第12講 古い人に死に、新しい人に生きる

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第12講:古い人に死に、新しい人に生きる


あなたは、主イエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのため

に、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼みます

か。


「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ

去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(1コリント5章17節、口語訳)。


1.「悔い改め」への呼びかけ

 ペトロが、主イエスこそ復活されたメシアであることを力強く証しすると、それを聞

いていた人々は、「大いに心を打たれ」て、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよい

のですか」と問い尋ねました(使徒2章37節)。それにペトロは応えて、人々に悔い改

めを迫ります。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受

け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(同38

節)。イエス・キリストの福音は、単なる一般論として聞き流されたり、聞き捨てられ

るものではなく、一人一人に悔い改めを迫るものとなります。それも、「みんなの罪」

とか「人類一般の罪」ということではなくて、一人一人が犯した「自分の罪」として、

自分自身の悔い改めを迫るものでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福

音を信じなさい」(マルコ1章15節)という、主イエスの呼びかけから福音宣教は開始

されました。それは神が、「このような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、

今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられる」からです(使徒17章30

節)。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(同3

章19節)。このように「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方

を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」(同5章31節)。そし

て、「ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そし

て異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするように

と伝えました」(同26章20節)。このように、主イエスの福音を聞いた者には、悔い改

め、すなわち神への立ち帰りと罪の告白が求められています。


 「悔い改める」とはまず、①「神に立ち帰る決心をする」ことでした。神に背を向け

て生きていた罪の道から、「回れ右」して、今度は神に向かって生きていくことです。

それは、これまでの自分を中心とした生き方をやめて、神を中心に生きていくというこ

とです。そして自分の思いや考えで生きていくのではなく、神の御心に従って生きてい

こうとすることです。次に、②「自分の罪を告白し、神からの罪の赦しを心から求め

る」ことでした。自分がこれまで犯してきた罪と、罪の人生そのものを悲しみ、憎ん

で、それと決別し、この罪のために、キリストが身代わりとなって死んでくださったこ

とを信じて、十字架によって提供される神の罪の赦しを信じることです。最期に、③

「イエス・キリストを、自分のための罪からの救い主として信じ、受け入れること」で

した。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活さ

せられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、

口で公に言い表して救われるのです」との約束を受け入れて、それを信じ、その信仰に

固く立つことです。あなたは信仰に入る前に、きちんとこの「悔い改め」をしているで

しょうか。はっきりと、これまでの罪の人生と決別して、神へと立ち帰る決心をし、罪

を告白して、これからは神に向かって生きていく歩みを始められたでしょうか。「悔い

改め」についてあいまいな人は、いつまでも罪の赦しの確信も、救いの確信も、信仰の

喜びの得ることができないまま、ぐずぐずと罪の生活の中に埋没してしまうのです。


2.キリストに結ばれた新しい人としての生き方

 「悔い改め」とは神の賜物であり、神がわたしたちの内に起こしてくださるもので

す。しかし同時に、これはわたしたちが果たすべき務めとして呼びかけられてもいま

す。「それによって罪人は、自分の罪を本当に自覚し、キリストにある神の憐れみを理

解して、自分の罪を嘆き憎みつつ、罪から神へと立ち帰り、新しい服従をはっきりと目

指し努力するようになる」ものだからです(『ウェストミンスター小教理問答』87)。

この「命に至る悔い改め」は、同じく神からの賜物である「救いに至る信仰」と密接不

可分な関係にあり、真実に神によって召され、生まれ変わった者は、その魂が死から生

命へとよみがえらせられ、まったく新しい活動を始めるに至ります。それが「信仰と悔

い改め」であって、それによって断固として古い自分と生き方を捨て去り、それと決別

して、新しい自分とされ、新しい生き方へと招かれていきます。そこでは、これまでは

何とも思わなかった罪が、罪として自覚され(ヨハネ16章7~11節)、心をさいなまさ

れ、裁きへの恐れと神の自分に対する憐れみを自覚して、「自分の罪を悲しみ、憎ん

で、全くそれを捨てて神に立ち帰り、神の戒めのすべての道において、神と共に歩むよ

うに目指し努力するようになる」のです。


 そしてそこから、「新しい人の復活」、すなわちキリストに結ばれた新しい生き方が

紡ぎ出されていくことになるのです。『ハイデルベルク信仰問答』では、神の恵みに対

する感謝、すなわち神にある新しい生き方は、「まことの悔い改め」すなわち「回心」

から起こされるとし、この「まことの悔い改めまたは回心」とは、「古い人の死滅と新

しい人の復活」の二つから成り立ち(問88)、「古い人の死滅」とは、「心から罪を嘆

き、またそれをますます憎み避けるようになる」(問89)こと、「新しい人の復活」と

は、「キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善い行いに、

心を打ち込んで生きる」(問90)ということだと語ります。ここでキリストにある新し

い生き方が、「復活」と言われている点に注意してください。パウロは、洗礼において

キリストの死にあずかったわたしたちは、「新しい命に生きる」ことになると語りまし

た(ローマ6章4、8、11節)。古い人が死滅し、新しい人として生きるようにされ

た、そのことを普通は「誕生」と考えないでしょうか。新しい人が誕生すると言った方

が、ここではふさわしいのではないかと考えられます。そもそもわたしたちが復活する

のは、もっと後のことで、終末の出来事ではないかと考えてしまいます。しかしここで

信仰問答は、「新しい人の誕生」ではなくて「新しい人の復活」とあえて言うのです。

そしてそのことによって、ここでの出来事をよりよく説明しようとするのです。ここで

は、罪に支配され肉欲に生きたかつての「古い人」が復活するというのではありませ

ん。「キリストと共に生き、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる」(ロー

