第4講 神の像に想像された人間とその堕落

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第4講 神の像に創造された人間とその堕落(問6)


問6 それでは、神は人をそのように邪悪で倒錯したものに創造なさったのですか。


 いいえ。むしろ神は人を良いものに、また御自分にかたどって、すなわち、まこと

の義と聖において創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知

り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美する

ためでした。


1.神は人間を善いものとして創造された

 エフェソ2章10節に、「わたしたちは神に造られたもの」と書いてあります。すると

どうしても、この質問が出てきます。それではどうして神は、こんな不完全で不十分な

ものを造られたのかということです。しかし聖書は、それに、いいえ、神は不完全なも

のを造られたのではなく、完全で素晴しいものをお造りになったと答えます。「むしろ

神は人を良いものに、またご自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において

創造なさいました」。神はわたしたちを、不完全どころか善いものとして造られた、し

かも何が善いかといって、最も善であるご自分に似せて、完全なご自分にそっくりに

造ってくださったと答えるのです。しかもそれは、「人が自ら造り主なる神を正しく

知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美す

るため」だったと、最初の人間は「神御自身に似せられた者として創造され、善き者と

してまた従順な者として創造され」ました。天地万物を創造された神は「我々にかたど

り、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、そこで「神は御自分にかたどって人を創造

された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります(創世記1章

26、27節)。それではこの「神の像に造られた」、それが何を意味するかが大切です。


 神の本質は「愛」です。しかし「愛」は、自分ひとりでは成り立ちません。そこに

「愛する対象(客体)」がなければ、自分が「愛する主体」となることはできないから

です。「愛する者」と「愛される者」がいて、初めて愛は成り立ちます。「神は愛であ

る」(1ヨハネ4章16節)とは、神がただお一人のご自身の中で、御父・御子・御霊と

して互いに深く愛し合い、愛の絆に結ばれて交わりをもっておられることを意味しま

す。唯一の神は、ご自身の中で互いに深く愛し合い、親しい交わりの中に生きておられ

る神です。唯一の神は孤独で寂しい方ではなく、ご自身の内で溢れ出るほどの愛で愛し

合い、交わりの中に生き、深い絆で結び合わされています。だから「神は愛」なので

す。この神に似せて造られたとは、人間も「愛と交わりの中で生きる存在」として、

「愛に生きる」ものとして創造されたということなのです。神の愛に対応し、それに応

答して愛し返すものとして人間は創造されたということです。そしてこの愛の神に対応

して、人間が「男と女」に創造されたとは、人間同士も、互いに向かい合い、相手に近

づこうとして相手に向かいながら、互いに愛しあい、交わりに生きるものとされたとい

うことです。そこで神の愛に応答し、互いが愛し合って愛の交わりに生きるように、そ

れに必要な力と資質も与えられました。人間は互いに愛し合って、交わりを形成し、維

持し、深めていくための力、それが与えられていました。「神の像」とは、人間がこの

人格的応答関係、すなわち「愛と交わり」の中にあるということであり、それに必要な

力と資質のことを指します。このように人間とは、本来孤独な存在ではなく、本質的に

交わりの中に生きる者として創造されたのです。心が少しも触れあうことなく、機械的

事務的に互いが交流(それはもはや交流とは言えませんが)し、適当に当り障りなく付

き合うようになったのは、ましてや人間関係が重荷になり、心の病の原因となり、心を

圧迫してストレスになっている現実は、人間の本来の姿でも在り方でもありません。真

実に誠実に互いを受け入れあい、認めあって、互いの交わりが喜びとなる関係、そこに

人間は生きる者とされたのでした。


2.善悪の知識の木とは

 そこでよく考えていただきたいのは、「愛」とはどこまでも自由で自発的なものでな

ければならないということです。愛することを強制されたり、そうすることしかできな

