第2講 「まことの神」を信じる

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第2講:「まことの神」を信じる


あなたは天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じますか。


1.神を信じるということ

「これは、人に神を求めさせるためであり、また彼らが捜し求めさえすれば、神を見

出すことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠

く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、

動き、存在する』と言っているとおりです。」        使徒言行録17章28節


 さてこの「信仰告白」の「わたしは~を信じる」ということで、真っ先にでてくるの

は「神を信じる」ということです。それでは「神を信じる」とはどういうことでしょ

う。それは端的に、「神に信頼する」「神だけを信頼して生きる」ということです。旧

約聖書がギリシャ語に翻訳されたとき、「信頼する」がしばしば「望みを持つ」と訳さ

れました。「神を信頼する」とは、「神に望みを持って生きる」ということです。神に

こそ望みをおいて生きる生き方、それが「神を信頼する、神を信じる」ということに他

なりません。「神を信じる」とは、「わたしは一人ではない。孤独ではない」というこ

との言い換えだとする神学者がいます。つまり「神を信じる」とは、「ひとりぼっちで

生きることをやめること、孤独に生きるのをやめるということです。なぜならわたした

ちは、もうひとりぼっちではないからです。ここで捜し求めさえすれば見出せる、「神

はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられない」とあるとおり、わたしたちは神

を求めます。尋ねます。そして出会い、その出会いの中で神を信頼し、信じるようにな

ります。しかしそこで忘れてはならないのは、わたしたちが神を見つけていくのではな

く、神の方ですでにわたしたちを見出してくださり、捜し求めてくださったからこそ、

わたしたちが神を見出しえたということです。わたしが発見して初めて存在するという

のではなく、わたしが認めようと認めまいと、事実神はおられるのです。おられるだけ

ではなく、その神の方からわたしたちを捜し求め、見出してくださった、そのことのゆ

えにわたしたちが神を見出し、信じるにいたるのです。「今は神を知っている。いや、

むしろ神から知られている」(ガラテヤ4章9節)とあるとおりです。聖書の神は

「有って有る者」(出エジプト3章14節)、その神の中にわたしたちは「生き、動き、

存在している」のです。その神がわたしたちに問いを投げかけ、その答えまで与えられ

る。神が答えてくださる形で、わたしたちに問いを投げかけてこられるのです。


 求道の方が一生懸命神を求め、神への問いかけをします。神はおられるのか、どのよ

うな方なのか、どうしたら出会えるのか、と。教会ではそういう問いに何とか答えよう

とし、答えて神へ、信仰へと導こうとします。しかしそもそもそのような問い、そして

答えが、すでに神の中で答えられている、いや先ず神がわたしたちに問いかけ、ご自身

の問いの中へと引き込んでしまわれるのです。その問いとは、かつて人間が神と共にあ

り、神の幸いと祝福の中で生きていながら、それを拒絶して罪を犯し、堕落して、神か

ら離れてしまったときに神が発した問いでした。「あなたはどこにいるのか」と。それ

は、今わたしたち自身がいる場が、本当に自分のいるべき場所なのかを問う問いであ

り、神がわたしたちを呼び求め、立ち帰ることを求めておられる問いなのです。神は、

神から遠く離れて生きているあなたに対しても、「あなたはどこにいるのか」とこれま

でずっと問い続けてこられたのでした。そうして出会った神を、わたしが信じるのでは

ない、むしろ神がわたしたちをご自身へと向かせ、神を信じる者へと、神を信頼する者

へと導いてくださった、だからわたしたちは今、神を信じるに至っているのです。わた

したちはこのようにして、神に包みこまれるようにして「生き、動き、存在」しつつ神

の御手の中で守られながら生きているのです。お遍路さんがその笠に「同行二人(どう

ぎょうににん)」と書くように、人生を神と二人連れで歩いていく、信仰とはこの「神

が共にいてくださる」という事実を受け入れ、それを望みとして生きていくことなので

す!