マ6章8、11節)ということであり、新しい人として「復活する」のです。なぜならこ

れは、自分が本来そうであったはずの、本来の自分に戻るということだからです。「古

い人」が自分の本来の姿だったわけではなくて、本当はその前には、つまり堕落する前

は、神の御心にかなう自分だったはずでした。しかしそれを喪失してしまい、そこから

堕落してしまった、だからその本来の自分に戻される、その意味で「復活する」ので

す。かつてのわたしたちは、「自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠

の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美」していたのでした(問

6)。しかしそこから堕落し、本来の義と聖を喪失してしまった、それがかつての「古

い人」でした。しかしそこから、喪失してしまったものを回復し、本来の自分に回復さ

れる、だから「復活」と言われるのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は

新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのであ

る」(1コリント5章17節、口語訳)。


 こうしてわたしたちが救われたのは、「情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人

を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、

真理に基づいた正しく清い生活を送る」ためであり(エフェソ4章22~24節)、「古い

人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿(像)に倣う新しい人を身に着け、日々新た

にされて、真の知識に達する」ためでした(コロサイ3章9、10節)。そうして、わた

したちが皆、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿

(像)に造りかえられていく」ことです(2コリント3章18節)。そこでの目標は、

「キリストのかたち」に似せられていくということです。「キリストは、その血によっ

てわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと、生

まれ変わらせてもくださる」のであり(問86)、そこで「わたしたちが絶えず励み、神

に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目

標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされていく」のです

(問115)。そこでの目標であるキリストは、徹頭徹尾、父なる神に従順で、その御心

に服従された方でした。ですから、このキリストを目標とするわたしたちも、「キリス

トによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善い行いに、心を打ち込ん

で生きる」(問90)ということが、わたしたちの生きる道筋となっていくのです。それ

は一言で言えば、神に服従し、その御心に生きる人生ということです。それをいやいや

ではなくて、強制や義務でもなく、心から喜んで果たすことができるようになる、それ

が「新しい人」として言われていることなのです。神はエレミヤを通じて、「わたしの

律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と約束されましたが、そのために

神は聖霊を送ってくださる約束をもしてくださいました。「わたしは彼らに一つの心を

与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心(神に逆らう頑な

心)を除き、肉の心(神に従う従順な心)を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、

わたしの法(律法)を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わた

しは彼らの神となる」と(エゼキエル11章19、20節、36章26、27節)。こうして「御自

身の聖霊により・・・、この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわし

くなるように、整えてもくださる」のでした(問1)。


 そしてこの二つの出来事、すなわち「古い人の死滅」と「新しい人の復活」は、キリ

ストの十字架の犠牲に基づいて実現していくものでした。わたしたちは、「十字架上で

のキリストの犠牲と死」から、「この方の御力によって、わたしたちの古い自分が、こ

の方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる」のであり、また「それによって、肉

の邪悪な欲望が、もはやわたしたちを支配することなく、かえってわたしたちは、自分

自身を感謝のいけにえとして、この方へと献げるようになる」のです(問43)。それが

キリスト者として生きるということです。「それは、わたしもまた、この方の御名を告

白し、生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げる」ということです(問32)。そ

してこの出来事がわたしたちの上に実現したことを表わすのが、わたしたちが授けられ

た「洗礼」なのでした。それは、「十字架上の犠牲において、わたしたちのために流さ

れたキリストの血のゆえに、恵みによって、神から罪の赦しを得る」ということと共

に、「聖霊によって新しくされ、キリストの一部として聖別される」ということで、

「わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩む」ようにされた

ということなのでした(問70)。「それともあなたがたは知らないのですか。キリス

ト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるため

に洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあ

ずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活さ

せられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。わたしたちは、キリス

トと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。このように、

あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対し

て生きているのだと考えなさい」(ローマ6章1~11節)。それは聖餐も同じです。聖

餐に招かれる人とは、「自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死

とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、より

いっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たち」だと

言われるのです(問81)。そしてこれらのために、わたしたちの内で働かれるのが聖霊

でした。わたしたちが信仰者として歩むことができるのは聖霊の働きによるのです。

「主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたした

ちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へ

と、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2

コリント3章17、18節)とあるとおりです。