第13講 罪の赦しと新生を確信させる洗礼

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第13講:罪の赦しと新生を確信させる洗礼


あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きる

ことを、決心し約束しますか。


「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりまし

た。それは・・・わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章4節)


1.罪の赦しと新しい生命を確証する洗礼

 前回学んだ、「古い人に死に、新しい人に生きる」ことを象徴するのが、洗礼でし

た。洗礼については、この講座の一番最初に考えていきました。主イエスを自分たちが

十字架につけて、殺してしまったことを悔やみ、心を刺された人々に、ペトロは、「悔

い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していた

だきなさい」と語りかけていきました(使徒2章38節)。「悔い改める」、つまり神へ

と立ち帰ることを決心し、生活を神へと転換していった人は、罪の赦しと主イエスを信

じる祈りをささげると共に、これからは主イエスにあって新しい人とされ、生まれ変わ

らせられたことをはっきりと示すために、洗礼を受けることが求められています。洗礼

が意味し、約束することは、「罪の赦し」と「新しい生命」でした。「イエス・キリス

トの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使徒2章38節)とあるよう

に、第一にそれは「罪の赦し」です。水が体の汚れを洗い落すように、「わたしの魂の

汚れ、すなわちわたしの全ての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただけ

る」ということを表わします(『ハイデルベルク信仰問答』69)。「罪の赦しは一種の

洗いであって、あたかも体の不潔が水で洗い清められるように、我々の魂がこれによっ

てその汚れから潔められるのであります」(『ジュネーブ教会信仰問答』325)。洗礼

とは、水が注がれることで象徴されるように、「罪と汚れの洗い」です。身体の汚れを

水で洗い流すように、罪の汚れが洗い流され、潔くされたことを意味します。そしてそ

れによって、聖なる「キリストと接ぎ木されること、再生、罪の赦し、イエス・キリス

トによって自分を神にささげて新しい命に歩くこと」をしるしづけられ、それが確かな

こととして印証されるのです(『ウェストミンスター信仰告白』28章)。キリストの犠

牲とその恵みを思い起こし、確信させるために洗礼が指し示すことは、「わたしの魂の

汚れ、すなわちわたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただ

けるということ」、つまり「罪の赦し」の約束でした。


 第二は「新しい生命」です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、そ

の死にあずかるものとなりました。それはわたしたちも新しい命に生きるため」です

(ローマ6章4節)。洗礼と共に、古い罪の自分はキリストと共に死に、今はキリスト

と共によみがえった新しい自分が生きるものとされました。「わたしたちの古い自分が

キリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配されたからだが滅ぼされ、もはや罪

の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じ

ます。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結

ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ローマ6章6~11節)。こうして

洗礼は、わたしたちの罪が、キリストによって全く洗い流され、潔められたことだけで

はなくて、さらにはわたしたちが罪に死に、キリストの命によみがえらせられた者とし

て、新しく生まれたことを意味し、それをわたしたちに信じさせるものでした。わたし

たちは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」のであり(ローマ6章3

節)、洗礼はわたしたちをキリストご自身へと結びつけ、キリストにある恵みの全てが

わたしたちにもたらされることを表わします。洗礼は「新たに造りかえる洗い」(テト

ス3章5節)とも呼ばれます。そうしてわたしたちは、「次第次第に罪に死に、いっそ

う敬虔で非の打ちどころのない生涯を歩む」者へと召され、招かれているのです(『ハ

イデルベルク信仰問答』70)。


2.イエス・キリストの血と聖霊のみが、すべての罪から清めてくださる

 洗礼は「罪と汚れの洗い」と言われ、罪の汚れが洗い流され、潔くされたことを意味

し、しかもそれが確かで確実に為されたことを信じることができるように与えられたも

のでした。しかしそのことは、どこまでも「信仰」によって起こされる霊的な出来事で

あり、聖霊の御業です。外面的な儀式がそれを自動的にもたらすわけではありません。

それはただ「キリストの血と聖霊」によってのみです。『ハイデルベルク信仰問答』で

は、「それでは外的な水の洗いは、罪の洗い清めそのものではないのですか」と問い、

「いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清め

てくださるのです」と答えた後(問72)、「それではなぜ聖霊は洗礼を『新たに造りか

える洗い』や『罪の洗い清め』と呼んでおられるのですか」と再び問うて、「ちょうど

体の汚れが水によって除き去られるように、わたしたちの罪が、キリストの血と霊とに

よって除き去られるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるので

す。そればかりか、わたしたちが現実の水で洗われるように、わたしたちの罪から霊的

に洗われることもまた、現実であるということを、神はこの神聖な担保としるしとを通

して、わたしたちに確信させようとしておられるのです」と答えます(問73)。


 「キリストの血」とは、あのむごたらしい十字架上の死であり、そこで御自身の命を

差し出されたことでした。それはキリストの命そのものです。そしてこのキリストの命

がわたしたちの罪を贖うのです。それは「契約」が結ばれたということでした。「契

約」は、血を流すことで締結され、確証されました。「新約」とは「新しい契約」のこ

とで、キリストの血によって発効することになった「新しい契約」のことです。わたし

たちがキリストの血によって贖われ、その血を注がれたとは、キリストによって神との

