第7講 腐敗し堕落した人間に対する神の裁き

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第7講 腐敗し堕落した人間に対する神の裁き(問9~11)


問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。


 断じてそうではありません。それどころか、神は生れながらの罪についても、実際

に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この

世においても永遠にわたっても罰したもうのです。それは「律法の書に書かれている

すべての事を、絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と神がお語りになったと

おりです。


問11 しかし、神は憐れみ深い方でもありませんか。


 確かに神は憐れみ深い方ですが、またただしい方でもあられます。ですから、神の

義は、神の至高の尊厳に対して犯される罪が、同じく最高のすなわち永遠の刑罰を

もって、体と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。


1.神は罪を正しく裁かれる

 これまでわたしたちは、罪と悲惨について考えてきました。神と人とを心から愛する

者として造られたわたしたちでしたが、その愛は自分自身へと向き合っていく愛、「自

己愛」に集約されるようになってしまった、そしてそんな自分に気づくことなく、互い

に愛し合っていると思い込んでいるところから、様々な悲惨さが生み出されていること

を見ていきました。聖書は、ただわたしたちの罪を指摘し、その罪こそがわたしたちの

悲惨の原因であることを語るだけではなくて、それがもたらす結果についても、わたし

たちに問いかけてくるのです。「神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃され

るのですか」との問に、「断じてそうではありません。それどころか、神は生れなが

らの罪についても、実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただ

しい裁きによって、この世においても永遠にわたっても罰したもうのです」(問

10)。それは、わたしたちが犯した罪に対しては必ず裁きがあるということです。聖書

は明確に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まってい

る」と書いて、わたしたちに警告を与えます(ヘブライ9章27節)。


 ある方は、神が人間の罪を裁くのは不当だと考えるかもしれません。それに対しては

「御自身の律法において人ができないようなことを求めるとは、神は人に対して不正

を犯しているのではありませんか」と問われました(問9)。それに、「そうではあ

りません。なぜなら神は人がそれを行えるように人を創造されたからです。にもかか

わらず、人が悪魔にそそのかされ、身勝手な不従順によって、自分自身とそのすべて

の子孫からこの賜物を奪い去ったのです」と答えられます。神が人間に求められたの

は、真実な愛でした。神と隣人とを愛し抜いていく愛でした。そして「神は人がそれを

行えるように人を創造された」のです。愛する力をくださった、それにもかかわらずそ

の愛を歪んだものに変えてしまったのです。人間は、完全な愛とそれに応答できる力を

十分に与えられていました。それにもかかわらず、その神の信頼と愛を裏切り、それを

逆手にとって、むしろ神を捨て、罪を犯してしまったわけですから、わたしたちに弁解

の余地はありません。神は罪を憎み、それを正しく裁かれる方です。そして犯された罪

には罰を報いられます。この神の裁きは不当なものではありません。芥川龍之介の「く

もの糸」ではありませんが、悔い改めることもない悪人が、ただ一度の善行によって、

そのまま極楽に受け入れられ、自己中心の醜い心が変えられることもないまま、悪びれ

ることもなく極楽に入るのなら、極楽は再び地獄と化すのではないでしょうか。そうで

はなくて、一度きちんと罪に対する清算がなされ、裁きが行われるから、天国は二度と

地上のような堕落が起こることなく、天国はまさに天国として、新しい世界となってい

くのです。罪に対する裁きがあるから、本当に新しい世界を待望することができるよう

になるのです。そして本当に自分の罪を心から認めて、それを悲しみ、憎み、捨てて、

心からの悔い改めをすることによってこそ、わたしたちは本当に自分が赦されて、天の

世界に迎え入れられることを確信することができるのです。


 それにもし神が本当に正義の神、義の源であられるなら、やはり裁きがなければなり

ません。神に対する罪、隣人に対する罪への正当な裁きと報いが存在しないなら、倫理

も正義も成り立たなくなるからです。もし神の裁きがないなら、こんなに不公平な世の

中はありません。悪しき者が裁かれて、苦しめられた者が報いを受けられるために、神

の正義の裁きは実在しなければなりません。もし神の裁きがなければ、天国も再び罪人

で一杯となり、地獄同様に悲惨な場所となるに違いありません。「慈悲」によって天国

に招き入れられるだけであるなら、そこには悔い改めることもしない極悪人が、悪びれ

ることもないまま受け入れられていくことになり、裁きと罪に対する償いがないとする

なら、そこは再び悲惨な世界となってしまうのです。罪に対する償いと報いがきちんと

なされるから、罪がはっきりと清算されて、罪のない世界が生まれるのです。神の裁き

があるということは、地上で不当な扱いを受け、決して幸せを享受できなかった者たち

にとって、慰めと希望なのです。神が必ず裁いてくださる、それが不当に虐げられ、苦

しめられている者たちにとっての慰めの拠点なのです。


2.神は愛であるゆえに、わたしたちを裁かれる

 しかしそこでなおわたしたちは、神は愛の神ではないのかと問うかもしれません。神

は愛なのだから、裁きを為さらないと。それは全くの誤解です。むしろ、神は愛だから

こそ人を裁かれるのです。神は義なる神、正義の神だから罪人を裁かれるというのでは

ありません。正義の神による裁きだけであったら、その裁きはどれほど過酷なものとな

るでしょうか。神は愛の神だからこそ、わたしたちへの愛のゆえに、愛においても裁か

れるのです。愛とは人格的な応答関係です。互いに相手に対して人格的に対応し、それ

に応えていくことです。その関係を相手が裏切ったら、どうなるでしょうか。心から信

頼しあい、約束しあった関係の相手がいたとします。しかしその人が別の異性に思いを

寄せ、心を向け、別の関係へと向かってしまったら、あなたはそれをどう考えるでしょ

