第5講 神の愛に、愛を持って応答することを求められた人間

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第5講:神の愛に、愛をもって応答することを求められた人間


あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなけれ

ば、望みのないことを認めますか。


「互いに愛しあうことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛す

る者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、

そのほかどんな掟であっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約さ

れます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」(ローマ13章

8~10節)


1.神は人間を善いものとして創造された

 エフェソ2章10節に、「わたしたちは神に造られたもの」と書いてあります。新改訳

では、「わたしたちは神の作品」となっています。わたしたちは、神に造られた「神の

作品」だというのが聖書の教えるところです。するとどうしても、この質問が出てきま

す。それではどうして神は、こんな不完全で不十分なものを造られたのかということで

す。それについて、ハイデルベルク信仰問答は、そんな質問を予想するかのように、次

のように答えます。「いいえ、むしろ神は人を良いものに、またご自分にかたどって、

すなわち、まことの義と聖において創造なさいました」と(問6)。神はわたしたち

を、不完全どころか善いものとして造られた、しかも何が善いかといって、最も善であ

るご自分に似せて、完全なご自分にそっくりに造ってくださったと答えるのです。しか

もそれは、「人が自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに

神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するため」だったと。わたしたちは神によっ

て、善いものとして創造された、それを記しているのが創世記1章です。この天地は六

日間で創造された、その創造の最後の日にわたしたち人間は創造されました。そこに天

地創造の意図が表されています。神は天地を創造されましたが、それは神の気まぐれで

為さったことではなく、そこには目的がありました。人間を創造されることこそ、天地

創造の目的で、そのために神は用意周到に準備しておられることを示します。人間が創

造されるために、その人間が住むためのすべての環境が整えられ、それから最後に人間

が造られました。しかも人間の創造は他のものとは違い、とても丁寧にされています。

他のものは、ただ言葉で有らしめられただけですが、人間はご自分に似せて、ご自分に

かたどって創造されました。最初の人間は「神御自身に似せられた者として創造され、

善き者としてまた従順な者として創造され」ました。天地万物を創造された神は「我々

にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、そこで「神は御自分にかたどって

人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります(創世

記1章26、27節)。それではこの「神の像に造られた」、それが何を意味するかが大切

です。


2.神は人間をご自分にかたどり、似せて創造された

 ヨハネによる福音書のプロローグ、その書き出しは、「初めに言があった。言は神と

共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって

成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1章1~3節)

