第15講 赦しの共同体として聖徒の交わりに生きる教会

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第15講 赦しの共同体として聖徒の交わりに生きる教会(問55~56)


問55 「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。


 第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と

賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と

救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならな

い、ということです。


問56 「罪の赦し」について、あなたは何を信じていますか。


 神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わ

なければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵

みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して、裁きにあうこと

のないようにしてくださる、ということです。


1.教会のかしらはキリストであること

神は、「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教

会はキリストの体」であると語られました。「キリストは教会の頭であり、教会はキリ

ストの体」であるとは、どういうことでしょうか。「キリストは教会の頭」であると

は、キリストこそが教会の源、起源、基であるということです。頭(ケファレー)と

は、「頭」の他に「源、源流」という意味があります。泉の源、小川の源流というよう

に、やがて大きく拡がっていくものの源泉です。「キリストは教会の頭」とは、キリス

トこそが教会の源泉、源であり、キリストによって生み出されたものが教会だというこ

とです。教会は、「御子の血で贖い取られた神の教会」で(使徒20章28節、口語訳)、

御子の贖いの御業によって生み出され、呼び集められたものでした。誕生がキリストに

由来し、その起源をキリストに負うだけではなく、その維持と持続もキリストに依存し

ます。源泉がキリストであるとは、教会はその生命の源を繰り返しキリストから受けな

ければ成り立ちゆくことができないということでもあります。教会の存続も生命もキリ

ストです。


 さらにキリストが教会の頭であるとは、教会の主人、所有者がキリストであるという

ことです。教会は他の誰のものでもなく、キリストご自身のものです。わたしたちのも

のではなく、わたしたちの好みに従って作り上げるものではありません。私物化しても

いけません。自分の教会という意識が、自分のための教会、自分に合った教会とするな

ら間違いです。教会はキリストのものです。牧師のものでも、特定の教会員のものでも

ありません。教会はキリストがご自身の尊い血によって買い取られた、キリストご自身

の所有です。ですから教会の主はキリストであって、教会はキリストのみに聞き従わな

ければなりません。「羊はその声を聞き分ける。羊はその声を知っているのでついて行

く」(ヨハネ10章3、4節)とあるように、教会は自分の羊飼いの声だけに聞き従いま

す。教会はその歴史の中でこの世の声や強い人の意見になびき、キリストに聞くことが

なくなることがありました。またキリストの言葉を聞いても、それに従わずに、別の言

葉に従うこともありました。教会のボス的存在が教会を支配し、牛耳ることもありまし

た。しかし教会は繰り返し次の宣言に心をとめなければなりません。「聖書において

我々に証しせられているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死にお

いて信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」(バルメン宣言)。教会がキリストの

言葉のみに聞き、また服従すべきということは、教会はキリストの命じられることのみ

を行うということです。この世が要求し、この世が好むことではなく、またわたしたち

がしたいことを為すのでもなく、教会の頭であるキリストが求め、要求し、願い、命令

されることを行う、それが教会なのです。キリストは「教会として実存される」方とし

て、教会はキリストの地上における手足です(ボンヘッファー)。教会はキリストの体

として、地上においてキリストの使命を代行するための器官、肢体です。教会はキリス

トが望み願うことを、キリストに代わって代行し、頭の命令に服従して手足が動くよう

に、頭なるキリストの命令だけに服従して働きます。


2.教会とキリストとは一体であること

 キリストは教会の頭、教会はそのキリストの体として、キリストと教会とが一体とな

り、有機的に結びつけられています。キリストと教会とは一体なのです。かつてパウロ

が教会を迫害したとき、主イエスは彼に「なぜわたしを迫害するのか」と問われること

で(使徒9章4節)、主イエスはご自身と教会とを同一視されておられることを明らか

にされました。教会への迫害は主イエスご自身への迫害となることで、主は教会に起こ

ることがご自身のことであるとされたのです。教会に起こる悲しみ、争い、痛みは、そ

のまま主イエスご自身の悲しみ、争い、痛みとなります。教会の肢体であるわたしたち

一人一人に起こることは、キリストご自身に起こることで、こうしてキリストは教会に

臨在されるだけではなく、深い慰めと痛みをもって教会に連なるわたしたち一人一人と

連帯してくださり、ご自身のこととして深く関わってくださるのです。今日のわたしの

悲しみはキリストご自身の悲しみとなり、今日こぼすわたしの涙はキリストご自身の涙

となってこぼれ落ちていくのです。そのような深い絆と一体化をもって、わたしとキリ

ストとは結びつけられ、また教会とキリストとが一体とされているのです。わたしたち

の体は、指先を少し切っただけでも、全体が傷みを覚え、心が弱ります。そのようにご

自身の体が傷つき、弱り果てることは、頭なるキリストも傷つき、弱り果てることで

す。このような深い結びつきと一体化をもって、わたしと教会がキリストと一つにされ

ていることを覚えたいと思います。


3.一つのものを分かち合う「聖徒の交わり」