2.生けるまことの神

「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、

わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあ

なたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」    イザヤ46章3、4節


 a.わたしたちを背負う神

 「なにものの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と

いう、仏教の僧侶であった西行が伊勢神宮の外宮(内宮の外)で詠った句があります。

ここに、日本人の宗教観がみごとに示されています。つまり日本人にとって宗教という

のは、「何(誰)を信じるか」が問題なのではなくて、信じる自分自身の信心や熱心さ

が問題だということです。神社やお寺に何が祭られ、何を拝むかが大切なのではなく

て、自分がどれほど熱心に帰依しているか、信心しているかが大切で、その自分の信仰

が神通力となって神や仏を動かし、そこで祈願することをかなえてもらうというわけで

す。だからお百度を踏んだり、滝に打たれて修業したり、座禅を組んで修養したり、多

額の賽銭をしたりしますが、いずれも自分が神や仏に何をするかが大切と考えます。し

かしそこで自分が一体、何を拝み誰を信じているのかについては、とんと御無沙汰して

いるのです。「いわしの頭も信心」なのです。何であれ、信じている心が大切だと思う

からです。


 それに対して聖書は、「あなたは誰を神として信じているか」と問い、「信仰の対

象」が何であるかを求めます。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神は

ない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地の果てのすべての

人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ45章5、22節)。ですから聖書で

は、偶像礼拝といって、神でもない木や石で造られた像を拝み、それを神として信じる

ことの愚かさが語られます。あるきこりが山で木を切り、寒いのでその木で火を起こ

し、疲れたのでその火でパンを焼いて食べました。木が残っていたのでそれで自分の神

を造り、それを拝んで「お救いください、あなたはわたしの神」と祈りました(イザヤ

44章9~20節)。これがいわゆる世の宗教、つまり偶像の正体だと聖書は見抜きます。

それらにはわたしたちを救う力はありません。高額な壷、霊験あらたかなお守り、寺社

仏閣の祈願や御祓いなど何の意味も、力もないことを聖書は明らかにします。そういう

偶像は、動物や人間に背負われて、それらの重荷となるだけです。偶像とは、わたした

ちを助けるようで、実はわたしたちの重荷となるものにすぎません。そんなものにどれ

だけひれ伏しても、何の助けも救いも得ることはできません。「それを肩に担ぎ、背

負って行き、据え付ければそれ(偶像の神々)は立つが、そこから動くことはできな

い。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」のです(イザ

ヤ46章7節)。


 しかしまことの神は、そんな重荷にあえぐわたしたちを「背負い、担う神」だと言わ

れるのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。

同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこ

う。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と(イザヤ46

章3、4節)。「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中

も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」(申命

記1章31節)と請け合ってくださるのが、まことの神なのです。こうして聖書は、まこ

との神は「人間が作った」ものではなく、むしろその「人間を造られた」方であり、し

かもその人間に背負われて重荷となるのではなく、逆に神が人間を背負い、担ってこら

れたのだと主張するのです。


 子どもが小さいころ、よく家族で一緒にデパートやら近くの海やらへ出掛けました。

はじめは「早く、早く」とせかす子どもですが、帰りはたいてい疲れて眠りこんでしま

います。そして帰りはたいてい寝た子をだっこするかおんぶして帰るはめになります。

自分もひどく疲れているのに、そのうえ眠って重くなった子をだっこして帰る、つらい

ものでした。しかしまことの神は、わたしたちをこれまでそうしてきたし、今もそうし

ているし、これからもそうしてくださると約束してくださる神なのです。「父が子を背

負うように、あなたを背負ってくださった」と約束される神なのです。それに対して

偽りの神々、偶像は、わたしたちを救うことはできないし、背負うこともありません。

むしろわたしたちの「重荷」となり、わたしたちがそれを背負わされるはめになるもの

にすぎないのです。どれほど美しく、見事な出来栄えであったとしても、その見かけの

美しさがわたしたちを救うわけではなく、救うこともできません(イザヤ37章18~20

節、詩編115編4~8節)。それは木や石にすぎず、無力で哀れな人間に似せて造られ

た像、人間にかたどられたものにすぎないからです(イザヤ40章18~26節)。人間に似

せて造られた神とは、人間をご自身に似せて造られた神のパロディーです。人間が神に

似せて造られたのであって(創世記1章27節)、神が人間に似せて造られるのではあり

ません。にもかかわらず人間は、自分に似せた無力な神々を造り出し、それを神と誤解

し続けているのです。「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる

神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると

思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちに

とっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの

神へ帰って行くのです」(1コリント8章4~6節)。


 c.わたしを仰いで、救いを得よ

 こうして聖書は、何でもいいから信じれば救われるというのではなく、何でも神にし

て拝みさえすればよいというのでもなく、救われるかどうかは、何を信じ誰を拝むかに

よっているのであり、あなたが何を神とし、誰に依り頼むかということが大切であるこ

とを教えます。信じるあなたの「心、信心」(信仰の度合いや熱心さ)が大切なのでは

なくて、信じる「相手」(信仰の対象)が大切なのです。「まことの救い、まことの

命」にいたるためには、「まことの神」を求めていく必要があるのです。わたしたちに

まことの救いを与えることができる、まことの神を。「わたしが主、ほかにはいない。

わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は、わたしのほかにはない。地

の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」。こうわたしたちに呼びか

けることのできる神こそ、「生けるまことの神」です。生ける神とは、わたしたちに語

りかけ、呼びかける神です。死んだ神は、口があっても語りかけ、呼びかけることはで

きません。ましてわたしたちを救うことはできません。わたしたちを、その悩みから救

いだし、わたしたちを背負いつづけてくださる、生けるまことの神へと心を向け、救い

を求めていってください。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担

われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背

負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」