第11講 イエス・キリストを救い主として信じ、新しく生まれ変わる

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第11講:イエス・キリストを救い主として信じ、新しく生まれ変わる


あなたは、主イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのため

に、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼みます

か。


「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不

義からわたしたちを清めてくださいます」           1ヨハネ1章9節


1.新しく生まれ変わることの必要

 主イエスに近づいた人の一人に、ニコデモという人がいました。ニコデモは、ファリ

サイ派という、律法に厳格なユダヤ教の宗派の一員で、最高法院の議員でした。このユ

ダヤ人のトップエリートとしての地位と名誉と財産を得るために、彼はこれまでの人生

を費やしてきたと言ってよいと思います。しかしそれにもかかわらず、彼は良心的で誠

実な人間でもありました。これほどの高潔な人士が、主イエスの許に来たのは、同じよ

うに主イエスの教えを請うた若い金持ちの議員と同様、「何をすれば永遠の命を受け継

ぐことができるか」を尋ねたかったからでした(ルカ18章18節)。彼も律法のすべてを

小さいときから守り行い(同21節)、なお「善い」ことについて求めるまじめで誠実な

人物で、享楽に走ることなく、ひたすら信仰の道を励んで生きた優等生でした。しかし

なお不安がありました。まだ足りないことがあるのではないか。そこで彼は「完全」を

期して、主イエスの許にひざまずいたのです。ニコデモも同じでした。もし永遠の命を

得、神の国に入る人がどのような人かと問われたら、ニコデモはその第一にあげられる

ような人物でした。そしてニコデモは、その信仰と誠実な人柄のゆえに、今や最高の地

位と名誉を獲得していたのです。しかしそのニコデモに、主イエスは単刀直入に本題に

入って語りかけていきました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはで

きない」と。新しく生まれる、つまりもう一度新しくやり直さなければ、天国には入れ

ないと言われたのです。


 これはニコデモが期待した答えとはまったく違っていました。彼が求めた答えは、も

し足りないとすれば、こういう戒めだろうという教えでした。今の自分にこれをプラ

ス・アルファーすればよいと、「今の自分」の延長で自分の救いを考えていたニコデモ

に、主は、今のあなたではまったく駄目だと言われたのです。もう一度やり直す必要が

あると。これはニコデモにすれば聞き捨てならないことでした。これまで一生懸命に努

力してきたのです。頑張ってきたのです。熱心に励んできたのです。ところが主は、ニ

コデモのこれまでの律法への努力も信仰の熱心も、みな無意味で、救いには役に立たな

いと、あっさり切り捨ててしまわれたのです。律法と信仰への忠実さだけではありませ

ん。彼がこれまで築いてきた地位と名誉があります。ファリサイ派で議員であるとは、

ファリサイ派のトップエリートであることを意味します。そこに行き着くまでニコデモ

はどれほど努力し、労苦したことでしょうか。やっとつかみ取ったのが今の地位であり

名誉でした。しかし主は彼に、もう一度最初からやり直さなければ駄目だ、新しく出発

しなければ無駄だと言われた、あなたが今持っているものはあなたを救うことはできな

い、それがあなたを天国に入れるわけではないと言われたのでした。そして、「人は、

新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というのが主の答えでした。こ

の「新たに、新しく」とは、「上から」とか「もう一度」とも訳せる言葉です。ニコデ

モが「下から」救いを得ようとしたのに対して、主は「上から」救いが来ると教えられ

ました。下から一生懸命に積み上げ、功徳やら善行やらを積み上げていって救われる、

人間の努力や熱心によって救われるというのではなくて、上から、神から救われる、神

から一方的に捕らえられ、選びだされ、導かれて救われていくというのです。「憐れみ

豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死

んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われるのは恵みによる

のです-キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいま

した。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自

らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2

章4~9節)。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、

キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいま

した。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためで

す。・・・イエスを信じる者を義となさるためです。・・・人が義とされるのは律法の

行いによるのではなく、信仰による」のです(ローマ3章23~28節)。そしてこのこと

は、聖霊、神の霊の働きによることなのでした。


 同じことがわたしたちにも問われています。聖書が語る信仰は、「木に竹を接ぐ」よ

うなものでなく、古い自分を捨てて、新しい自分となることを求めます。今の自分に何

かをプラスアルファーすることでも、今の自分を少しワンランクアップすることでもな

く、今の自分が新しくされることです。聖書では、この生まれ変わること、新しくされ

ることが繰り返し語られています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新し

く創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5

章17節)。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとし

た希望を与え・・・てくださいました」(1ペトロ1章3~4節、23節)。「だから、

以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心

の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づく正

しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4章22~24節、コロサイ

3章9~10節)。それは「水と霊」によるとあります(5節)。そのことを表したのが

洗礼でした。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみに

よって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれ

させ、新たに造りかえる洗い(洗礼)を通して実現したのです」(テトス3章5節)。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりまし

