第14講 キリストにつながって生きるための礼拝と聖餐

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第14講:キリストにつながって生きるための礼拝と聖餐


あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きる

ことを、決心し約束しますか。


「わたしにつながっていなさい。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実

を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶ

ことができない」(ヨハネ15章4節)


1.信仰を養い、隣人を愛するために、教会につらなる

 洗礼とは、水が注がれることで象徴されるように「罪と汚れの洗い」であることを前

回考えました。しかしそれだけではなくて、それによってわたしたちが、「キリストと

接ぎ木されること、再生、罪の赦し、イエス・キリストによって自分を神にささげて新

しい命に歩くこと」をしるしづけ、それが確証するものでもありました(『ウェストミ

ンスター信仰告白』28章)。洗礼は、わたしたちの罪が、キリストによって全く洗い流

され、潔められたことと共に、わたしたちが罪に死に、キリストの命によみがえらせら

れた者として、新しく生まれたことをも意味するものでした。それはわたしたちを「新

たに造りかえる洗い」(テトス3章5節)として、「わたしたちがキリストに接ぎ木さ

れ、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものとなると約束することを、表わし証印

する」ものなのでした(『小教理問答』94)。こうしてわたしたちは、「キリスト・イ

エスに結ばれるために洗礼を受けた」のであり(ロ-マ6章3節)、洗礼はわたしたち

をキリストご自身へと結びつけ、キリストにある恵みの全てをわたしたちにもたらすも

のであることを表わします。このようにわたしたちが、主イエスと結ばれる、これが新

しく生まれ変わったわたしたちに、とても大切なこととなっていくのです。わたしたち

の命は、わたしたち自身の内にあるのではなくて、わたしたちのために死んで復活して

くださった主イエスの許にあります。そしてわたしたちは、わたしたちの命の源である

主イエスと結びついていることにおいて「生きる者」となり、また生き続けていくこと

ができるからです。そこで主はわたしたちに、「わたしにつながっていなさい。ぶどう

の枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたが

たもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15章4節)と言

われたのでした。キリストに結びつけられることで、信仰の生命が注がれ続け、愛の実

を結ぶ信仰となるからです。


 それでは、そのように信仰においてキリストと結び合わされるとは、具体的にはどう

いうことなのでしょうか。「キリストにつながる」とは、具体的には「キリストの体で

ある教会につながる」ということによってなされます。教会にこそ、地上にある「キリ

ストの体」であって、それによってわたしたちの信仰は生まれ、養われ、成長させられ

ていくのであり、そこにはそれに必要なものの一切が備えられているからです。ですか

らわたしたちは、「キリストの体である」教会から離れては、自分の信仰を正しく健全

に維持し、成長させていくことができません。もとよりわたしたちは、自分一人だけで

その信仰を保っていくことができません。矢は一本だと簡単に折られてしまいますが、

三本束ねれば折るのは難しくなります。また一本の薪はすぐに消えてしまいますが、薪

の束の中にある限りいつまでも燃え続けることができます。信仰の炎も同様です。それ

に、自分ではふさわしく生きているつもりでも、自分で気がつかないうちに、歪んだ信

仰を抱くようになることもあります。そしていつの間にか自己流の信仰、自分本意な信

仰、自分勝手で自己満足的な信仰、さらにはまったく神の御心からかけ離れた信仰と

なってしまうこともあります。盆栽の木が形良く成長する、あるいは野菜が多くの実を

結ぶためには、刈り込みや手入れ、そして矯正が必要です。そのように正しく健全な信

仰に成長するためには、正しい指導がなされることが必要です。ですから神はわたした

ちの弱さと身勝手さを十分承知の上で、そのために教会を建てられました。それは一人

では弱いわたしたちが、教会の交わりの中で育まれ、成長させられていくためです。

「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブ

ライ10章25節)と勧められるとおりです。


2.最善を尽くして教会の礼拝を守ること

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

(マタイ4章4節)。この神の言葉が証し、わたしたちに提供されるもの、それはイエ

ス・キリストご自身です(ヨハネ5章39節)。人を生かす生命の神の言葉(ロゴス-ヨ

ハネ1章1~3節)とはキリストのことであり、この方がわたしたちの「生命のパン」

です(ヨハネ6章35、51節)。ですからわたしたちは、この方を食さなければなりませ

ん(同53~56節)。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くこ

とによって始まるのです」(ローマ10章17節)と言われています。そしてこのキリスト

とその言葉とが満ち充ちて共におられるところこそ、教会なのです(コロサイ1章23

節)。わたしたちは教会につながり、そこで語られるキリストの言葉にあずかることに

よってこそ、信仰が育まれ、成長していくことができます。神の御心を知り、そして御

心に適った歩みをして成長していくために、教会につながり、そこでの礼拝と集会にで

きる限り出席することが大切です。


 そして、そこで大切なのは、「主よ、お話ください。僕は聞いております」(サムエ

ル上3章10節)という、「聞き従う」心の姿勢です。礼拝において、聖霊がわたしたち

の心を開いて、今ここにおられるキリストに出会わせ、キリストを仰ぎ見、キリストの

言葉を悟ることができ、そうして信仰の目を開いてくださるということを求めるので

す。そしてかたくなな石の心が、聖霊によって砕かれていき、神に喜んで従う心に変え

られていくことを求めるのです。「御言葉への聴従」こそが、礼拝における本質的な姿

勢です。礼拝の中心、その頂点とは、聖書朗読とその説き明しである説教です。神の御

言葉が語り聞かされるところ、それが礼拝の中心です。ですからそこで読み聞かせられ

る神の御言葉に、最大限の注意を払って、「聞く」べきです。わたしたちは礼拝におい

て、何よりもまず開かれていく聖書の言葉に最大限の注意を払って心を開き、それに

「聞き従う」思いをもって「聞く」者として神を礼拝していきたいと思います。それこ

そ神の求めたもう真実な礼拝なのです。


3.「命のパン」である主にあずかるための聖餐

 わたしたちがキリストに結び合わされ、主イエスにつながっていくことの、もう一つ