となっています。ここでは「言」と「神」とが区別されて、しかも「共にあった」と書

かれています。この「共にある」とは、「向かっていく」という動きを意味する言葉で

す。言、ロゴスと神とが「共に」あるとは、そこで両者が向かい合い、交わりを持って

いたということであるだけではなくて、さらにそこで互いが生きた交わりと対話をもつ

ようにと、相手へと動きつづけ、近づこうとしているということです。「共に」とは

「向かいあう」ことです。そしてそれは、単に静かに向かいあって互いを見詰め合って

いるというのではなくて、ますます相手に近づこうと動き続けているということなので

す。このように互いに動きながら相手に向かっていこうとする、そのような動きの中

で、愛しあい、向かいあい、受け入れあって、その交わりにおいて存在しつづけてい

る、それが聖書の神なのです。その神は唯一の神ですが、決して孤独で一人ぼっちの神

ではなく、神ご自身の中で愛しあい、語り合い、交わりあっておられる、交わりの中で

生きておられる神です。だから「言」と言われるのです。神が「言」であるとは、神が

交わりに生き、そこで語りあいをもつ神だからであり、相手へと語りかけていく神であ

ることを意味します。こうして神ご自身の中で生きた愛の交わりに生きておられる神

が、今度はわたしたちへと向かいあい、語りかけ、この生きた交わりに招き入れようと

呼び掛け、語りかけてくださったのでした。そしてわたしたちをも、この生きた交わり

に招き入れるため、言葉をもってご自身を明らかにし、わたしたちの許へと来てくださ

いました。そのためにわたしたちを創造し、またこの交わりにわたしたちを招き入れる

ために、御子を遣わしてくださった、それはわたしたちも、この方との交わりに生きる

者とされるためでした。これが、ここで言われる「神の像」ということなのです。


 神の本質は「愛」です。しかし「愛」は、自分ひとりでは成り立ちません。そこに

「愛する対象(客体)」がなければ、自分が「愛する主体」となることはできないから

です。「愛する者」と「愛される者」がいて、初めて愛は成り立ちます。「神は愛であ

る」(1ヨハネ4章16節)とは、神が愛という属性や性質を持っているということでは

なく、神は愛そのものであり、愛する人格的主体だということです。なぜなら神はただ

お一人のご自身の中で、「御父・御子・御霊」として互いに深く愛し合い、愛の絆に結

ばれて交わりをもっておられるからです。唯一の神は、ご自身の中で互いに深く愛し合

い、親しい交わりの中に生きておられる神です。唯一の神は孤独で寂しいから、この世

界と人間を造られたのではなく、ご自身の内で溢れ出るほどの愛で愛し合い、交わりの

中に生き、深い絆で結び合わされています。だから「神は愛」なのです。そこで、この

神に似せて造られたとは、人間も「愛と交わりの中で生きる存在」として、「愛に生き

る」ものとして創造されたということなのです。神の愛に対応し、それに応答して愛し

返すものとして人間は創造されたということです。そしてこの愛の神に対応して、人間

が「男と女」に創造されたとは、人間同士も、互いに向かい合い、相手に近づこうとし

て相手に向かいながら、互いに愛しあい、交わりに生きるものとされたということで

す。そこで神の愛に応答し、互いが愛し合って愛の交わりに生きるように、それに必要

な力と資質も与えられました。それが人間は「人格的主体」であるということであり、

神と隣人を愛し、真実をもってその愛に応答するための「知性・感情・意志」を備えて

いるということです。互いに愛し合って、交わりを形成し、維持し、深めていくための

力、それが与えられていました。「神の像」とは、人間がこの人格的応答関係、すなわ

ち「愛と交わり」の中にあるということであり、それに必要な力と資質のことを指しま

す。


 こうして最初の人間は、律法の本質である「神と隣人を愛する」ことができる力と資

質を十分に与えられていたのでした。人間とは、本来孤独な存在ではなく、自己充足

的、自己完結的個人でもなく、本質的に社会的存在として、交わりの中に生きる者とし

て創造されたのです。人間が互いを人格として、「我-汝」関係(主体同士の人格的関

係)に生きるように創造されました。人間が互いをまるで機械でも扱うかのように、

「我-それ」関係(主体と客体としての非人格的関係)としてようになったのは、堕落

したからです。心が少しも触れあうことなく、機械的事務的に互いが交流(それはもは

や交流とは言えませんが)し、適当に当り障りなく付き合うようになったことは、まし

てや人間関係が重荷になり、心の病の原因となり、心を圧迫してストレスになっている

現実は、人間の本来の姿でも在り方でもありません。真実に誠実に互いを受け入れあ

い、認めあって、互いの交わりが喜びとなる関係、そこに人間は生きる者とされたので

した。この「共に生きる」こと、つまり共同人間性ということ、そして互いに交わりに

応答するという応答責任性こそ、「神の像」として創造された人間の本質でした。そし

