第3講 「唯一の生ける神」を信じる

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第3講:「唯一の生ける神」を信じる


あなたは天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じますか。


1.ヤコブと共におられた神さま

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守

り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで決して見捨

てない」(創世記28章15節)


 聖書が教える「生けるまことの神」について、さらに考えていきましょう。最初にか

かげた聖書の言葉は、イスラエルの先祖となるヤコブという人が、まだ若かった時、自

分の犯した過ちの結果、着の身着のままで自分の家から逃亡しなければならなくなり、

逃げ落ちる途中で起きた出来事の中で、その旅の途中で聞いた神からの約束でした。突

然の旅立ちと、いやおうなしの長旅で疲れ果ててしまい、石を枕にしてこれから寝よう

としていた、まさにその夜に、これまで会ったことも、話したこともない、先祖の神が

語りかけてこられたのです。そこで聞いた神の約束が先の言葉でした。「わたしはあな

たと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ

帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。ここで、最

初に気づいていただきたいことは、実はこれまでも神はヤコブと共にいてくださり、

ずっと一緒におられたのですが、当のヤコブはそのことを知らず、またそれに気づいて

いなかったということです。「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場

所におられたのに、わたしは知らなかった。』そして、恐れおののいて言った。『ここ

は、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門

だ』」(16、17節)。「この場所」とは、もちろんここでヤコブがベテル(神の家)と

名付けた場所のことですが、神はここで初めてヤコブと出会い、ヤコブに語りかけたと

いうのではありません。今、これからはお前と一緒にいようと言われたのでもありませ

ん。「わたしはあなたと共にいる」とは、もうすでにこれまでもずっと一緒だったこと

が前提になっています。その上で、今も共におり、そしてこれからも一緒だと言われて

いるのです。


 こうして神は、これまでもずっとヤコブと共にいて、ヤコブを守り、導き、支えてこ

られたのでした。それにもかかわらずヤコブの方は、それに気がつかず、知ることもな

かったのです。ヤコブは、このベテルにおいて初めて神と出会い、神が自分と共におら

れたことを知りました。しかし神の方では、これまでもずっとヤコブと一緒だったので

す。そのことをヤコブは初めて知ったとき、初めて神と出会ったこの場所を、神がおら

れる場所、つまり神の家=ベテルと名付けたわけです。そしてそこは「天の門」、つま

り天国の入り口だとヤコブは考えました。というのは、そこで「先端が天まで達する階

段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして

いた」からでした。ここが神のおられる天国と地上の境目、接点で、まさにその場所か

ら、天国にいる天使たちが地上のあちらこちらへと派遣されていく出入り口のようなも

のと考えたのでした。


2.ヤコブを導き、守られる神

 このように、天国から地上につながる出入り口があり、そこから神がわたしたちに必

要な助けを与えておられるということ、そうして神はわたしたちと共にいてくださると

いうことは正しいのですが、しかしそれは、この場所まで来ないと神に出会えない、ベ

テルまで行かないと神は一緒ではないということではなくて、ベテルに行き着くこれま

でも神はヤコブとずっと一緒にいてくださっていたのでした。それにヤコブは気づか

ず、認めず、知ろうとしなかっただけでした。しかしそれは、神が一緒ではなかったと

いうことではありません。ヤコブが知ろうと知るまいと、認めようと認めまいと、神は

ヤコブと共にいてくださっていたのです。しかもここで、これからもずっと共にいてく

ださると約束してくださっているのです。ベテルという場所が天の門、天国の入り口

だったのではなくて、その入り口はこれまでヤコブがたどってきた道のすべてにおいて

開かれ続けてきたし、これからも、この入り口がヤコブの行く先々にずっとついていく

ということなのです。ヤコブがどこへ行こうと、どこをたどろうと、この天の門がずっ

とヤコブの後を追いかけて、いつでもどこでもその場所が天の門となり、天国の入り口

となって、そこからただちに神の助けと守りが与えられていき、すぐに御使いがやって

来て、ヤコブを救うと約束されたのでした。これまでも神がヤコブと共にいてくださっ

たということは、御使いが「上ったり下ったり」と言われていることに明らかです。も

しここで初めて神がヤコブの許に御使いを送ったのであれば、御使いは「下ったり上っ

たり」とならなければなりません。そうではなく「上ったり下ったり」とあるのは、も

うすでにヤコブの許に御使いが遣わされていたからで、その御使いが天に戻るものもい

れば、天から遣わされていくものもあるということなのです。


 しかもそこで神は、「立派なヤコブ」と共にいてくださり、これからも守ってくだ

さったというのではないのです。ヤコブがそれに値する「たいした人物」だから、神は

彼と共にいて、彼を守り、祝福してくださったということではありませんでした。むし

ろ逆で、ヤコブはこの神からの祝福や守りには値しない、どうしようもない人物でし

た。そもそもこの逃避行も、他の誰のせいでもない、自分の過ちの結果でした。そして

その結果を刈り取るべく、今逃げ落ちていこうとした、まさにそのところで、しかし神

