第4講 「天地の造り主なる神」を信じる

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第4講:「天地の造り主なる神」を信じる


あなたは天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じますか。


1.神に依存して生きるわたしたち

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こ

う言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあな

たの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通って

も、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかな

い」(イザヤ43章1、2節)


 これまでの学びにおいて、神を信じるとは、ひとりぼっちで生きることをやめて、自

分を背負い続けてくださる神と共に生きることだと考えていきました。一人で問題を抱

え込んで悶々と悩む生き方をやめて、悩みを神に任せ、重荷にあえぐ自分自身をそっく

りそのまま背負ってくださる神と共に歩んでいくことだと。そこでは、このように約束

されていました。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてき

た。同じようにわたしはあなたたちを老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。

わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書46章3、

4節)と。なぜ神がわたしたちを背負い、救い出すかというと、神がわたしたちを造ら

れたからだとあります。そしてここですでに、神とわたしたちとは、すでに関係づけら

れているのです。わたしたちが、どれほど神の存在を否定し、神を無視して生きようと

しても、神の方ではわたしたちと関わりを持とうとしてこられる、それは神がわたした

ちを生み、造られたからでした。


 聖書は、この天地万物すべてのものを造られたのは、神だと主張します。そして、神

が天地を造られたとは、わたしたちが神に依存した存在であるということを意味しま

す。真に「自律的」な存在、つまり他のなににも依存せずに、自分だけで存在しうるも

のは、神だけです。神だけが、他のいかなるものをも必要とすることなく存立しうる存

在で、逆に神以外のものは、全て神に依存して存在しています。神なしに、神ぬきで、

独立して存在するものは、一つもありません。それらは全て、神が造られ、神が造られ

たことによって、存在するようになったものであり、また神によって今なお存続し続け

ることができるからです。この世界を存在へと呼び出した「創造」の業を信じるという

ことは、過去の一時点の出来事だけを信じることではなく、それを存続させている「摂

理」の業を信じることでもあるのです。この世界は、そこに内在する自然法則によって

成り立っているというのではなく、それを存続させている神の御手によるのです。この

世界も、そしてわたしたちも、神に造られたとは、その神なしで、神抜きに自分たちが

ありえないということなのです。


 このようにわたしたちがその存在を徹底的に神に依存している、それは慰めです。わ

たしたちを造られた神は、その全能の御手をもって、造られたわたしたちを守り支え、

摂理の御手をもって支配してくださっているということだからです。この神の御手に

あって、わたしたちは安んじて生きることができるのです。「我らは神の中に生き、動

き、存在する」(使徒17章28節)。「彼らは全て、あなたに望みをおき、ときに応じて

食べ物をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め、御手を開

かれれば彼らは良い物に満ち足りる。御顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹を取り上げら

れれば彼らは息絶え、元の塵に返る」(詩104編)。ですから自分は神なしに生きてい

るし、生きることができるというのは幻想であり、錯覚にすぎません。現に今自分がい

る、この事実からして神なしにはありえないからです。わたしは、その存在からして、

神に依存して生きている、この事実を認め、そのなかで生きていくことを聖書は教えて

いきます。わたしたちの悲惨さは、自分を造られた神を忘れ、神を捨て、神から離れた

ことに起因しています。「あなたはわたしたちを、あなたに向けて造られました。です

からわたしたちの心は、あなたの内に安らうまでは、真の安きを得ないのです」と、ア

ウグスチヌスが『告白』で語るとおりです。


2.わたしたち人間との「交わり」を求められる神

 そして神が天地を造られたとは、神がわたしたちとの交わりを求められたということ

を聖書は明らかにします。神がこの世界を造られたのは、わたしたちと交わりをもつた

めでした。つまり、神の天地創造は、それ自体が、神からの人間に対するプロポーズ

(求婚)なのです。この世界は、神とわたしたちの「交わりの舞台」として造られまし

た。神の創造の業の目的は、わたしたちとの交わりでした。そして人間は、本来そのよ

うな存在として、つまり神と交わりをもつ者として造られたのです。神ご自身が、「父

と子と聖霊」の生きた交わりの中に生きておられる方で、そのことを「三位一体」と言

い表します。「三位一体」とは、唯一のまことの神が、ご自身において「交わりに生き

る」方であられるということを意味します。そして、その神に似せて、「神の像」に人間

は造られたのですが、それは人間がその本質において、神と同様に「交わりの中に生き

る存在」であることを意味します。神との交わりと隣人との交わりの中に生きる存在と

して、人間はそもそも造られているのです。こうして神は、わたしたちとの交わりをも

つために、この世界とわたしたちとをお造りになられたのでした。神はわたしたちとも

交わりを求めて、この世界を造られ、わたしたちをも造られました。それはご自身との

生きた交わりの中に、わたしたちを招き入れるためでした。神は今も、わたしたちに

