身も心さえも支配しようとする様々なも

のが、わたしたちを取り巻いているからです。それは政治の力であったり、会社である

かもしれません。金銭、誘惑、社会的な地位や名誉を願う思いが生活の隅々にまであっ

て、わたしたちの心を支配し縛りつけているからです。このようにわたしたちの周りに

は、身を委ねたくなるような偽りの主人があるのです。さらにわたしたちは依然とし

て、自分自身の主人になろうとします。それにより自分で自分を押さえることができな

い、勝手気ままな生き方に流されてしまいそうにもなります。また頼りにならない自分

に頼って失敗してしまったり、様々なことに振り回されてしまうのです。主イエスへの

信仰、つまりイエスを主とする信仰とは、これらの偽りの主(自分を含めた)に対して

「否」をいうことなのです。


2.キリストのものとして、御心に従って生きる-キリストの御言葉に生きる

 イエス・キリストを主と仰ぎ、この方以外の何者をも自分の神また主としないとは、

この方に倣って生き、この方の御心に従って生きるということです。キリスト者たちは

「この道に従う者」と呼ばれました。それぞれの国にはその国独特の文化や風習があ

り、それぞれに国や地方に自分たちとは違う生き方や考え方があるように、天に国籍を

持ち、キリストの王国の市民となったキリスト者も、やはり周りとは違う生き方や考え

方があります。彼らは「クリスティアノス」とあだ名をつけられましたが(使徒11章26

節)、それは「キリスト派、キリスト党、キリスト狂い」といった意味でした。つまり

周りからそう見られるほど、彼らの生き方や生活はキリストと密着し、周りとは違った

ものだったのでした(使徒17章7節)。アノスは「~に帰属する者」、つまり「キリス

トのもの」という意味でした。キリストを主と見上げて、キリストに所属する者らし

く、キリストの求めるように生きる、それがキリスト者ということです。「信仰」とは

心の慰めや態度の変化といったものだけではなく、生き方そのものが変わっていくこと

です。


 それでは「キリストを主とする、キリストのものとして生きる、キリストの僕にふさ

わしい生き方」とは、どのような生き方なのでしょうか。それは神の御心に従って生

き、キリストに倣ってキリストの御心のままに生きるということです。そのわたしたち

の生き方の道標として与えられたのが、キリストの御言葉である聖書です。キリストの

御言葉を信じ受け入れることで救われた(ローマ10章17節)わたしたちは、そのキリス

トの御言葉に従って、これからも生きていくのです。神の御心は、そのキリストの御言

葉である聖書に記されており、キリストの模範もそこに示されているからです。ですか

らわたしたちは聖書から離れて、キリストの僕にふさわしい生き方をすることも、それ

を知ることもできません。わたしたちは、命をもって救ってくださった方をさらによく

知り、その方への愛と感謝のうちにその方に向かって生きるために、聖書に親しむ必要

があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編

119編105節)とあるとおりです。キリストの御言葉ぬきで、キリスト者としての生き方

もありません。


 ですからキリスト者として生きようとするわたしたちにとって、日ごとの聖書の学び

と祈りは欠かすことができません。信仰とは「神との生きた交わり」ですから、そこで

の交わりなしに成長はありえないからです。それは神からの言葉を聞き、それに応答し

て祈るということで、それによってわたしたちは霊的に呼吸し、信仰の命を養われてい

くのです。それはまずわたしたちの「養い」のために必要です。養われなければ成長は

おろか、命を維持することさえできません。またわたしたちが道を間違えることなく、

キリスト者として「ふさわしく歩んでいく」ために必要です。「日々の祈り」(毎日の

礼拝)は、わたしたちの霊的成長にとって欠かすことができません。その日々の御言葉

の学びの中で、わたしたちの信仰は養われ、その日歩むべき道を示されていきます。わ

たしたちが真実にキリストの御心に従い、その手足となって生きていくためには、日々

の御言葉の学びは不可欠です。またわたしたちキリスト者は、神の御心に沿って生き、

御心を実現するためにそれぞれの務めと働きを与えられて生きているのですから、それ

ぞれの一日の働きを果たすためには、その前にまずわたしたちをこの世へお遣わしにな

る神御自身に、今日のわたしの生き方と働きを問い尋ねる必要があります。そのために

「日々の祈り(毎日の礼拝)」が必要なのです。ここではその一例をあげましょう。


  日々の祈り(毎日の礼拝)の持ち方

 一、賛  美 好みあるいは聖書に合った讃美歌を賛美します。

 一、祈  祷 ディボーションの祝福を求めて祈りましょう。

 一、聖書朗読 その日の聖書通読の箇所を通読する。

            できれば2回読みます。1回目は、何が書いてあるか、

            2回目はそれが自分にどういう意味を持つかを考えながら。

 一、黙  想 開かれた聖書箇所の御言葉を瞑想する。

 一、読  書 何かの聖書講解があればそれを読み、御言葉を味わう。

 一、祈  祷 それぞれの祈祷課題を祈る。


 次に、祈りの内容について考えましょう。自分の祈りを振り返って見てください。わ

たしたちの祈りは、注意して見直すと、案外「お願い」ばかりの祈りになっていないで

しょうか。祈りには要素があって、それがバランスよく組み合わされた祈りが健全な祈

りです。一度、自分の祈りの内容を検討して見てください。


  祈祷の要素

 一、告  白  犯した罪を悔い改めて告白します。

 一、賛  美  神を賛美し、御名を崇めましょう。

 一、感  謝  神の恵みと祝福を一つ一つを感謝します。

