第5講 人間の堕落がもたらしたもの

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第5講 人間の堕落がもたらしたもの(問7)


問7 それでは、人のこのような腐敗した性質は何に由来するのですか。


 わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、

わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生ま

れてくるのです。


1.神の愛と信頼を踏みにじった罪

 最初の人間は、神御自身に似せられた者として創造されました。「神に似せて」造ら

れた(5章1節)とは、人間が互いに「向かい合う」存在として、互いが愛と信頼に

よって応答しあう「人格的対応関係」つまり「交わり」の中に置かれたということで

す。そしてその神に向かい合い、神からの愛を信頼し、神の愛と信頼に応えて愛し返し

ていく「愛の関係・交わり」の中に置かれた人間は、そのことの「しるし」として「善

悪を知る木」を与えられ、園に無数に生えている木の中で、たった一本、神との愛と信

頼のしるしとなるその木からは取って食べないという約束を与えられました。それは神

からの愛を信頼して、神の戒めを守り、それに喜んで従う、そして神への愛から神の言

葉に自発的に服従する、そうして神からの愛を確認し、神への愛を表していくしるしに

他なりませんでした。それは、わたしたちが神との愛を裏切ることはないし、神を捨て

ることはないと、神がわたしたちを心から信頼してくださっている、神の側からの愛と

信頼と祝福のしるしでした。そしてわたしたちも、この「善悪を知る木」を見る度に、

神からの愛を喜び、感謝し、信頼されている喜びに震えながら、その神との約束を思い

出して、ますます神を愛する決意の中で、それに従っていこうという思いが強められて

いく、わたしたちの側からの愛と信頼と服従のしるしでもありました。だからそれは、

わたしたちにとって決して強制や義務とされたのではなくて、喜んでそれに服していき

たいと思う「愛のくびき」でした。なぜならそこには、神への心からの愛があったから

でした。


 それはたとえれば「結婚指輪」と同じです。しかし、もし相手がその誓いを破ったと

します。別の異性に心を寄せるようになり、関係を持つようになったとしたらどうで

しょうか。わたしは相手を信頼してきたのに、相手はその信頼に応えなかった、そして

その信頼を裏切り、踏みにじったとすればどうでしょうか。軽い気持ちでしただけだと

か、たった一回のことだけだと言ったとしても、それを赦し、受け入れることができる

のでしょうか。一度崩れてしまった関係は、そう簡単に修復したり、やり直すことはで

きない、一度抱いた疑念は、そう簡単に消し去ることはできないのです。そして崩れ

去った愛の関係を、もう一度もとに戻すことは容易なことではありません。そこではも

はやこの指輪は、怒りと悲しみ、いや憎しみのしるしとなるでしょう。わたしたちが、

罪を犯したということは、この神からの信頼を裏切り、その愛を泥靴で踏みにじったと

いうことなのです。わたしたちは、いともお手軽に、「自分は罪を犯しました。神さま

ごめんなさい」と祈りますが、それが神にとってすれば、どれほど心痛むことであり、

神を苦しませ、悩ませ、痛めつけるものとなっているか考えたことがあるでしょうか。

自分が、心から信頼していた人から裏切られ、踏みにじられた経験のある人なら、その

神の思いがいくらかは理解できるはずです。そこでのあなたの苦しみは、実はあなたが

神にしている仕打ちなのです。罪を観念的・事務的に考えないでください。法律に違反

したかどうかといった次元での問題である以上に、それは人格的な問題なのです。わた

したちは、あれほど神に信頼されながら、神を裏切り、神を捨て、神の愛を踏みにじっ

たのでした。「あなたは必ず死ぬ」とは、そういうことです。神との約束を裏切り、そ

の信頼を捨て去ったとき、神との関係も絶たれたのでした。神との愛の関係がそこで切

れてしまった、それによってわたしたちは死んだのです。


2.最初の人間が犯した罪の本質

 こうしてわたしたちは、最初の人間が造り主に背き、不従順な者となり、罪人となっ

てしまいました。そこで最初の人間が犯した罪とは、一体何でしょうか。それは第一

に、彼らが神の言葉を侮り、軽んじ、侮蔑したことです。神はアダムに「善悪の知識の

木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました(創

世記2章17節)。しかしエバは、悪魔から本当に食べてはいけないなどと言われたのか

誘惑されると、そこで「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないか

ら」と神が言われたのだと答え、そこに自分の解釈を差し挟みました(同3章3節)。

そしてそこに、悪魔がつけ入り、心の隙に入り込んできたのです。ただちに「決して死

ぬことはない」と悪魔に断言されたことで、神の言葉への信頼はもろくも崩れてしまい

ました(同4節)。そしてそこで神の言葉を疑い、神との約束を踏みにじり、それに全

面的に信頼することをしなくなります。この神への不信頼が第二の問題です。こうして

神への不信が芽生えたところへ、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者

となることを神はご存じなのだ」と神への懐疑を持たせる言葉が投げ込まれます。こう

して悪魔は、わたしたち人間が死と滅亡の道に進まないようにと与えられた神の命令

を、まるで神が意地悪でもして、神のごとくになることを拒むための命令であるかのよ

うに誤解させて、神に疑いを持つように仕向けていったのです。こうして人間は、神を

決定的に信頼しないようにいざなわれ、行き着いたのが神とその言葉に対する不服従で

した。神の戒めと命令に従わない心、つまり神の愛に対して、愛と信頼をもって応答す

