第1講 キリストへの信仰を告白する

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第1講:キリストへの信仰を告白する


1.洗礼を受けるということ

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりまし

た。それは・・・わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6章4節)


 洗礼を受けることを希望される方には、その洗礼を受けることの意味と、洗礼を授け

られるにふさわしい信仰の告白をしていただくための学びをしていただくことになって

います。その学びに先立って、そもそもあなたが受けようとしている「洗礼」とは、一

体どういうものなのか、最も基本的なことからお話ししていきたいと思います。かつ

て、主イエスを十字架につけ、殺してしまったことを悔やみ、心を刺された人々に、ペ

トロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪

を赦していただきなさい」と語りかけていきました(使徒2章38節)。ここで言われて

いるように、「悔い改める」、つまり神へと立ち帰ることを決心し、生活を神へと転換

していった人は、罪の赦しと主イエスを信じる祈りをささげると共に、これからは主イ

エスにあって新しい人とされ、生まれ変わらせられたことをはっきりと示すために、洗

礼を受けることが求められています。このように洗礼が意味し、約束することは、「罪

の赦し」と「新しい生命」でした。


 まず第一に、「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさ

い」(使徒2章38節)とあるように、それは「罪の赦し」です。水が体の汚れを洗い落

すように、「わたしの魂の汚れ、すなわちわたしのすべての罪を、この方(キリスト)

の血と霊とによって確実に洗っていただける」ということを表わします(『ハイデルベ

ルク信仰問答』問69)。このように「罪の赦しは一種の洗いであって、あたかも体の不

潔が水で洗い清められるように、我々の魂がこれによってその汚れから潔められるので

あります」とも言われます(『ジュネーブ教会信仰問答』問325)。洗礼とは、水が注

がれることで象徴されるように、「罪と汚れの洗い」です。身体の汚れを水で洗い流す

ように、罪の汚れが洗い流され、潔くされたことを意味します。だから聖書は、洗礼を

「罪の洗い清め」(使徒22章16節)と呼びました。


 第二に、それは「新しい生命」です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬

られ、その死にあずかるものとなりました。それはわたしたちも新しい命に生きるた

め」だと語られます(ローマ6章4節)。洗礼と共に、古い罪の自分はキリストと共に

死に、今はキリストと共によみがえった新しい自分が生きるものとされました。「わた

したちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配されたからだが

滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から

解放されています。わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きる

ことにもなると信じます。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キ

リスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と聖書は約束し

ます(ローマ6章6~11節)。こうして洗礼は、わたしたちの罪が、キリストによって

全く洗い流され、潔められたことだけではなくて、さらにはわたしたちが罪に死に、キ

リストの命によみがえらせられた者として、新しく生まれたことを意味し、それをわた

したちに信じさせるものでした。洗礼によってわたしたちは、聖なる「キリストと接ぎ

木されること、再生、罪の赦し、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい

命に歩くこと」をしるしづけられ、それを確かなこととして印証されるのです(『ウェ

ストミンスター信仰告白』28章)。それはわたしたちを「新たに造りかえる洗い」(テ

トス3章5節)として、「わたしたちがキリストに接ぎ木され、恵みの契約の祝福を分

け与えられ、主のものとなると約束することを、表わし証印する」ものなのでした

(『ウェストミンスター小教理問答』問94)。


 こうしてわたしたちは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」のであり

(ローマ6章3節)、洗礼はわたしたちをキリストご自身へと結びつけ、キリストにあ

る恵みのすべてがわたしたちにもたらされることを表わします。聖書では、ノアの洪

水、モ-セの紅海を渡っての出エジプト、ヨシュアによるヨルダン川を通っての約束の

地への入国などが、洗礼の予表として理解されてきました。そこで彼らは「水の中を

通って救われました。この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復

活によってあなたがたをも救うのです」と約束されていきます(1ペトロ3章20、21

節)。そしてそのゆえに「聖霊によって新しくされ、キリストの一部として聖別され

る」ということでもあります。だから洗礼は「新たに造りかえる洗い」(テトス3章5

節)とも呼ばれます。そうしてわたしたちは、「次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で

非の打ちどころのない生涯を歩む」者へと召され、招かれているのです(『ハイデルベ

ルク信仰問答』問70)。


2.「信仰を告白する」ということ

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられ

たと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公

に言い表して救われるのです。」(ローマの信徒への手紙10章9、10節)