は聖餐にあずかることです。洗礼を受けてキリスト者となると、今度は礼拝の中で執行

される聖餐にあずかる者ともされていきます。そこでは、パンとぶどう汁をいただきま

すが、それは何を意味しているのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』では、聖餐

が「十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを思い

起こしまた確信させられる」ものだとして、このように約束していきます。「キリスト

は御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ、この杯から飲むようにと、わた

しとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。第一に、こ

の方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわ

たしのために流された、ということ。それは主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわ

たしのために分け与えられるのをわたしが目の当たりにしているのと同様に確実であ

る、ということ」だと(問75)。そこで表わされたことは、わたしたちの「罪の贖い」

とそのための「キリストの犠牲」です。主が「ご自身を記念するため、この裂かれたパ

ンから食べ、この杯から飲むように」と命じられたのは、「この方の体が確かにわたし

のために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された」

ということ、そして「それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために

分け与えられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である」(問75)

ということをわたしたちに約束されるためでした。そしてわたしたちが聖餐に繰り返し

あずかるのは、わたしたちが「罪の赦し」を必要とし、そのために繰り返しキリストご

自身が必要であることをわたしたちが忘れないためです。そこからもたらされる効果

は、キリストの贖いによる罪の赦しの確かさです。わたしの罪は、キリストによって確

かに贖われ、確かに罪の赦しが与えられたことを、信じることが出来るし、そのことが

保証されているということです。


4.日ごとの主の養いに生きる

 さらに聖餐は、わたしたちが日毎に養われていく必要を覚えさせます。ハイデルベル

ク信仰問答はさらに、「第二に、この方御自身がその十字架につけられた体と流された

血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養い、また潤してくださる、というこ

と。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパン

と杯とを、わたしが奉仕者の手から受け、また実際に食べるのと同様に確実である、と

いうこと」だと答えていきます。わたしたちの身体が栄養を必要とし、それなくしては

成長はおろか、生命を維持していくことが出来ないように、わたしたちの信仰もそうで

あるのです。生命は一度生まれたら、後は自動的に勝手に維持し、成長するものではな

く、そのために絶えざる生命の補給を必要とします。養いがなければ生命は維持されて

いかず、成長していくこともできません。わたしたちの内に与えられた信仰、永遠の生

命も同じです。キリストにしっかりと結びつけられて、脈々とキリストからの生命の樹

液、栄養を欠かさずに受けることが必要で、それなしにはただちに枯れ、枯渇してしま

います。キリストを離れては、わたしたちは実を結ぶことはおろか、生命を維持するこ

とさえできません(ヨハネ15章5節)。そこで、わたしたちの信仰が日毎に養われてい

くために、絶えざる「霊的養いと成長」のために与えられたのが聖餐なのでした。それ

は、わたしたちがキリストに結びつき、キリストにある交わりとキリストの御言葉に

よって養われていくということなのです。


 そしてそれは、キリストが備えてくださり、キリストからいただくものであると同時

に、それはキリストご自身であるということです。聖餐によってわたしたちは、キリス

トの「体と血」を食します。キリストご自身を噛み砕くことで、それがわたしたちの栄

養となっていくと共に、キリストご自身の命がわたし自身の命とされていくのです。な

ぜなら、「この方ご自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確か

に永遠の命へとわたしを養い、また潤してくださる」からでした。そして、「それは、

キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわた

しが奉仕者の手から受け、また実際に食べるのと同様に確実である」ことを表わすので

す(問75)。このように、「十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血

を飲む」とは、「キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それ

によって罪の赦しと永遠の命とをいただく」(問76)ということです。それは、「ちょ

うどパンとぶどう酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたそ

の体と血とが、永遠の命のために、わたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になる

ということ」(問79)でした。わたしたちの信仰と永遠の生命のための養いは、キリス

トが備えてくださるものであり、それはキリストご自身を食するということでした。で

すから、わたしたちは自分の信仰を維持し、成長し、養われていくために、繰り返しキ

リストご自身のもとに行かなければなりません。信仰の栄養供給を絶やさずにしていく

必要があります。そしてそれはロゴス(言葉)なるキリスト、神の御言葉こそ、わたし

たちの信仰の養いであり、永遠の生命に生きる食事なのです。わたしたちの信仰的生命

は、生命の源であるキリストと結びつき、その肢としてしっかりとつながることです。

このキリストとの結合は機械的事務的な関係ではなく、人格的な「交わり」です。キリ

ストとの生き生きとした心の交流と通い合いの関係です。キリストに対する深い信頼と

愛を覚えて、この方の声に聞き従い、この方に仕えます。その交わりの確かさをしっか

りと知り、保証するもの、それが聖餐です。この交わりは、キリストによって、この方

に結びつく他の肢体との交わりへと至らせます。わたしたちは聖餐によって、キリスト

と交わりを持つだけではなく、兄弟との交わりをも持つのです。「交わり」とは「分ち

合い」です。わたしたちはキリストを食することで、キリストご自身と交わると共に、

それを共に分ち合うことで、他のキリストの肢体とも交わりを持つことにもなるので

す。