た。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わた

したちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章4節)。そしてこのことは、旧

約によって預言されてきたものでした。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかける

とき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から

清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたし

はお前たちの体から石の心(頑なな心)を取り除き、肉の心(柔らかい素直で従順な

心)を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟(律法=愛)に

従って歩ませ、わたしの裁き(公正と真実)を守り行わせる」(エゼキエル36章25~27

節)。これは、表面的、外面的な変化ではなくて、全面的、本質的な更新なのです。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。この新しい生まれ変

わりが自分にも起こされることを、ぜひ求めていってください。


2.キリストを受け入れ、信じる

 これまでわたしたちは、キリストが「わたしたちの罪のために死んでくださり」(1

コリント15章3、4節)、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って

くださいました」ことを学んできました(1ペトロ2章24節)。こうしてイエス・キリ

ストは、わたしたちの「罪からの救い主」となってくださいました。このキリストの

「救い」を手に入れて、新しく生まれ変わるには、どうしたらよいでしょうか。


 a.悔い改めて、神に立ち帰ることを決心する

 聖書は、「神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこに

いる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられ」(使徒17章30節)、「だから、自分

の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(同3章19節)と勧めます。

ここでいう「悔い改める」とは、涙ながらに悔悛するとか、ざんげするといったことで

はなくて、「神に立ち帰る」ことです。これまでは神に背を向けて生き、滅びに向かっ

て真っ直ぐに歩きつづけていました。それを「回れ右」して、今度は神に向かって生き

ていくのです。そうして「心を変え、生き方を変える」ことです。単に改心するのでは

なく、「回心」するのです。それはこれまでの自己中心な生き方をやめて、神を中心に

生きていくということです。そして自分の考えで生きていくのではなく、神の御心に

従って生きていこうとすることです。そのために与えられたのが聖書であり、これから

は、「御言葉どおりに道を保つ」ように生きることを、決心するのです(詩編119編9

節)。


 b.自分の罪を告白し、罪の赦しを求める

 次に自分の罪を告白し、神からの罪の赦しを心から求めることです。聖書は「自分の

罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわ

たしたちを清めてくださいます」と約束しています(1ヨハネ1章9節)。わたしたち

は、自分がこれまで犯してきた罪と、罪の人生そのものを悲しみ、憎んで、それと決別

すべきです。そしてこの罪のために、キリストが身代わりとなって死んでくださったこ

とを信じ、十字架によって提供される神の罪の赦しを信じるのです。キリストは「ご自

身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げ」てくださいました(ヘ

ブライ書9章12節)。


 c.イエス・キリストを、自分の罪からの救い主として信じ、受け入れる

 そしてこのイエス・キリストを、自分のための罪からの救い主として信じ、受け入れ

ることです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使

徒16章31節)。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中か

ら復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義

とされ、口で公に言い表して救われるのです」とあります(ローマ10章9、10節)。


3.キリストの招きに応える

 主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ま

せてあげよう」(マタイ11章28節)と招いておられます。また「わたしは戸口に立っ

て、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に

入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」とも言っ

ておられます(黙示録3章20節)。これまで何度も主イエスは、あなたの心の戸をたた

いてこられました。「わたしをあなたの心に迎え入れてください」と。なぜならわたし

たちの心の戸には、外に「取って」がなく、内側からしか開けることができないからで

す。そしてキリストは、決して外からむりやり戸をこじあけたりすることはされないか

らです。今も主はあなたの心の戸をたたきつづけておられます。「今や、恵みの時、今

こそ、救いの日」(2コリント6章2節)と言われる今日、このキリストの招きに応え

て、この方を心の王座に迎え入れてください。主は、「自分を受け入れた人々、その名

を信じた人々には神の子となる資格を与え」てくださいます(ヨハネ1章12節)。「御

子を信じる者は裁かれない。御子を信じる人は永遠の命を得る」とも約束されています

(同3章18、36節)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独

り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と約束されています

(同3章16節)。あなたもこの約束を信じて、今すぐ主イエスを自分の救い主として心

に受け入れ、信じてください。