第10講 神の御子の贖いによる「罪からの救い」

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第10講:神の御子の贖いによる「罪からの救い」


あなたは、主イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのため

に、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼みます

か。


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人

も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。


1.わたしを救うのはイエス・キリストだけ

 これまでは、罪と罪がもたらした悲惨な現実について考えていきました。この「罪か

らの救い」はどこから来るのかということを、これからは考えていきたいと思います。

愛である神は、聖なる神として罪を憎まれ、また義なる神として、それを正しく裁き、

罪を罰せられる方でもありました。「神の義」は、罪の裁きを要求し、それは「完全な

償い」によってしか満たすことができないものでもありました。しかしわたしたちは自

分自身で自分の罪の償いを果たすことができないばかりか、むしろ「日ごとにその負債

を増し加えています」。罪の赦し、罪の清算には、「罪の償い」が必要ですが、その償

いは自分自身では払いきれません。それではどうしたらよいのでしょうか。そこでわた

したちには、イエス・キリストが必要となるのです。キリストだけが、わたしの罪の償

いを果たすことができる、わたしを罪とその悲惨さから救うことができる唯一の方だか

らです。聖書は、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与

えられていない」(使徒4章12節)、「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・

イエスただおひとり」(1テモテ2章4節)だと語ります。わたしたちを、罪の束縛と

現実から救いだすことができるのは、そのためにこの地上においでくださったイエス・

キリストだけで、それ以外のところでこの救いを求めても、得ることはできません。だ

からわたしたちは、このキリストを信じる必要があるのです。


 そもそもイエスという名は、わたしたちの救い主であるゆえにそう呼ばれるものでし

た。「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

(マタイ1章21節)。「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれた」主イエスとは、

わたしたちの「罪からの救い主」としておいでくださった方でした。「この大祭司は、

わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点にお

いて、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4章15節)。「それでイ

エスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、

すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練

を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるの

です」(ヘブライ2章17、18節)。こうして聖なる神の子が、わたしたちと同じ肉体を

取ってくださいました。それにより、この方は死すべき肉体を身に引き受け、肉体をも

つ苦しみと悩み、その弱さも危うさもみな知りつくしたお方として、わたしたちの傍ら

に共に立ってくださるのです。この肉体をもって犯すわたしたちの罪の諸々の悩みを知

るものとして、わたしたちの兄弟となってくださったのです。それは、わたしたちの良

き理解者として良き兄弟となられたということでした。主イエスが人となられたのは、

あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためであり、そのために主は母の胎に宿るところか

らわたしたちと同じになってくださり、それによって罪をもってはらまれたわたしたち

の罪の人生を、その初めから「やり直して」下さり、それによって肉をもって辿る人生

のあらゆる苦しみと試練とを身をもって味わい尽くしてくださったのでした。しかしそ

れは、なによりもわたしたち人間の罪を贖うためでした。神の前に罪を犯したのは人間

です。人間が自分の罪を償わなければなりません。その人間の罪を贖うために、神の子

が人間となり、その罪の一切をご自身が引き受けることによってわたしたちを罪から救

い出してくださったのです。主イエスの生涯は、まさに苦しみと十字架と死とに要約さ

れます。苦しみ、十字架にかけられ、死ぬためにこの地上にお生まれくださった方こ

そ、主イエスでした。そして主は、苦しみの道を歩み抜かれることにおいて、全ての人

の救い主となられたのです。


2.贖い(身代わりの代償)による罪の償い

 今から三十年数年前の1970年3月、「よど号」と名付けられた日本航空の旅客機がハ

イジャックされた事件がありました。犯人は乗員・乗客を乗せたまま北朝鮮に行くこと

を要求しますが、当時の運輸次官が乗客の代わりになって、飛行機に乗り込みました。

幸い運輸次官も乗務員も無事に日本に帰ってくることができたわけですが、そのとき運

輸次官が乗客の身代わりとなって北朝鮮に行きました。彼の身代わりによって、乗客が

助かったわけです。そのように、主イエスが十字架にかけられて処刑されたのは、実は

わたしたちの身代わりであったということです。それは、本来ならわたしたちが自分で

受けるべきであった自分の罪に対する裁きと刑罰を、主イエスがわたしたちの身代わり

となって受けてくださり、身代わりとなって死ぬことにより、わたしたちは救われたと

いうことです。このことを教会では、「贖(あがな)い」と言います。この「贖い」と

いう言葉は、もともとは、賠償金を支払うことで、人質を解放したり、奴隷を解放する

言葉に由来しました。わたしたちは罪の奴隷、死の奴隷、そして自己愛の奴隷となって

いましたが、その奴隷状態から解放するために、罪と死から解放されるための賠償金

を、神ご自身が支払ってくださった、そのことによってわたしたちは、奴隷ではなく

なったということです。この賠償金を支払い、償いを果たすことによって、そこから自

由にされることを、「贖い」というのです。


 ここに自分の犯した犯罪のために、刑罰として牢に入れられている人がいるとしま

す。この人は、罪の刑罰を果たし終えるまでは、この牢から出してもらえません。とこ

ろが自分の力では、その償いを果たすことができません。しかしそれを哀れに思った奇

特な人が、その人の身代わりとなって牢に入ってくれ、その人が果たすべき罪の刑罰を

代わりに引き受けてくれたとすれが、そのことによって、牢に入っていた人は釈放され

るのです。それがわたしたちに起こされたのでした。主イエスが、十字架で処刑された

のはそのためでした。それは罪の刑罰を身代わりに引き受けることで、それを取り除く

ということでした。主イエスは、十字架の上で、本来ならわたしたち自身が受けるべ

き、自分の罪の対する刑罰を、代わりに引き受けてくださったことで、わたしたちに対

する刑罰は終わったというのです。そのために神は、罪に生き、罪に死ぬわたしたちの

ために、ご自分の独り子を送り、その独り子にわたしたちの罪をすべて背負わせて処罰

