第4講 交わりの神

第4講 「交わり」を求められる神

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず。炎はあなたに燃えつかない」

イザヤ書43章1、2節

1.わたしたち人間との「交わり」を求められる神
 まことの神が「天地の造り主」であるとは、わたしたちが神に造られた存在として、神との関わりに生きる者であり、神を離れて、神なしに生きることはできず、神に依存して生きているということでした。しかしさらに神が天地を造られたとは、神がわたしたちとの「交わり」を求められたということを聖書は明らかにします。神がこの世界を造られたのは、わたしたちと交わりをもつためでした。つまり、神の天地創造は、それ自体が、神からの人間に対するいわばプロポーズ(求婚)なのです。この世界は、神とわたしたちの「交わりの舞台」として造られたものでした。そして神の創造の業の中心は、わたしたちとの「交わり」にありました。人間は、本来そのような者として、つまり神と交わりをもつ者として、造られたのでした。神ご自身が、父と子と聖霊の生きた交わりの中に生きる方で(それを「三位一体」といいます)、その神、つまり交わりに生きる神に似せて、「神の像」に人間は造られたわけですが、それは、人間がその本質において、「交わりの中に生きる存在」であることを意味します。神との交わりと隣人との交わりの中に生きる存在として、人間はそもそも造られたのでした。

こうして神は、わたしたちとの交わりをもつために、この世界とわたしたちとをお造りになられたのでした。ある神学者は、「神を信じるとは、あなたがもうひとりぼっちではないということだ。あなたは孤独ではないということだ」と、言いました。神はわたしたちとも交わりを求めて、この世界を造られ、あなたをも造られました。それはご自身との生きた交わりの中に、わたしたちを招き入れるためでした。神は今も、わたしたちに「わたしと共に生きよう」と呼び掛けておられるのです。天地を造られた神の創造を信じるということは、神がわたしたちとも交わりを求め、その交わりへと引き入れてくださったこと(それが契約)を信じることなのでした。神との交わり、それが聖書がわたしたちに約束する、まことの祝福なのです。

2.神との「交わり」に生きるように造られた人間
 ですから人間は、その創造の最初から、神と「交わり」をもつ者として創造されました。最初の人間は「神ご自身に似せられた者として創造され、善き者としてまた従順な者として創造され」ました。天地万物を創造された神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、そこで「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」のでした(創世記1章2627節、9章6節)。「神に似せて」造られたとはどういうことでしょうか(5章1節)。どの点が神と人間は似せられているのでしょうか。それは「人格」を持つ存在として、互いが愛と信頼によって応答しあう「人格的対応関係(交わり)」の中に置かれたということです。

 聖書が啓示する神とは、「三位一体」の神です。その神の本質は「愛」です。「神は愛である」(1ヨハネ4章16節)とは、神が愛という属性(性質)を持っているということではなく、神とは愛そのものであり、愛する人格的主体ということです。なぜなら神はただお一人のご自身の中で、御父・御子・御霊として互いに深く愛し合っておられ、愛の絆に結ばれて交わりを持っておられるからです。聖書の神は唯一の神、ただお一人の神ですが、それは孤独な一人ぼっちの寂しい神なのではなくて、ただお一人のご自身の中で深く愛し合い、親しい交わりの中に生きておられる生ける神なのです。唯一の神は孤独で寂しいから、この世界と人間を造られたのではなく、ご自身の内で溢れ出るほどの愛で愛し合い、交わりの中に生き、深い絆で結び合わされています。だから「神は愛」なのであり、愛そのものなのです。それが「三位一体」の教えなのです。

