第14講 聖なる交わりに生きる公同の教会

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第14講 聖なる交わりに生きる公同の教会(問54)


問54 「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。


 神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ

を、御自身の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の始めから終

わりまで集め、守り、保たれる、ということ、そしてまた、わたしがその群れの生き

た部分であり、永遠にそうありつづける、ということです。


1.教会が聖であること-教会の「聖」の源は聖霊

 「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」について、『使徒信条』はこの二つの箇条

を切り離さないで告白します。なぜなら「聖なる公同の教会」とは、「聖徒の交わり」

だからです。教会は「聖なる」教会であり、「聖徒」の交わりなのです。しかし実際の

教会を省み、そこに集う者たちを省みる時、果たしてそれが「聖」であると言うことがで

きるでしょうか。実際に見える教会はみすぼらしく、貧しく、弱く、汚れに満ちていま

す。しかしパウロは、たとえば様々な混乱に乱され、道徳的にも乱れていたコリントの

教会を指して、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者

とされた人々」と呼び掛けたのでした。ここでの「聖さ・聖性」は、彼ら自身のもので

あるよりも、彼らをそのようになさしめていく聖い霊、聖霊のものであるということが

大切です。聖霊は、わたしたちに内住され、わたしたちを「聖霊の宮」とされます。そ

こで「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(1コリント

6章19節)と言われるとき、それはわたしたち個人個人のことを指すだけではなくて、

「キリストのからだなる教会」を指します。聖霊の内住は、なによりも教会における内

住であり、聖霊は教会に満ち満ちておられます。そして教会の聖性は、この聖い霊に

よって保たれるのでした。キリストを罪の腐敗から聖めた聖霊は、そのからだである教

会をも罪から守り、聖められるのです。教会は代々にわたって「聖なる公同教会」を信

じ告白してきました。またその教会につらなるわたしたちは「聖徒」と呼ばれます。し

かし地上の教会は、およそ「聖なる教会」ではありませんし、わたしたちも「聖徒」と

いえるような人間ではありません。それでも教会が「聖」であり、わたしたちは「聖

徒」であるのは、この「聖さ」が、そこに集うわたしたちの「聖さ」に基づくものでは

なくて、教会に内住される「聖なる御霊」の聖さに基づくものだからです。わたしたち

が、不完全で罪深い人間であるにもかかわらず、それでもなお「聖徒」であるのは、わ

たしたちの内に住まわれる聖霊のゆえです。そして聖霊は教会とわたしたちの内に住ん

で、教会とわたしたちを内側から造り変え、ご自身の聖さにあずからせてくださるので

す。それにより、「遂に神のみ前に完全に聖くされる」のであり、そうして教会は「聖

なる教会」として、「キリストの花嫁」にふさわしく整えられ、装わせられるのです。


2.選ばれた者の群れとしての教会

 この教会は、「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた

一つの群れ」(問54)だと言われます。聖書で教える「聖」とは、聖別する、つまり他

から取り分けて区別するという意味です。特別な用途や目的のために取り分けることで

す。神のために他から区別され、神のために用いられるものとなったということです。

それがここで言う「選び」でした。わたしたちは、神のためにこの世から取り分けら

れ、もっぱら神のために働き、生きる者として召し出され、そのためにこの世から選ば

れたのです。そこでの「聖さ」は、わたしたち自身の聖さではありません。わたしたちが

どれだけ立派な生活を送っているかということで、その聖さが決められるのではないの

です。むしろ罪人のかしらにすぎないわたしが、神に選ばれ、神のために生きる者とさ

れたのです。このように教会の「聖さ」は、罪人を聖められる神の働きに依存し、罪の赦

しを前提として、罪人をさえ聖められる神御自身の聖さなのです。教会の「聖さ・聖

性」は、この神の「選び」に基づきます。教会とは、「永遠の命へと選ばれた一つの群

れ」です(問54)。そしてこの「一つの群れ」は、「ご自身の御霊と御言葉とにより、

まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる」(問

54)のです。