 一、執り成し  多く人々の必要を覚えて、執り成します。

 一、祈  願  教会共通の祈祷課題、自分の祈祷課題などを祈ります。


「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて

歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっか

り守って、あふれるばかりに感謝しなさい」(コロサイ2章6、7節)。そしてそのた

めに、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(同3章16

節)と勧められます。主イエスも言われました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う

者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹

いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と(マタイ7

章24、25節)。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉

で生きる」(同4章4節、申命記8章3節)。「命のパン」を求めていきましょう。


3.キリストの心(愛)に生きる

 聖書ではわたしたちキリスト者の基本的な生き方が教えられています。それは主イエ

スご自身がわたしたちに教えられ、また「新しい戒め」として与えられた「二つの愛の

戒め」です(マタイ22章34~40節)。そしてそれは「互いに愛し合う」ことに集約され

ていきます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあな

たがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、

それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ

13章34、35節)と主は言われました。ヨハネは「互いに愛し合うこと、これがあなたが

たの初めから聞いている教え」だとして、「互いに愛し合う」ことを勧めます(1ヨハ

ネ3章11節~4章21節)。そして「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」と勧めま

す。隣人を自分のように愛することこそ、神への真実な愛を具体化させていくだからで

した。パウロも「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりま

せん。人を愛する者は、律法を全うしているのです。どんな掟があっても、『隣人を自

分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だか

ら愛は律法を全うするものです」(ローマ13章8~10節)。また「この自由を得させる

ために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。奴隷のくびきに二

度とつながれてはなりません。あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。た

だこの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全

体は、隣人を自分のように愛しなさいという一句によって全うされるからです」(ガラ

テヤ5章1、13、14節)と呼びかけられています。「互いに愛し合うこと」、これこそ

キリストの御心、キリストの律法なのでした。


4.キリストの手足として生きる

 キリストにある新しい生は、「生きている人々が、もはや自分自身のために生きるの

ではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる」(2コリント

5章15節)ためのものであり、こうして「わたしたちは生きるとすれば主のために生

き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ローマ14章9節)者として、これからの人生を歩

んでいくのです。このようにわたしたちがキリストにある新しい生命に生きる者となる

ために、主は死んで下さったのでした。だから「自分自身を死者の中から生き返った者

として神に献げ」(ローマ6章13節)ていこうではありませんか。それが、キリストを

「主」とお呼びして生きていく人生です。わたしたちが、「自分の体を神に喜ばれる聖

なる生けるいけにえとし献げ」ること、つまり「心を新たにして自分を変えていただ

き、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきま

える」(ローマ12章1、2節)ことで、そのように生きるとき、キリストは真実にわた

したちの「主」とされていくのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新

しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント

5章17節)、そのような人生へと、わたしたちは招き入れられたのでした。自分に対す

る不満や他人に対する批判で心を一杯にする人生ではなく、どのようなことも感謝して

受け取ることができ、賛美が口から溢れ出るような、喜びで心が一杯となる人生です。

「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」と、わたしたちの教会の信

仰基準は答えます。そのように「永遠に神を喜び」、それによって「神の栄光を現す」

人生へと、わたしたちは招かれていったのでした!