ることを拒絶したのです。それによって神の愛を踏みにじっていったのでした。


 聖書が「罪」というとき、そこでわたしたちは、この神からのいちずで純真な愛を、

わたしたちが泥のついた靴で踏みにじったものであるということを思い起こすべきで

す。神の愛と信頼に対する裏切り、それがわたしたちの罪でした。このような罪を生み

出したのは、彼らが「神のように」なろうとしたからでした(創世記3章5節)。それ

は自分を神のごとく高めようとする高慢です。神の命令を破った決定的な理由は、自分

も「神のように」なろうとしたことでした。人間の罪の根・源は、高慢であり、自分を

「神のように」しようとしたことでした。実はそこから神の言葉を軽視し、それに従わ

ない心が生じたといってもいいでしょう。ですからこれらは一つの根から生じた同じ事

柄なのです。人間の最初の罪、それは高慢でした。そしてそれは自分自身を自分の主、

自分の神とし、自己神格化するという、つまり偶像礼拝なのでした。そして、その中心

にあったのが、わたしたちの「自己中心」な心と生き方だったのです。この「自己中

心」性こそ、人間の罪の本質なのでした。


3.堕落の結果もたらされたもの

 そこからもたらされたわたしたちの姿、それがここで表されている「責任転嫁」でし

た。神の前に出ることができないで隠れていたアダムは、どうして食べたのかとの問い

に、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたの

で、食べました」と答えます。そこで神は今度はエバに問うと、エバは「蛇にだまされ

たので、食べてしまいました」と答えます。自分の罪を自分で背負うのではなく、また

それを認めて謝罪するのでもなく、女が悪い、蛇が悪いと、責任を逃れ、罪を転嫁して

いきました。しかしここでアダムの答えによく注意していただくなら、ここでアダムは

自分の罪をただエバになすりつけただけではなくて、実はその責任を神に押し付けてい

るのです。ただエバとか、女がと言ったのではなくて、「あなたがわたしと共にいるよ

うにしてくださった女が」と言ったのです。「神さま、あなたがあんな性悪女をわたし

に押し付けるからいけないのですよ、あなたが寄り添わせたあの女のせいでひどい目に

あった、でもそれは元はといえば、あんな女をわたしによこしたあなたのせいです

よ」、これがアダムの答えでした。堕落して、もはや自分を中心に考えることしかでき

なくなった人間は、自分が向き合うようにと与えられた、最も身近な相手をなじり、否

定し、相手が悪いからだと責任転嫁するようになっていったのです。


 そしてそれはわたしたちの姿なのです。わたしがこんな罪を犯し、こんな悲惨な目に

あったのは、神さま、あなたのせいですよと、わたしたちはどれほど言い続けてきたこ

とでしょうか。こんな災いに遭ったのも、あなたのせいではないですかと、神を責めた

て、神を問詰するのです。そしてしまいには、そもそも人間が堕落し、罪を犯すように

なったのは、神のせいではないかと言い出すのです。神がわたしたちとの本当の愛の関

係を願って、わたしたちに完全な自由を与えたのは、間違っていたのでしょうか。そこ

でわたしたちが神に罪を犯したのは、神がそのような不完全な状態にわたしたちを置い

たからだと言いうるのでしょうか。そうではなくて、わたしたちが、わたしたちを本当

に信頼して完全な自由を与えてくださった、その神の愛と信頼を裏切り、踏みにじった

のではないでしょうか。悪いのは、神ではなくて、わたしたちなのです。


 神は、「この木から食べると死ぬ」と言われました。それは、この神の言葉を信頼

し、それに服従するか否かが問われたもので、この神との約束と信頼関係を破ること

は、神との交わりの断絶であり、それが「死」でした。そしてこの、神との交わりの破

壊と関係の喪失こそ、罪によってわたしたちが得た報酬であり、堕落がもたらした結果

でした。そして神との関係が崩れたとき、男と女の関係、つまり本来は完全に平等で対

等であった関係に、上下関係・従属関係がもたらされるものとなりました。これは別に

男女間の問題ではなくて、すべての人間関係の象徴であり、神の前に同等な存在である

べき人間の間に、「支配と隷属」という関係がもたらされたことを表わします。それは

さらに自然との関係も破壊し、そこから取られたはずの土からも呪われたものとして、

そこに敵対関係がもたらされてしまいました。これらは決して神が意図されたことでは

なく、また神の呪いということでもなく、堕落の結果もたらされ、この世界に闖入して

きたものであり、今わたしたちが抱えている罪の現実を端的に象徴するものにすぎませ

ん。男が女を命名したとは、堕落の結果もたらされた「支配と服属」の関係を意味しま

す。命名とは支配関係を意味するものだからでした。こうして堕落した世界に支配と隷

属の関係がもたらされるようになり、人間はこのエデンの園から追放されることになり

ました。しかしそれと同時に、そこから神の救いの計画も開始されることになります

(16節)。神はどこまでも人間との交わりを求め、人間がそれを破壊しても、それをご

自身の方から開かれ、回復の道を開始しようとされたのです。


 最初の人間が最初の罪を犯して、神から隠れたとき、神は彼らに呼び掛けられまし

た。「どこにいるのか」と(9節)。これは神がアダムの居る場所を知らなかったとい

うことではありません。そうではなくて、神は今や神から離反してしまったアダムに対

して問いかけたのです。あなたが今いる場所は正しい場所か、あなたが居るべき場所な

のか、なぜわたしから離れてしまったのか、あなたが居るべき場所はわたしの許ではな

いのかと。そしてこの神の呼び掛けは、今でもあなたに向けられています。「あなたは

どこにいるのか」、あなたはわたしと離れて、神なしに生きているが、それで本当に良

いのか。神なしに、神抜きで生きるあなたの人生は、あなたの正しい居場所なのかと。

この神の悲痛な呼び掛けに応えて、あなたも今すぐ神の方に身を向きなおり、神の許に

立ち帰ってください。神は今でもあなたに呼び掛けておられます。「あなたはどこにい

るのか」と。