第7講 罪の結果

第7講 愛から遠く離れたわたしたち

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしは何と惨めな人間なのでしょう」

ローマ書7章1525

 1.神の義の基準から逸脱し、遠くおよばないわたしたち

 「罪とは、神の律法にそむくこと」です(1ヨハネ3章4節)。まさしくわたしたちの罪とは、神の律法、つまり「愛する」という在り方から大きく逸脱し、それに逆らって生きていることなのです。わたしたちは、なんと「的外れ」な生き方をしていることでしょうか。聖書が語る「罪」とは、神との交わりを失ったまま生きている人間の生き方そのもののことです。ここでは罪とは「法に背くこと」、つまり神の律法に対する違反ですが、そこには二重の側面があります。つまり一方は罪をあえて犯し、律法に違反することであり、他方は律法が要求する完全さを満たすことができないということです。一方は積極的な罪で、他方は消極的な罪、要するに「してはいけないことをしてしまう罪」と「しなければならないことをしない罪」です。律法という基準、物差しに照らして私たちを見ると、この二重の意味で罪を犯しているのです。そして義なる神の基準から見るならば、この基準に到達している人間は一人もいません。「義人はいない、一人もいない」ということになるのです。なぜなら神の律法を守り行うには、「律法全体を行う義務」(ガラテヤ5章3節)があります。そして「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となる」(ヤコブ2章10節)のです。また「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(同4章17節)
2.人間の「罪」の本質-自己中心な生き方
 堕落によってもたらされた人間の罪の本質・正体とは「自己中心」でした。人間はどこまでも自己中心的にしか生きることができなくなってしまったということです。義の源である神との交わりを失ったことで、人間は「原義」を失いました。「原義」とは、人間に生れながらに与えられた、人間の本来的な正しさ、つまり人間が創造された最初に持っていた、知識と義と聖において神に似せて造られた性質のことで、それによって神と人間との間には正常な関係と交わりが成り立っていたのですが(義とは神の意志に一致してその御心を行なうこと)、その義を喪失したことで神との交わりを失ない、神との関係はゆがんだもの、敵対関係となってしまったのでした。そして神を正しく知る知識も、完全な義と聖も失って、もはや神の意志に一致することも、それを求めることも、行なうこともできなくなったばかりか、他人との関係も破壊され、相互に自己中に生きる者となって、互いに敵対するようになってしまったのです。なぜなら、自分の心から「神」を失ったことによって、自分自身が神となり、自分を中心にして生きるようになったからでした。

 そしてこの罪への傾向(原罪)と自己中心から、あらゆる具体的な罪と悲惨な現実が生み出されるようになったのでした。わたしたちがどれほど意志し決心しても、それで罪を犯さなくなるわけではなく、この罪の源を根から取り除かなければなりません。中にドロの入った水は、しばらくすれば「うわずみ」がきれいになり澄んできますが、それをかき回すと中のドロが出てきて、全体がまっ黒になるように、いつもは正しく生きているかに見えるわたしたちですが、なにかあると心の奥に潜んだドロ(罪)が出てきて、様々な悪を生み出すのです。それは心そのものが悪で染まり、悪に浸かり、罪で満ちているからです。これが堕落によってわたしたちが陥った状態です。主イエスは、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と言われました(マルコ7章2023節)。わたしたちは、外側ではなく内側が汚れ、悪しき思いと欲望に捕らえられて、自分の罪の「奴隷」また情欲の「虜」となってしまっています。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8章34節)。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしは何と惨めな人間なのでしょう」(ローマ書7章1525節)。

3.罪の結果としての「死」-神との交わりの決定的な喪失
 こうして生命の源である神との交わりを失い、全く断絶してしまったわたしたちは、ちょうど木の実が枝から切り離されると、もはや成長することも、さらに実を結ぶこともできなくなるばかりか、逆に腐っていくように、義なる神から離れることで、人間としての本来あるべき姿(原義)を失い、それによって人間本性はその全体において腐敗してしまったのでした。木の実が、悪臭を放ってどんどん腐敗するように、それはもはや死んでしまっています。人間は、生れながら死んだ状態で生まれてくるというのが、人間に対する聖書の教えなのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ書6章23節)とある通りです。しかも肉体の死を経て、決定的な死、第二の死、つまり永遠の死に至るのです。堕落によって人間が喪失したものの本質は、生ける神との交わり、生命の源である神との交わりの喪失、つまり永遠の生命の喪失です。永遠の生命とは、永遠の神との交わりのことです。その交わりを失ったことで、わたしたち人間は自分の生命そのものを失ってしまったのです。神との交わりを喪失した姿を、聖書は「霊的な死」だと教えます。人間は生れながらに、まことの神を知らず、求めず、逆らって生きる者として生まれてくるのですから、つまり人間は死んだままで生まれてくるのです。

 しかも、堕落はわたしたち人間に、深刻な結果をもたらしました。「人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9章27節)、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(2コリント5章10節)とあるように、死後に神の前で裁きを受ける者となってしまったのでした。人間の社会でも、罪を犯した人間は罰せられ、罪に応じた裁きを受けます。ましてや完全な義を要求される神の前では、わたしたちは自分の犯した罪についての裁きを受けなければなりません。神は、ご自身の義と法(律法)に照らして、罪を犯した人間に対する裁きを行います。そこでわたしたちが受けるべき刑罰は、あらゆる悲惨と死、そして永遠の地獄の刑罰です。「罪からくる報酬は死である」と聖書にあるとおり、わたしたちは自分の罪による神との交わりの喪失と、罪に対する神の怒りと呪いの結果として、この世と次の世における様々な悲惨を、罪に対する刑罰として科せられたのでした。この世における不幸や苦しみは、不運な偶然ではなく、究極的に人間の罪に対する罪の結果としてもたらされたものであり、神の正当な怒りと呪いがその根拠にあることを忘れてはなりません。そしてこの罪の刑罰は、この世におけるばかりではなく、次の世においてもくだされるものです。

「来世における罪の刑罰とは、楽しい神のご臨在からの永久的隔離と、永遠に地獄の火の中で間断なく受ける魂と体との最も悲痛な苦悶」です。それらの総決算が「死」なのです。死は、罪によってこの世に入り込んできたもので、本来なかったものでした。しかもこの死は、この世ばかりではなく、次の世においても、永遠に科せられるものでした。それは神との永遠の交わりの喪失、断絶です。これが聖書で言う「死」(第二の死、永遠の死)です。こうしてわたしたちは、罪によってまったく望みのない状態に陥ってしまったのでした。しかもやっかいなことに、これがどれほど悲惨で危険な状態かを、自分で認識できないほどなのです。