 教会の交わりは、このかしらなるキリストと共なる交わりであり、キリストによる交

わりです。「交わり」(コイノーニア)とは、一つの物を共有しあう、分かちあうとい

う言葉です。単に親愛の情を持つという情緒的なことではなく、具体的に何か一つのも

のを共有し、分かちあうことから生まれます。また分かちあっていることが交わりなの

です。教会の交わりとは、教会のかしらであり、唯一の救い主である教会の主キリスト

を分かちあい、共有しあう交わりです。そしてこの神の御子キリストは、ロゴスなる

神、つまり神の御言葉でもあられる方です。ですからキリストを共有し、分かちあうと

は、神の御言葉を共有することです。その神の御言葉は、二つの形態で、礼拝の中で分

かち合われます。「語られる」神の御言葉である聖書朗読、またその説き明かしである

説教と、「見える」神の御言葉である聖礼典です。わたしたちは礼拝において、語られ

た神の御言葉をもってキリストご自身と交わり、またキリストにある相互の交わりを持

ちます。同時に、それを見える形で、聖餐として表わすのです。教会の交わりは、あの

「一つのパン」を共有し、分かちあう交わりなのです。一つのパンを裂き、それを皆で

分かちあう、このことが聖餐にとって重要なことなのですが、そうしてわたしたちは、

繰返し教会の交わりを確認し、味わっています。「生命のパン」であるキリストを分か

ちあうことに、わたしたちの交わりの一致点があり、それがわたしたちの交わりなので

す。そこでこの語られた言葉を効力あるものとして、わたしたちに語らせ、また聞かせ

るように心に働きかけるのは聖霊であり、さらに分かちあったパンとぶどう酒を、信仰

の目をもって見、味わうようにさせるのも聖霊です。こうして聖霊は、礼拝において、

神の御言葉であるキリストご自身と交わりを持たせ、キリストを分かちあうわたしたち

の交わりをも形造ってくださるのです。そのために聖霊は、教会に満ち溢れて臨在し、

内住してくださるのでした。


 教会が「一つ」であるのは、「キリストの身体」であるからです。そしてわたしたち

は「その群れの生きた肢体」として組み合わされることによってのみ、教会は見える形

でも、その一致と一つ性を表わし、有機的に形成されていくのです。それが「聖徒の交

わり」として告白されていることです。そこでは、「わたしがその群れの生きた部分」

(問54)として、「主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている」という

ことであり、また、「他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があ

ることをわきまえ」るということです(問55)。「聖徒の交わり」とは、わたしたちが

同じキリストの肢体として、互いに仕えあうということであり、そのためにそれぞれの

賜物を分かち合うということです。それを成り立たせていくのが、一つの糧であるキリ

ストに共にあずかり、一つのパンを分かち合うということであり、それは御言葉を共有

するということなのです。そのようにわたしたち一人一人にキリストをあずからせ、キ

リストとの交わりにあずからせると共に、それを基として相互の交わりを与え、交わり

へとあずからせていくのは聖霊なのです。


4.罪の赦しを前提とした「聖徒の交わり」としての教会

 この教会が「公同」であると告白します。いつ、どこにあっても同じ、そのようにし

て普遍的な教会ということです。なぜなら教会は一つだからです。その一つの教会は

「まことの信仰」において一致する教会であり、「世の始めから終わりまで・・・永

遠にそうありつづける」教会です。「聖徒の交わり」は古来「諸聖人の通功」とされ、

聖人が教会に預けた余剰の功績を分かち与えられることと理解されてきました。それは

功徳の分配という物質的な理解でしたが、それを聖人ではなく聖徒、信徒の人格的交わ

りと理解し、それがプロテスタント教会論の基礎となりました。ルターの宗教改革は、

功徳の分配に見られる教会(贖宥の効力)への批判から始められました。ここでルター

が批判したのは、腐敗し堕落した教会ではなくて、むしろ絢爛豪華で立派な教会でし

た。当時最も厳格な修道会に属して、徹底的に厳格に戒律に従って生きようとしたル

ターが、そこで見、発見したことは、神の義、神の栄光ではなく、人間の義、人間の栄

光でした。人間が立派であればあるほど、そこに最も巨大な罪がひそむことでした。神

の前にさえ立ちおおせる人間の義と、そこにある驕り高ぶり、高慢、それは人間の自己

義認の姿でした。そこからルターが再発見したのが、神の義です。人間は己の立てる義

によっては救われず、ただキリスト御自身の義によってのみ救われ、その義はキリスト

が獲得し、キリストから与えられるものに他ならない、そして教会とは、自分の義では

なく、このキリストの義によって救われ、召し集められた者の交わりなのである、とし

たのです。ですから教会が聖なることと、聖徒の交わりと、罪の赦しとは切り離すこと

ができないのです。教会とそこに集う聖徒の交わりは、罪の赦しの自覚を前提とし、自

らが罪人であるとの認識から出発するからです。どこまでも罪人にすぎない自分を、と

ことん赦してくださる神の恵みと憐れみの前に、ただひれ伏すばかりのへりくだりか

ら、神への奉仕と隣人への奉仕が始められるからです。キリストを分かち持つ交わりと

は、自らが罪赦され、また赦され続けなければならない罪人であるとの自己認識を前提

とし、罪の赦しに必要なキリストを互いに媒介とする交わりなのです。


 こうして「聖なる公同の教会」とは、「罪の赦し」を前提とする「聖徒の交わり」で

す。そこから互いを己より高しとし、尊敬し、仕えていく在り方が生み出されます。そ

こで古来教会が、交わりを物のやり取りと理解したのは、意味のないことではありませ

ん。使徒言行録にみられるように、困った者や困窮した者への具体的な物のやり取りで

あったことは、忘れられてはなりません。その交わりとは、具体的な援助を伴う、具体

的な交わりでした。物のやり取りによって具体化された、愛の行いでした。問答は、聖

徒の交わりが、キリストとその富、賜物にあずかることであり、それは他の部分の益と

救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえるものであると告白

します。教会が一つのものであり、聖なる教会であり、罪の赦しに生き、聖徒が交わる

ところであるのは、まさにここにおいて具現され、明らかにされるのです。