はヤコブを見捨てることなく、共にいてくださると約束されたのです。罪を犯し、その

罪の結果をこれから先も刈り取っていく、その道筋において、神はヤコブを見捨てられ

ることなく、共にいて守ってくださるばかりか、祝福していってくださる、そして必ず

元の道に、元の家に、本来のヤコブのいるべき場所へと連れ戻していってやると約束し

てくださったのでした。そしてここで神がヤコブに約束されたこと、「見よ、わたしは

あなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に

連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」という約束

は、あなたにも約束されているのです。このように、あなたと共にいてくださる神と、

これからは共に生きていくようになっていってください。


 ここで「神を信じる」とは、どういうことかを考えましょう。それは一言で言うと、

ひとりぼっちで生きることをやめて、自分をおんぶし、だっこしてくださる「神と共に

生きる」ようになるということです。自分一人で問題を抱え込んで、悶々と悩む生き方

をやめて、悩みを神に任せて生きるようになり、そうして神と共に、神と一緒に生きる

ようになるということです。それは、自分で自分をどうにかしようとするのではなく

て、どうにもならない自分自身を、どうにかしてくださる神にお任せして生きていくと

いうことなのです。どうしてそうできるかというと、悩んでいる自分以上に苦しみなが

ら、その悩む自分を心配しつつ、背負っていてくださる方がいてくださるからなので

す。だから聖書では、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがた

のことを心にかけていてくださるからです」(1ペトロ5章7節)と勧めます。神がわ

たしたちのことを「心にかけていてくださる」とは、「神が心配してくださる」という

ことです。わたしが心配する以上に、すべてのことを知っておられる神がわたしのため

に、わたしの代りに心配していてくださっているのです。


3.ただ一人の(唯一の)神

 もし本当に神がおられるなら、それは「お一人」だけのはずです。そうでないと色々

な矛盾が起きて来るからです。ある店に泥棒が入り、店のご主人は大変困って、近くの

神社にお参りに行きました。一方、その店に入った泥棒も、捕まらないように、商売が

繁盛するようにと自分がいつも拝んでいる泥棒の神様にお願いし、盗んだお金で賽銭を

投げ入れました。それでははたしてどちらの願いが聞かれるのでしょうか。お店の主人

の神様でしょうか、それとも泥棒の神様でしょうか。日本は「八百万の神々」といっ

て、実に無数の神々がいるかのように考えられ、また拝まれています。そしてそれぞれ

が自分のご利益を宣伝して、信者をかき集めています。「こっちの水が甘いぞ」という

具合で、それぞれの神々が互いに出し抜き合って、信者を獲得しようと必死です。しか

しそれではたして真理や真実、正義は成り立つでしょうか。本当に神がおられるとした

ら神はお一人のはずです。アメリカの神、スペインの神、中国の神と、神がたくさんい

たら、一番力の強い神が真理で正義ということになります。戦争の大好きな神が一番で

あれば、武力こそ正義ということになり、暴力や腕力の強い人の言うことが真理になり

ます。それはおかしいのです。神が本当におられ、この世に真理や正義が成り立つに

は、まことの神はただお一人のはずだし、唯一の神でなければなりません。「わたしが

主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたし

のほかにはない」とは、まさにそのことを語っている御言葉なのです。


 聖書では、繰り返して「まことの神」はただお一人であり、「唯一の神」であると語

ります。神が「唯一」であるとは、数において一つ、一人というだけではなくて、ご自

身の中で統一し、一貫しておられるということでもあります。自己矛盾することがな

く、心変わりすることがない、昨日言ったことと今日言うこととが違うということがな

い御方だということです。人間は心変わりし、その熱心さも信仰も変化していきます

が、神はそうではありません。裏腹なところがなく、わたしたちに対する約束を誠実に

守りぬく御方なのです。永遠に一貫しておられる御方だから、心から信頼していくこと

ができる、それが神が唯一であるということなのです。多神教の神々は違います。互い

が互いを出し抜きあって、自分に対する信者を獲得し、一人でも多くかき集めようとし

ます。そしてそれぞれに自分のご利益ばかりを宣伝して信仰させようとする神々は、そ

れを信じる者たちをも歪めていきます。知らずして、自分の信じる神々を鏡として生き

るようになるからです。


 ご利益ばかりを宣伝して自分にばかり引き付けさせていく自己中心な神々を拝む人間

は、その神々に影響されて、心までひずんだ心になり、統一を失って人生がばらばらに

なっていきます。しかし唯一の神を信じ、この神を鏡として生きる者は、その神の統一

された人格と一貫した誠実な姿勢に深い感化を受け、自らの人生も一貫したものとなっ

ていきます。ですから唯一の神だけを信じ、統一され、一貫した唯一の神を、自分の

神、また人生の主として信じることを心からお勧めします。それだけが、自分の人生を

統一され、一貫したものとしていくことができるからです。永遠の神は、永遠の見通し

の中でわたしの人生を見ていてくださいます。そしてその永遠の確かさで、わたしの人

生を導いてもくださるのです。それは運命にもてあそばれる、見通しのきかない人生で

はなく、見通しを持たれた方の確かさと一貫性の中で歩んでいく、統一された人生なの

です。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与

える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救い

を得よ」。唯一の、まことの、生ける神だけが、わたしたちにこのよう呼びかけうる方

なのです。この方をこそ求め、信頼していきましょう。