て何より、この「共同性(生)」は、神との関係における共同性(生)であり、神との

交わりに生きる者として、そもそも人間は創造されたのです。このように最初の人間

は、神御自身に似せられた者として創造され、しかも善き者としてまた従順な者として

創造されていたのでした。


3.善悪を知る木-神への人間の人格的応答

 そこでよく考えていただきたいのは、「愛」とはどこまでも自由で自発的なものでな

ければならないということです。愛することを強制されたり、そうすることしかできな

い、そうせざるを得ない中で求められる愛は、本当の愛ではありません。だから神は、

わたしたちからの真実な愛、つまりわたしたちの方から神に向かい、神の愛にわたした

ちが心から喜んで答えていくような愛を求められたのです。そこで神は、人間にご自分

への愛を強要したり、強制したり、愛することしかできないような、非人格的なロボッ

トのようには造られませんでした。わたしたち人間にご自分を愛することもできるし、

しかし愛さないこともできる、どちらも自分で自由に選ぶことができるような、愛する

か愛さないかを選ぶことができる全くの自由を与えて、その上で、人間自身の方からご

自身を喜んで自発的に愛してくることを願われたのでした。それは神が、人間を堕落し

てしまう不完全なものとして創造されたということではなく、人間からの純粋に人格的

な愛を求められたということであり、そのための真の自由を与えられたということで

す。その自由のないところでは、つまり人間に、神を愛することもできるが、愛さない

こともできる、神の愛を拒絶し、拒否する自由のないところでは、その愛は本当の愛、

人格的な愛とはなりえないからです。そうしてまでも神が求められたのは、わたしたち

人間からの、本当に自由で自発的な、心からの愛をもって愛し返されるということなの

でした。


 もちろん神は、人間を天使のように造ることもできました。つまり、ただ神に一方的

に仕えるだけの、服従するだけの存在としてです。天使には選択の余地はありません。

ただひたすら神の御心に従い、それを実現することだけが彼らの使命とされました。し

かし人間は、そのようには造られませんでした。人間が天使と違い、また動物とも違

う、根本的な違いは、創造の最初に自由な意志を、しかも完全に自由な意志を与えられ

たことでした。それによって神はわたしたちが、神に強制されてではなく、またそうす

ることしかできないように造られたのでもなく、神を拒絶する完全な自由を与えられた

上で、それでもなお神を喜び、賛美し、心から愛して、自発的に自分の方から神に仕え

ていくようになる、そのような愛で愛し返してくることを願い求められたのでした。そ

してこのように神が人間を愛しておられ、人間からの全く自由で自発的な愛を求めてお

られることの目に見える「しるし」として与えられたのが、「善悪の知識の木」でし

た。わたしたちは、この「善悪の知識の木」をいささか誤解しているかもしれません。

神がこのような試練、いや誘惑さえ与えなければ、人間は堕落することがなかったので

はないかと心のどこかでかんぐってはいないでしょうか。堕落してしまった今となって

は、この「善悪の知識の木」の存在は、わたしたちには罪への誘惑としか見ることがで

きませんが、本来はそうではありませんでした。たとえて言うなら、これは「結婚指

輪」のようなものでした。神はここでわたしたちと新しい関係を結ばれ、新しい交わり

へと招かれました。これまでは、創造主と被造物という上下関係、主従関係でしかあり

ませんでしたが、神はそれを人格的な交わりの関係としようとされたのです。それは互

いに相手を信頼しあい、相手を心から愛するという関係でした。信頼するとか、愛する

とは具体的なもので、信頼の具体化は相手の言うことを信頼し、それに従うことです。

愛の具体化は相手が期待し、望むことを実現しようとすることです。相手が喜ぶことを

喜んでしてあげようとする、そこに相手への愛が表されます。相手の喜ぶことが自分の

喜びになる、それが愛です。だからデートのとき、相手が好きな色の服を着たり、相手

が好む服装をしようとします。相手が行きたいところに連れて行ってあげ、相手が食べ

たいと思うものを一緒に食べ、相手が喜ぶものをプレゼントします。それは束縛でも、

呪縛でもなく、自分が相手に心からそうしてあげたいと思う自分の意志であり、それに

よって相手が喜んでくれることを願うと共に、その相手の喜びが自分の喜びともなるの

です。そして相手がしてほしくないと思うことは自分もしようとはしません。相手から

嫌われたくないからです。このように相手が言うことを信頼し、それに従いますが、そ

れは隷属することでも、相手の奴隷となることでもありません。愛しているから、それ

は自分の喜びとなるのです。そしてそのような関係を表したのが、「善悪の知識の木」

なのでした。


4.神からの愛と信頼のしるしである「善悪の知識の木」

 教会で結婚された方の多くは、相手と結婚指輪を交換し合ったときに、互いに誓約を