 そこでこれからあなたが洗礼を受けようとするとき、求められるのは、信仰の告白を

していただくということです。稲毛海岸教会では、イエス・キリストへの信仰を告白し

て成人洗礼を受けようとされる方、またすでに幼児洗礼を受けておられ、信仰を告白し

て信仰者として生きたいと願い出られた方に、この「信仰告白」を求めます。このよう

に洗礼を受けることで教会に加入するにあたり、このような「信仰告白」の誓約を求め

るのはどうしてでしょうか。そこでまず、「信仰を告白する」ということについて考え

ていただきたいと思います。


 「告白する(ホモロゲオー)」とは、「同じこと(ホモ)を言う(ロゲオー)」とい

う意味の言葉です。一緒に同じ言葉を口にする、そこで告げられている事柄に、これこ

そ真理だと言って同意し、自分も同じことを口にするということです。こうして同じ信

仰の言葉を告白する者たちが集められたのが、教会です。教会とは、つまり「信仰告白

共同体」なのです。ですから、教会に入ろうとする人に、言葉をもって、教会の信仰、

つまり教会員が皆等しく言い表してきた同じ信仰に対して、同じ言葉をもって言い表す

ことが求められるのです。ここでは「心に信じる」ことと、「口で告白する」こととは

一つのこととされます。わたしたち日本人は、神を信じることを、何より自分の心の問

題と考えがちで、情感やそのときの雰囲気で神を信じたと思ったりします。だからそれ

を口で告白することと区別してしまうのです。言葉というものを軽んじたり、信用しな

かったり、わずらわしく思うところがあり、言葉で厳密に言い表したものより、漠然と

感じ取るようなもの、心と心が触れあったら通じてしまうような信仰の気分、体験らし

きものを重んじたりします。しかし、教会が洗礼者を受け入れ洗礼を授けようとすると

き、あるいは他の教会から移って来られた方を教会に受け入れようとするとき、その人

がどのような信仰の体験をしたかとか、どんな経緯を通ってきたかということを、もち

ろん大切なこととして受けとめますが、しかしそれ以上に、その人がそもそも「何を信

じているか」ということを問題します。どんな神体験、信仰経験をしてきたかというこ

とではなく、「イエスがあなたにとって主であることを認めるか、神がイエスをよみが

えらせた事実を認めるか」、そのことを問題にするのです。本来の信仰告白は、この二

つの事柄(イエスが主であることとキリストが復活された方であること)が告白されて

いたのであり、それが「信仰告白」によって求められる第一のことでした。聖書の語る

真理と、神の恵みの約束を承認し、自分も同じ言葉を語るかかどうか、ということが、

ここで求められることなのです。


 聖書でいう信仰とは、信念といったものとは違います。「わたしが何をいかに信じる

か」ということは、自分で決めるものだという考えを持ちがちですが、信仰が信念であ

るにすぎないなら、それこそ皆千差万別のものとなりましょう。またずいぶんと恣意的

で、自分勝手なものとなりましょう。自分の信じられないことは抜かして、都合の良い

ものだけを受け入れるということになるからです。まことの信仰とは、そういうもので

はありません。信仰とは、いつの間にか心に出来あがった自分の信念や確信といったも

のではなく、聞いた言葉それも「外から来た言葉」によって生み出されてくるものなの

です。外から来た信仰を聞いて受け入れる、それが聖書でいう信仰です。その言葉と

は、人間の言葉のように信頼出来ないものではなく、神の言葉、神の真理が人間となっ

た言葉に他ならないゆえに、その言葉を信頼して受け入れるに足るものです。そしてこ

の言葉を簡潔に要約したものが信条、信仰告白と呼ばれるもので、それを受け入れ自分

の言葉とすることが信仰なのです。そこではどれだけ熱心かということ以上に、何を信

じているかが大切なのです。こうして教会の告白に参与していく中で、その一員に迎え

入れられるのです。そこで「わたしは信じる」と告白する「わたし」とは、その信仰を

告白する「わたし」であると共に、その信仰を共に一緒に告白する「共同体としてのわ

たし」です。なぜ「わたし」かと言えば、そこにどれほど大勢の人々がいたとしても、

あたかも「一人」の人であるかのように、同じ心、同じ思い、同じ信仰で告白するゆえ

に、「わたしは信じる」と告白されるからなのです。そしてこのように同じ信仰告白を

することで、キリストにある全ての教会は相互の「信仰の一致」を表わしてきたので

す。これを告白することにおいて、代々の聖徒と共に時代を貫き、教派や国、民族、文

化の違いを越えて、同じ一人の主に対する「一つの信仰」にあずかってきたのです。


 ですから教会に加入される場合に、まず問われるのが、この「信仰告白」です。そこ

でわたしたちと同じ告白をすることができるかどうか、そのことを問われることになる

のです。それは当人の信仰を疑っているということではなく、ただ共にこれから歩んで

いこうとする教会生活の出発点で、まず同じ信仰告白に立っていることを確認し、同じ

信仰の友、兄弟姉妹として心から一致していくために為されることです。ですからそこ

では信仰の内容について最も共通する3項目と、教会生活を送るにあたっての3項目の

確認をし、それについての誓約をしていただきます。それは次の誓約です。


1.あなたは、天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じますか。

2.あなたは、自分が神のみ前に罪人であり、神の怒りに価し、神の憐れみによらなけ

  れば、望みのないことを認めますか。

3.あなたは、主イエス・キリストを神のみ子、また罪人の救い主と信じ、救いのため

  に福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ寄り頼みます

  か。

4.あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きるこ

  とを、決心し約束しますか。

5.あなたは、最善を尽くして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持する

  ことを約束しますか。

6.あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規とに服し、その純潔と平和とのた

  めに努めることを約束しますか。