 そして人間が「神に似せて造られた」とは、神ご自身が「愛と交わり」において生きておられるように、人間もこの神との「愛と交わりの中で生きる存在」として創造されたということでした。神の愛に対応し、それに人格的に応答する存在として人間は創造されたということです。ご自身が互いに向き合う存在として「三位一体」であられる神に対応して、人間も互いに向き合う存在として「男と女」に創造され、「愛に応答し、交わりに生きる存在」とされたのでした。そこで神の愛に応答し、互いが愛し合って愛の交わりに生きるように、それに必要な力と資質を与えられました。それは人間が「人格的主体」であるということであり、神と隣人を愛し、真実をもってその愛に応答するための「知性・感情・意志」を備えているということです。互いに愛し合って、交わりを形成し、維持し、深めていくための力が与えられていました。「神の像」とは、人間がこの人格的応答関係(交わり)の中にあるということであり、それに必要な力と資質のことを指します。こうして最初の人間は、律法の本質である「神と隣人を愛する」ことができる力と資質を十分に与えられていたのでした。

3.人格的な愛の応答をする神と人間の関係-善悪を知る木
 ところで愛とは、自由で自発的なものです。強制され、そうせざるを得ない中での愛は、本当の愛、人格的な愛ではありません。人間からの真実の愛、人格的に応答する本当の愛を求められた神は、人間にご自身への愛を強要したり、愛することしかできない非人格的なロボットとして造られませんでした。人間にご自身を愛するか愛さないかを選ぶことができる全くの自由を与えられて、その上でご自分を愛するようにと求められ、招かれたのでした。それは神が人間を堕落してしまう不完全なものとして創造されたということではなく、人間からの純粋に人格的な応答としての愛を求められて、その自由を与えられたということです。神は人間からの、本当に自由で自発的な愛をもって愛し返されることを求められたのです。それは「人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美する」者として造られたということでした。神が人間に求められた愛の応答とは、このようなものでした。

 人間は、「善き者としてまた従順な者として創造され」ましたが、それは神の言いつけを従順に果たすだけの非人格的な存在として造られたということではありませんでした。神の御心また善とは、神を全身全霊をもって愛し抜くということで、自分の方から自発的に喜びと感謝と信頼と畏れをもって神を仰ぎ、神を愛するということに他なりません。外面的には言いつけに従順でも、心が遠く離れているということがあるように、単に言いつけを守って良い子でいるということではなく、真実に心から神を愛するゆえに、神の願い求めることが自分の思いとなり心となって、喜んでそれを果たすようになる、そのような愛に裏打ちされた従順を神は願われました。愛する人のためには、どんな犠牲を払ってでも成し遂げてあげたいと願うそのような熱い思いと、相手への心からの愛から生じるところの熱心、そこから生み出される自発的な服従、それが神の願っておられたものでした。強制されてではなく、愛されることで自然に生み出されて来る愛と信頼の応答、それこそが神が求められた人間との関係なのでした。

 こうして神からの愛を信頼し、神の愛と信頼に応えて愛し返していく「愛の関係(交わり)」の中に置かれた人間は、そのことの「しるし」として「善悪を知る木」を与えられ、エデンの園に無数に生えている木の中で、たった一本、神との愛と信頼のしるしとなるその木からは取って食べないという約束を与えられたのでした(創世記2章17節)。それは人間が神からの愛を信頼して、神の戒めを守り、それに喜んで従い、神への愛から自発的に服従するためであり、その証拠として「善悪を知る木」が置かれ、それを見る度に神との約束を思い出して、繰り返し神を愛する決意の中でそれに従うということを求めてのものでした。それは人間が神を心から愛し、信頼して生きることの具体化として、神の御言葉に従って生きるという、神に人格的に応答することの具体化として与えられた「約束(契約)のしるし」なのでした。こうして神がわたしたちに求められたのは、自発的で自由な心からの愛であり、その愛から生み出される信頼と畏れと服従だったのです。そのような生き生きとした人格的な応答と交わりを、神はわたしたちとの間に願われたのでした。このような交わりを、被造物にすぎない人間との間に求められることに、神の側の「へりくだり」があります。神は人間の次元にまでご自身をへりくだらせ、降ってこられるほどに人間を愛し、その人間との交わりを願われたのです。その神の愛とは、ご自身を与えても惜しむことのない「自己譲与」の愛なのでした。