い、そうせざるを得ない中で求められる愛は、本当の愛ではありません。だから神は、

わたしたちからの真実な愛、つまりわたしたちの方から神に向かい、神の愛にわたした

ちが心から喜んで答えていくような愛を求められたのです。そこで神は、人間にご自分

への愛を強要したり、強制したり、愛することしかできないような、非人格的なロボッ

トのようには造られませんでした。わたしたち人間にご自分を愛することもできるし、

しかし愛さないこともできる、どちらも自分で自由に選ぶことができるような、愛する

か愛さないかを選ぶことができる全くの自由を与えて、その上で、人間自身の方からご

自身を喜んで自発的に愛してくることを願われたのでした。それは神が、人間を堕落し

てしまう不完全なものとして創造されたということではなく、人間からの純粋に人格的

な愛を求められたということであり、そのための真の自由を与えられたということで

す。その自由のないところでは、つまり人間に、神を愛することもできるが、愛さない

こともできる、神の愛を拒絶し、拒否する自由のないところでは、その愛は本当の愛、

人格的な愛とはなりえないからです。そうしてまでも神が求められたのは、わたしたち

人間からの、本当に自由で自発的な、心からの愛をもって愛し返されるということなの

でした。


 もちろん神は、人間を天使のように造ることもできました。つまり、ただ神に一方的

に仕えるだけの、服従するだけの存在としてです。天使には選択の余地はありません。

ただひたすら神の御心に従い、それを実現することだけが彼らの使命とされました。し

かし人間は、そのようには造られませんでした。人間が天使と違い、また動物とも違

う、根本的な違いは、創造の最初に自由な意志を、しかも完全に自由な意志を与えられ

たことでした。それによって神はわたしたちが、神に強制されてではなく、またそうす

ることしかできないように造られたのでもなく、神を拒絶する完全な自由を与えられた

上で、それでもなお神を喜び、賛美し、心から愛して、自発的に自分の方から神に仕え

ていくようになる、そのような愛で愛し返してくることを願い求められたのでした。そ

してこのように神が人間を愛しておられ、人間からの全く自由で自発的な愛を求めてお

られることの目に見える「しるし」として与えられたのが、「善悪の知識の木」でし

た。わたしたちは、この「善悪の知識の木」をいささか誤解しているかもしれません。

神がこのような試練、いや誘惑さえ与えなければ、人間は堕落することがなかったので

はないかと心のどこかでかんぐってはいないでしょうか。堕落してしまった今となって

は、この「善悪の知識の木」の存在は、わたしたちには罪への誘惑としか見ることがで

きませんが本来はそうではありませんでした。


 たとえて言うなら、これは「結婚指輪」のようなものでした。神はここでわたしたち

と新しい関係を結ばれ、新しい交わりへと招かれました。これまでは、創造主と被造物

という上下関係、主従関係でしかありませんでしたが、神はそれを人格的な交わりの関

係としようとされたのです。それは互いに相手を信頼しあい、相手を心から愛するとい

う関係でした。信頼するとか、愛するとは具体的なもので、信頼の具体化は相手の言う

ことを信頼し、それに従うことです。愛の具体化は相手が期待し、望むことを実現しよ

うとすることです。相手が喜ぶことを喜んでしてあげようとする、そこに相手への愛が

表されます。相手の喜ぶことが自分の喜びになる、それが愛です。だからデートのと

き、相手が好きな色の服を着たり、相手が好む服装をしようとします。相手が行きたい

ところに連れて行ってあげ、相手が食べたいと思うものを一緒に食べ、相手が喜ぶもの

をプレゼントします。それは束縛でも、呪縛でもなく、自分が相手に心からそうしてあ

げたいと思う自分の意志であり、それによって相手が喜んでくれることを願うと共に、

その相手の喜びが自分の喜びともなるのです。そして相手がしてほしくないと思うこと

は自分もしようとはしません。相手から嫌われたくないからです。このように相手が言

うことを信頼し、それに従いますが、それは隷属することでも、相手の奴隷となること

でもありません。愛しているから、それは自分の喜びとなるのです。そしてそのような

関係を表したのが、「善悪の知識の木」なのでした。


3.神からの愛と信頼のしるしである「善悪の知識の木」

 教会で結婚された方の多くは、相手と結婚指輪を交換し合ったときに、互いに誓約を

したはずですが、それはその時いやいや仕方なくしたのでしょうか。そうしなければな

らなかったからと、無理強いされてしたのでしょうか。その時には、心から相手に誓約

したのではないでしょうか。そしてその時そこで相手に誓約したことは、自分にとって