「わたしと一緒に暮らそう」と呼び掛けておられるのです。天地を造られた神の創造を

信じるということは、神がわたしたちとも交わりを求め、その交わりへと引き入れてく

ださったことを信じることなのです。神との交わり、それが聖書がわたしたちに教え、

約束する祝福なのです。


3.「神を知る」ことが人生の目的であると共に幸福の源

 ですからわたしたちの人生の目的について、聖書は、それを「神」に結びつけて考え

ます。人間は「神との関わり」の中に生き、そこでこそ自分の生きる意味、人生の目的

を見出すことが出来る、というのが聖書の主張です。神を抜きにした人生、神なしの目

的はありえない、そこには人間がどこまでも神との関わりにおいて生きる存在であると

の理解があります。なぜなら、そもそも人間はそのようなものとして、神によって造ら

れた存在だからです。だからわたしたち人間の生きる目的は、わたしたち自身の内にで

はなく、神の内にあるのです。神なしに生きる人生、神を抜きにした目的は、その中心

を失って空中分解してしまうのです。聖書では、神が天地万物を創造され、またわたし

たちを造られた方だと語ります。そこでを、神を創造主として信じるとは、自分が神に

造られた存在であり、それゆえ神との関わりに生きる者として造られ、そこに存在意義

(人生の目的)を持っているということを認めるということです。わたしたちは神と共

に生き、神との交わりのうちに生きるために命を与えられ、今を生かされています。で

すからこの神から離れて生きることは、自分の生存の意義そのものを自分で否定するこ

とになるのです。


 わたしたちは、神を喜び、神の栄光を現わす器として、神に造られ、この世に生み出

されました。わたしたちが神にあって、神のうちに、神と共に生きることを、神は願い

求めて、わたしたちを造られたのでした。こうして神の喜びのうちに生き、神のために

生きること、それがわたしたちの人生の目的であり、そこにわたしたちの真の喜びがあ

るのです。神を喜んで生きること自体が、神の栄光を現わすことであり、またわたした

ちの人生の目的に他なりません。そしてそれは大げさなことではなく、ごく日常的なこ

とです。今日という日を、神が喜んでくださる日として、神が与えてくださった日とし

て、感謝と喜びのうちに生きるとき、神の栄光を現わすことになるのです。そのように

して自分の人生に、意義と喜びと目的をくださった神を感謝しつつ、その神にあって、

神の御心に生きようとするとき、それは神の栄光を現わすことなのです。またこうして

生きるところにこそ、わたしたちの真の喜びがあるのです。


4.神が創造された作品だから、神が造りなおすことができる

 わたしたちは、最初から罪と悲惨に生まれついてしまったわけではありません。聖書

は次のように証言します。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、

それは極めて良かった」(創世記1章31節)と。こうして、「神がお造りになったもの

はすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」(1テモテ

4章4節)とあるとおり、それは「善き創造」なのでした。わたしたちは、自分が造っ

たものがあまりできばえの良くないものであれば、放り投げて捨ててしまいますし、

作ったこと自体を忘れてしまいます。しかし神さまはご自分の作品をご覧になって、し

かも最初は完全なものであったのに、後でまったくだめなものとなってしまった作品を

ご覧になって、どうされたのでしょうか。造られたことを忘れてしまい、作品を捨てて

しまったでしょうか。いいえ。神さまはこの作品を何とかもう一度、善きものとなるよ

うに回復し、取り戻そうとされたのです。そしてそのために神さまは、ご自分の全力を

使い尽くそうとされました。片手間にではなく、ご自分のすべてをもって、この作品を

ご自分のものとして取り戻そうとされたのです。そしてこの作品は、それを造られた神

さまだけがやり直しをし、造り直すことができるものでした。なぜなら、それを造られ

たのは神さまだからです。


 ある嵐の激しい日に、夜遅く、宿屋の戸をたたく音が聞こえました。客は来ないだろ

うと戸を閉めていた主人が、戸を開けると、そこには白髪の老人が宿を乞い、立ってい

ました。急いで暖炉に火をくべて、冷え切った体を温めてもらおうとすると、その薪に

中に、壊れたハープがあることに気づきます。それを燃やしてしまうのはもったいない

気がするのに、どうしてそれを薪にしてしまうのかと老人が主人に尋ねると、これまで

も何度もそれを修理したが、どうやってもだれにも直せなかった、壊れたハープをいつ

までも持っていても仕方ないから、もう燃やしてしまうのだと主人は答えました。そこ

でこの老人、何を思ったか、これを一晩かして欲しいと願い出ます。そしてそれぞれに

部屋に入って夜の眠りにつきます。ところが真夜中に、主人がふと目を覚ますと、えも

いわれぬ音色が聞こえてきます。不思議に思った主人は、その音の出所をたどっていく

と、老人の泊まっている部屋からそれが聞こえてきます。思い切って戸をたたき、中に

入ると、老人があの壊れたハープを片手につまびいていたのでした。主人は驚いて聞き

ました。これまで何度も修理に出したし、色々な人に頼んでみたが、誰一人として直す

ことができなかった、どうしてあなたはそれを直すことができるのかと。その老人は答

えました。「このハープは、わたしが若いころに造った自分の作品です。わたしが作っ

たのだから、わたしには直すことができるのです」と。このように、ゆがんでしまった

わたしたちの心と体を、本当に直すことができるのは、わたしたちを造ってくださった

方だけです。そしてこの方が、わたしたちをもう一度もとの完全な姿に回復させ、直し

てくださるのです。なぜなら、わたしたちは、「神の作品」だからなのです。


 こうしてわたしたちは、神を喜び、神の栄光を現わす器として、神に造られ、この世

に生み出されました。わたしたちが神にあって、神のうちに、神と共に生きることを、

神は願い求めて、わたしたちを造られたのでした。こうして神の喜びのうちに生き、神

のために生きること、それがわたしたちの人生の目的であり、そこにわたしたちの真の

喜びがあるのです。あなたも、ぜひ、あなた自身を造られた、神と共に生きていってく

ださい。