うか。相手はなんて心の広い人だろうとは考えないはずです。たった一回だけの失敗だ

から赦してくれと言われても、容易には赦すことはできないでしょう。一度失われた信

頼を回復させることは容易なことではありません。相当な覚悟で相手を受け入れ、赦そ

うとするのでなければ、関係を元に戻すことはできません。その神の愛と信頼を裏切

り、踏みにじったことが、罪なのです。相手が本当にそのことを心から悔い改めて、心

からの赦しを求め、本気でやり直そうとしない限りは、相手を赦すことはできないはず

です。神は愛だから、神はわたしたちの不義を大目に見て、見逃すべきなのでしょう

か。いいえ、神は真実な愛だからこそ、その愛を踏みにじったことの責任をとことん追

及なさるのです。神は愛だからこそ、人間に対して、とことん愛において、つまり人格

的に対応なさり、それに対する責任を求められる、だから裁くのです。神は愛だからこ

そ、罪を犯して自分を棄て去り、自分を拒絶し否定して生きる人間、罪人に対しても、

最後まで徹底的に人格的に対応されるということであり、それは人間をどこまでも人格

的存在として扱われるということなのです。神は地獄の底においても、なお人間を人格

的存在としてみなしておられるということです。人格的な神に似せて造られた人間は人

格的存在である、だから裁きが存在します。裁きがないなら人間は人格を持たない獣と

同じです。神は愛だからこそ、罪人を裁かれるのです。


 だから裁きなどはないとたかをくくる人々に対して、「断じてそうではありません。

神は生れながらの罪についても、実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、

それらをただしい裁きによって、この世においても永遠にわたっても罰したもうので

す」と断言されます。これは抽象的なことではありません。聖書はこのことを、人間の

歴史、とりわけ神の民イスラエルの歴史をもって明らかにしています。神がどれほど人

間の愛の裏切りを赦してこられたか、忍耐してこられたか、のみならず神が繰返しご自

身へと戻ってくることへと呼び掛けてこられたか、忍耐のうちに招いてこられたかを明

らかにしていきます。それにもかかわらず人間は、この神の愛と憐れみを無視し、踏み

にじり続けてきたのでした。義なる神であるにもかかわらず、人間の罪を赦し続け、憐

れみ続けてこられたのです。それでもなお拒み続ける人間、神を拒否し続ける人間を裁

くことは不当でしょうか。愛し続けてくださった、その神の愛を裏切る続ける人間を、

神が裁くことは違法でしょうか。神はこの人間の姿を、夫をもちながらしかもその夫に

愛されていながら、他の男の許に走り、姦淫を繰り返す妻になぞらえられるのでした。


3.神は、わたしたちが悔い改めることを求めておられる

 ですから、この神の愛を踏みにじりつづける人間に対する神の裁きは、徹底的です。

人間はただ死ぬだけではありません。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを

受けることが定まっている」と聖書は語ります(ヘブライ9章27節)。そして世の終わ

りと最後の審判についても確言します。聖書は、わたしたちがやがて神の御前に一人一

人立たせられて、自分の言ったこと、思ったこと、行なったこと、行なうべきだったの

に行なわなかったこと、それら一つ一つについて申し開きすることが求められるときが

かならず来ることを証言します。主イエスは言われました。「言っておくが、人は自分

の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、

自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ12

章36、37節)と。また聖書は明言します。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つ

のです。・・・それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べるこ

とになるのです」(ローマ14章12節)。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こう

としておられる方に、申し開きをしなければなりません」(1ペトロ4章5節)。「わ

たしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾

つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たち

は、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」(黙示

録20章11~15節)。こうしてすべてを見抜き、人の心の中をご覧になる神の前で、わた

したちは自分の行ないと言葉について、生涯の日々と心の思いについて、一つ一つ弁明

しなければなりません。「神は生まれながらの罪についても、実際に犯した罪につい

ても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この世においても永遠

にわたっても罰したもうのです」。あなたはその備えができているでしょうか。


 しかしそこで神が求めておられることは、わたしたちが罪のまま放置され、滅びと裁

きに向かっていくことではなくて、悔い改めることでした。「神はこのような無知な時

代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人々でも皆悔い改めるようにと、

命じておられます」(使徒17章30節)とパウロは語りました。「悔い改める」、つまり

これまでの罪の生き方をやめて、方向転換し、神へと向かって生きなおしていくことで

す。ただ犯した罪を後悔するということではなくて、生き方そのものを変えていくので

す。滅びに向かうわたしたちを、神がどれほどの痛みをもって呼びかけておられるか、

神の声を聞いてください。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われ

る。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。悔い改め

て、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨て

て、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよ

いだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼ

キエル18章23、31~32節)。