したはずですが、それはその時いやいや仕方なくしたのでしょうか。そうしなければな

らなかったからと、無理強いされてしたのでしょうか。その時には、心から相手に誓約

したのではないでしょうか。そしてその時そこで相手に誓約したことは、自分にとって

制約となり、呪縛と感じたでしょうか。いいえ、心からそうしたいと願って、誓約した

はずです。なぜなら相手を心から愛していたからです。指輪をはめることで、わたした

ちが誓約したことは、「これからはどんなことがあっても、あなたを愛します。あなた

だけを愛し、他の人には心を向けることも、心を揺るがされることもありません。たと

え貧しくなって生活が苦しくなっても、たとえ病気になってあなたの世話に一生苦しむ

ことになったとしても、それでもあなたを愛しぬき、ただあなただけを愛していきま

す」ということでした。結婚した後、そこに魅力的な異性が現れてくるかもしれませ

ん。心がふらつくような人が現れるかもしれない、でもそこできっぱりと宣言したので

す。「あなた以外のどんな人にも心を寄せたり、思いを馳せたり、心を向けることは絶

対にしません」と。それが指輪を交換しながらした誓約であり、その見えるしるしが結

婚指輪でした。その時、それを仕方なくしたのでしょうか。いいえ、少なくともあの時

は心から誓い合ったのです。その時その誓約をすることは義務であるとか、負担である

とか、強制だと考えたでしょうか。いいえ、心からの喜びをもって本心からしたはずで

す。そしてそれが「善悪の知識の木」なのでした。


 だから堕落する前の人間は、それを誘惑に思ったり、義務や強制と感じたり、負担と

思ったりしたことはなかったのです。むしろそれを見る度に、神が自分を心から愛して

くださっていることを覚えることができ、神の愛を確信して、いよいよ心から神に仕え

ていこう、神を愛し返していこうと心に誓わせるのでした。結婚当初のわたしたちが、

指輪を見て、それを恥ずかしがったり、独身の異性の前で隠そうとしたりしないで、む

しろ誇らしげにそれをつけ、それを決してはずそうとはしないようにです。またこの指

輪を、束縛や呪縛だとは決して考えないようにです。最初の人間も、善悪の知識の木を

見上げるたびに、そこで神との約束を思い返して、繰り返し神の言葉を信頼し、神の命

令を尊重して、それに自発的に服従し、神からの愛と信頼に心から喜んで応えていくこ

とを心に誓うのでした。なぜならそこでは神を心から愛していたからでした。善悪の知

識の木、それは神の愛の象徴であり、同時にわたしたちからの愛の約束と信頼の象徴で

した。神は、エデンの園に、「善悪の知識の木」一本だけしか生やさず、それを見せび

らかしながら、その実を食べてはいけないと言われたのではありません。そうではな

く、園には数え切れないほどに無数に木が生やされ、そこには十分すぎるほどたわわに

実がなっていたのです。そして神は人間に、「園のすべての木から取って食べなさい」

と言われたのでした(創世記2章9、16節)。生きていく上でも、さらには楽しむ上で

も十分すぎるほどの木の実を、あふれるほど豊富に与えた中で、約束を結ばれたのでし

た。それらの木の中の、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると

必ず死んでしまう」と(同17節)。


 ここで神が「死ぬ」と言われたのは、「善悪の知識の木」の実に毒が入っているとい

うことではなくて、それはどこまでも約束であり警告でした。つまり、「善悪の知識の

木」の実を食べれば、「必ず死ぬ」という神の言葉を心から信頼し、そこから「決して

食べてはならない」という神の言葉に服従する、そうすることで神を心から愛し、信

じ、従うことを表すということでした。愛は、愛する相手の思いを尊重し、その思いの

中で生きていこうとさせていきます。相手が自分に期待し、願うことを、心から喜んで

実現し、果たしてあげたいと願うものです。そうやってわたしたちは、自分の相手に対

する「愛」を見える形で表します。それが「善悪の知識の木」でした。わたしたちは、

ここで神と結んだ約束を、自発的に自分の方から喜んで守り、実践することによって、

自分がどれほど神を愛しているかを表すことができたのです。そしてそれを破れば、必

ず「死」を招くことを真剣に受け止めて、心からそれを避けることによっても、神への

愛と信頼と服従を表すのでした。「死」とは、命の源であり、生そのものである神との

分離であり、断絶です。神の信頼を裏切り、神との約束を破ったとき、神との関係も切

れました。それが「死」なのです。神は、人間を死へといざない、罪を犯させて堕落さ

せるために、この「善悪の知識の木」を生やさせたのではなく、どこまでも人間が神を

心から信頼し、自発的な愛で神を愛しぬいていくことを願い、信じ、信頼して、この約

束を結ばれたのです。そして人間が決して死ぬことがないために、神との愛の関係が断

絶してしまうことがないようにと、真剣な警告をもって、この約束を結ばれたのでし

た。