制約となり、呪縛と感じたでしょうか。いいえ、心からそうしたいと願って、誓約した

はずです。なぜなら相手を心から愛していたからです。指輪をはめることで、わたした

ちが誓約したことは、「これからはどんなことがあっても、あなたを愛します。あなた

だけを愛し、他の人には心を向けることも、心を揺るがされることもありません。たと

え貧しくなって生活が苦しくなっても、たとえ病気になってあなたの世話に一生苦しむ

ことになったとしても、それでもあなたを愛しぬき、ただあなただけを愛していきま

す」ということでした。結婚した後、そこに魅力的な異性が現れてくるかもしれませ

ん。心がふらつくような人が現れるかもしれない、でもそこできっぱりと宣言したので

す。「あなた以外のどんな人にも心を寄せたり、思いを馳せたり、心を向けることは絶

対にしません」と。それが指輪を交換しながらした誓約であり、その見えるしるしが結

婚指輪でした。その時、それを仕方なくしたのでしょうか。いいえ、少なくともあの時

は心から誓い合ったのです。その時その誓約をすることは義務であるとか、負担である

とか、強制だと考えたでしょうか。いいえ、心からの喜びをもって本心からしたはずで

す。そしてそれが「善悪の知識の木」なのでした。


 だから堕落する前の人間は、それを誘惑に思ったり、義務や強制と感じたり、負担と

思ったりしたことはなかったのです。むしろそれを見る度に、神が自分を心から愛して

くださっていることを覚えることができ、神の愛を確信して、いよいよ心から神に仕え

ていこう、神を愛し返していこうと心に誓わせるのでした。結婚当初のわたしたちが、

指輪を見て、それを恥ずかしがったり、独身の異性の前で隠そうとしたりしないで、む

しろ誇らしげにそれをつけ、それを決してはずそうとはしないようにです。またこの指

輪を、束縛や呪縛だとは決して考えないようにです。最初の人間も、善悪の知識の木を

見上げるたびに、そこで神との約束を思い返して、繰り返し神の言葉を信頼し、神の命

令を尊重して、それに自発的に服従し、神からの愛と信頼に心から喜んで応えていくこ

とを心に誓うのでした。なぜならそこでは神を心から愛していたからでした。善悪の知

識の木、それは神の愛の象徴であり、同時にわたしたちからの愛の約束と信頼の象徴で

した。神は、エデンの園に、「善悪の知識の木」一本だけしか生やさず、それを見せび

らかしながら、その実を食べてはいけないと言われたのではありません。そうではな

く、園には数え切れないほどに無数に木が生やされ、そこには十分すぎるほどたわわに

実がなっていたのです。そして神は人間に、「園のすべての木から取って食べなさい」

と言われたのでした(創世記2章9、16節)。生きていく上でも、さらには楽しむ上で

も十分すぎるほどの木の実を、あふれるほど豊富に与えた中で、約束を結ばれたのでし

た。それらの木の中の、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると

必ず死んでしまう」と(同17節)。


 ここで神が「死ぬ」と言われたのは、「善悪の知識の木」の実に毒が入っているとい

うことではなくて、それはどこまでも約束であり警告でした。つまり、「善悪の知識の

木」の実を食べれば、「必ず死ぬ」という神の言葉を心から信頼し、そこから「決して

食べてはならない」という神の言葉に服従する、そうすることで神を心から愛し、信

じ、従うことを表すということでした。愛は、愛する相手の思いを尊重し、その思いの

中で生きていこうとさせていきます。相手が自分に期待し、願うことを、心から喜んで

実現し、果たしてあげたいと願うものです。そうやってわたしたちは、自分の相手に対

する「愛」を見える形で表します。それが「善悪の知識の木」でした。わたしたちは、

ここで神と結んだ約束を、自発的に自分の方から喜んで守り、実践することによって、

自分がどれほど神を愛しているかを表すことができたのです。そしてそれを破れば、必

ず「死」を招くことを真剣に受け止めて、心からそれを避けることによっても、神への

愛と信頼と服従を表すのでした。「死」とは、命の源であり、生そのものである神との

分離であり、断絶です。神の信頼を裏切り、神との約束を破ったとき、神との関係も切

れました。それが「死」なのです。神は、人間を死へといざない、罪を犯させて堕落さ

せるために、この「善悪の知識の木」を生やさせたのではなく、どこまでも人間が神を

心から信頼し、自発的な愛で神を愛しぬいていくことを願い、信じ、信頼して、この約

束を結ばれたのです。そして人間が決して死ぬことがないために、神との愛の関係が断

絶してしまうことがないようにと、真剣な警告をもって、この約束を結ばれたのでし

た。