し、処刑することによって、わたしたちの罪を取り除くことをしてくださいました。わ

たしたちの罪が本当に取り除かれるためには、これ以外の方法がなかったからでした。

そしてこの神の独り子の犠牲の死によって、わたしたちの罪の償いを果し、罪を取り除

くことにしてくださったのでした。その神の独り子こそ、わたしたちの救い主イエス・

キリストなのです。聖書は、キリストの十字架が、わたしたちの罪のためのものである

ことを証言します。「彼(苦難の僕であるキリスト)が刺し貫かれたのは、わたしたち

の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。わたし

たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53章5、6節)。また「わたした

ちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ロー

マ5章8節、1コリント15章3節)のであり、キリストは「多くの人の身代金として自

分の命を献げるために来た」(マルコ10章45節、1テモテ2章6節、1ヨハネ2章2

節)のでした。「そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくだ

さいました。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペト

ロ2章24節)。


3.十字架による刑罰の代償

 このように、キリストの十字架による死とは、わたしたちすべての罪を背負って、わ

たしたち自身の身代わりとして、罪に対する刑罰を代わりに引き受け、それによってわ

たしたちの罪を取り除き、精算して、償いを果たしてくださったということでした。わ

たしたちがこれまで犯してきた罪、今犯している罪、そしてこれから犯すであろう罪を

含めて、わたしたちの一切の罪を御自身に引き受けて、わたしたちの身代わりとしてキ

リストが代わりに死んでくださり、それによってわたしたちに対する罪の要求も死の支

配も、その結果である悲惨さも、すべてはあの十字架の上で終わってしまったのです。

こうして身代わりによる償い、つまり「贖い」をキリストがわたしたちのために果たし

てくださった、そうしてわたしたちの「罪に対する神の刑罰を背負うこと」で、キリス

トはわたしたちを救ってくださったのでした。それは、「罪を取り除くために御子を罪

深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」ことによる

のでした(ローマ8章3節)。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのため

に罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」

(2コリント5章21節)。


 これらの聖書の言葉の背後にあるのが、旧約聖書時代に行われた動物犠牲の「身代わ

りの死」による「罪の贖い」でした。「贖罪日」(23章27節)と言われる日に、イスラ

エルすべての罪と汚れとが贖われ、赦されるための贖罪の儀式が行われました。この日

は大祭司だけが、年に一度だけ、垂れ幕の奥の至聖所に入ってこの儀式を果たし、罪の

贖いを果たすのです。それは第七の月の十日、「主の御前においてあなたたちの罪の贖

いの儀式を行う日」でした。この儀式に先立って大祭司は、犠牲となる動物を用意する

と共に、まず着替え、沐浴します。そして大祭司は、まず自分自身の罪を執り成し贖っ

ていただき(レビ記16章6、11節)、それから民の罪の贖いのための犠牲を捧げました

(同7、15節)。それは「イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背き」のための

「贖いの儀式」でした(同16節)。その後、血の振りかけによる聖別を行った後に、こ

の儀式のクライマックスを迎えます。それは、「アザゼルのための雄山羊」を荒れ野に

放逐するというものでした。この山羊を荒れ野に放逐するにあたって、その前に大祭司

は「この生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背

きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移」すのです(同20、21節)。そして

この「雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って」追いやられるのでした(同22節)。イ

スラエルの一切の罪とその罪責を背負って、山羊が追放されていくのです。主イエス

は、「ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけ

にえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、ご自身を献げ

ることによって、成し遂げられたからです」(同7章27節)。そして「この世のもので

はない、さらに大きく、さらに完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらない

で、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」のでし

た(同9章11、12節)。「キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のもの

でない血を携えて聖所に入るように、度々ご自身をお献げになるためではありませ

ん。・・・世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り去るため

に、現れてくださいました」(同9章25、26節)。このただ一度かぎりの完全な主の犠

牲のゆえに、わたしたちは罪を赦される者とされたのでした。そしてこの一度かぎりの

主の犠牲こそ、ゴルゴダの丘の十字架なのでした。


 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い

出してくださいました」(ガラテヤ3章13節)。そしてキリストは「聖書に書いてあると

おりわたしたちの罪のために死んで」くださいました(1コリント15章3、4節)。そ

して「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わた

したちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになっ

た傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2章24節)のでした。だから聖

書は、「この方こそ、わたしたちの罪、いやわたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪

を償ういけにえ」(1ヨハネ2章2節)だと告白するのです。主イエスは、わたしたちの

身代わりとして、そのご生涯と、特に十字架の死において、わたしたちの罪に対する神

の怒りを受けてくださったのでした。それによって、わたしたちは自分の罪に対する神

の厳しい裁きを受けなくてすむようにされたのでした。そして神は、この独り子を信じ

ることで、罪の赦しを与えることを約束してくださったのでした。「神は、その独り子

をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠

の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。ですからあなたも、ぜひ、あなたの罪の

救い主である主イエスを信じてください。