この契約に入ったということでした。それを示すのが洗礼なのです。だから洗礼とは礼

典であり、「そのとき父と子と聖霊の御名によって水で洗うことが、わたしたちがキリ

ストに接ぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになると約束すること

を、表わし証印するのです」。


3.キリストの十字架の死によるわたしたちの古き人の死

 キリストの十字架とその犠牲の死によって、「わたしたちの古い自分が、この方と共

に十字架につけられ、死んで、葬られる」ことにもなりました。それによって、罪の奴

隷であった古き自我が死に、葬られ、もはや自分を支配することなく、キリストにある

新しい命に生きる者とされたのです。肉体の死以前に、わたしたちは既にキリストに

あって霊的に死んだのであり、「生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわ

たしのうちに生きておられる」というようにされたのです(ガラテヤ2章20節)。そし

てこの事柄を表わすのが洗礼でした。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬ら

れ、その死にあずかるものとなりました。わたしたちも新しい命に生きるためなので

す。わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると

信じます。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエス

に結ばれて、神に対して生きていると考えなさい」(ローマ6章4、8、11節)。それ

はわたしたちの「罪に対する死」と、「神のために生きる生」を表わしています。「古

き自分の死」と「神にある新しい生」です。なぜ「古い自分」が死ななければならない

のでしょうか。それは「古い自分」が「罪に支配された体」「罪の奴隷」「体の欲望に

従う不義の道具」だからです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけ

られたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため」であり、

こうして「自分は罪に対して死」に、「罪から解放」されたのでした。「それによっ

て、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、かえってわたしたちは、

自分自身を感謝のいけにえとして、この方へと献げるようになる」ためでした(『ハイ

デルベルク信仰問答』43)。


4.聖礼典とは、神の恵みの目に見えるしるし

 教会の礼拝の中では、教会に入会するものとして「洗礼」がなされ、洗礼を授けられ

て教会員(信仰者)とされた者の信仰が養われるために「聖餐」がなされます。この

「洗礼」と「聖餐」のことを、「聖礼典」と言います。この聖礼典とは、福音の約束を

よりよくわたしたちが理解して、それを心に刻みつけるために、神が定められた目に見

える聖なるしるしのことです。そこで与えられる約束とは、十字架の上で成就されたキ

リストの唯一の犠牲のゆえに、神の恵みによって「罪の赦し」と「永遠の命」とがわた

したちに注がれるということです。礼拝の中で朗読され、説き明かされる「御言葉」

と、この「聖礼典」の二つによって、わたしたちの信仰は、わたしたちの祝福の唯一の

土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へと向けられていくのです。聖霊は、御

言葉を通して、わたしたちに働きかけられるのであり、わたしたちを救いに至らせる

「まことの信仰」は、福音の説教によって起こされます。「信仰は聞くことにより、し

かもキリストの言葉を聞くことによって始まる」とあるとおりです(ローマ10章17

節)。しかしわたしたちは弱いです。御言葉とその解き明かしである説教だけで養われ

るはずなのですが、そこにある約束をわたしたちは時々見失い、受け取ることができな

くなることがあります。神はそのようなわたしたちの弱さのために、「外的支え」を与

えてくださいました。それは御言葉に代わるものではなく、どこまでも御言葉に従属

し、そこで語られる約束に根拠づけられるものですが、同時にその約束を指し示し、感

覚的にも理解させて、心とからだとして生きる人間としての本性全体で受け止めること

ができるための「見える御言葉」として与えられたものでした。


 ですから、「礼典が救いの有効な手段となるのは、礼典そのものや礼典執行者の中に

あるどのような力によるのでもありません。ただキリストが祝福してくださることと、

信仰によって礼典を受ける人々にキリストの御霊が働いてくださることによるので

す」。つまり聖礼典とは、「信仰のつっかえ棒」です。それがあれがぐらぐらしたり倒

れたりしないで、しっかり支えてもらえるもの、わたしたちの弱い信仰を支えるために

与えらたものであって、それ自体が効力や意味を持つものではありません。礼典にあず

かりさえすれば、そこにある魔術的な効力が働いて、あずかった者に自動的に神の祝福

にあずからせると考えてはならないのです。ですからそこではあずかる側の「信仰」が

要求されます。この全体に、キリストの祝福が限りなく与えられていることを深く覚

え、それを信じるべきです。キリストの祝福があればこそ、そしてそれをわたしたちに

もたらす聖霊の働きあればこそ、礼典はわたしたちにとっての意味を持つからです。だ

から聖礼典は、「目に見える聖なるしるしまた刻印」といわれます。なぜならそれは、

「その執行を通して福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、刻印」させるものだ

からです。だから礼典とは、「キリストが制定されたきよい規定です。そこでは、キリ

ストと新しい契約の祝福とが、感覚的なしるしによって信者たちに示され、証印され、

当てはめられるのです」そこではっきりと目に見、耳で聞き、口で味わい、手で触れ、

臭いでかぐことは、「十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が恵み

によって罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる」という福音の約束で

す。そしてわたしたちが「洗礼」と「聖餐」を通してしっかりと覚えるのは、この神の

約束です。つまりそれは「十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲に、わたしたちの

祝福全体がかかっている」ということです。だからそこでわたしたちは、なによりも

しっかりとキリストの十字架を見上げ、「わたしたちの信仰をわたしたちの祝福の唯一

の土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へと向け」ていくのです。