3.一つの御霊による一つの教会

 この教会は「公同」であると告白されます。「公同」とは、いつ、どこにあっても同

じ、そのようにして普遍的な教会ということです。なぜなら教会は「一つ」だからで

す。教会は、「一つの群れ」なのです。そしてこの教会が「一つの群れ」として、一つ

であるということは、「まことの信仰の一致において」なのです。そしてここで教会に

「まことの信仰の一致」をもたらすものこそ、「ご自身の御霊と御言葉」なのです。教

会の一致は、信仰の一致ですが、それは御言葉によって、聖霊の働きによって与えられ

るものなのです。


 教会は聖霊が豊かに内住される「聖霊の宮」です。それでは聖霊はどのようにして教

会を満たし、充満されるのでしょうか。またそれは何のためでしょうか。それは教会

に、かしらであるキリストをもたらし、結びつけて、キリストとの交わりをもたらすた

めです。それは具体的には、礼拝においてです。聖霊はわたしたちをキリストと結合さ

せ、キリストへの信仰に至らせます。そのキリストとの生きた交わり、神との交わり

は、礼拝において実現するのです。わたしたち相互の聖徒の交わりも、この礼拝におい

て具現されます。こうして聖霊の教会での働きは、なによりも礼拝において働かれるの

であり、またそのために聖霊は礼拝を真に豊かなものになるように導かれるのです。聖

霊は人間に自由に働きかけうる方ですが、しかし常に御言葉と共に働かれることをよし

とされました。キリストを証しする聖書の背後にご自身を隠して、どこまでもキリスト

の真理を悟らせ、キリストへの信仰に至らせ、キリストを通して神との交わりにあずか

らせなさる方なのです。その出来事は御言葉の内に、御言葉と共に起こされていきま

す。御言葉とは、語られる御言葉としての説教と、見られる御言葉としての礼典のこと

で、それは礼拝においてなされます。こうして聖霊は、御言葉と礼典において、豊かに

キリストがそこに臨在され、その方へと教会を導かれるために、豊かに満たしてくださ

り、働いてくださるのです。語られる御言葉に力を与え、聞く者の心を開かせて効力あ

るものとするのは、聖霊です。あずかった水やパンとぶどう酒がいかなる意味を持つか

を悟らせ、それを効力あらしめるようにするのも、聖霊です。こうして聖霊は、礼拝に

おいて、その御言葉と礼典によってご自身の働きをなし、それを効力あらしめるように

働いてくださるのです。それによって聖霊によってキリストが現臨してくださり、生き

たキリストとの交わりをそこにもたらし、またキリストにあってわたしたち相互の交わ

りをも豊かにしてくださるのです。


4.聖霊による教会の一つ性

 a.教会の一致の源である聖霊

 このことをエフェソ書では、教会の一致と一つ性を「体は一つ、霊は一つ、一つの希

望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一」ということに根拠づけています。

つまり教会を一人のキリストの一つの体としている一つの霊が、「わたしたち一人一人

に、キリストの賜物のはかりに従って」(4章7節)恵みと賜物を与えておられ、それ

が相互に組み合わされて、成長するとして、「キリストにより体全体は、あらゆる節々

が補いあうことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分は分に応

じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく」(4章16節)と語られ

ていきます。そして「全体の益となるために」一人一人に霊の働きが現れ、賜物が与え

られます。教会の一つ性は、このようにして部分であり肢体であるわたしたち一人一人

が、その賜物に応じた働きをもって、教会を建て上げることに参与していくことによ

り、形造られ、形成され、成長していくのです。「体は一つでも多くの部分から成り、

体の全ての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様であ

る。あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」とあるとおりで

す。教会が、唯一の公同の教会であるとは、この地上の教会を建て上げ、「一つ」とさ

れる御霊が一つだからです。唯一の救い主を「教会のかしら」とし、「一つのキリスト

のからだ」が具現していくために、そこに「一つの霊」が内住してくださいました。一

人の人間には、一つの体と霊があって、それで一人を成り立たせているように、聖霊が

「体は一つ、霊は一つ」として(エフェソ4章4節)、「一人」のキリストのからだな

る教会として成り立たせてくださるのでした。霊が一つだから、体も一つ、つまり教会

も一つなのです。こうして「霊による一致」が、教会を一つのものとし、そこに公同の

教会を成り立たせていくのです。たとえ時代、人種、文化、言語、性別、職種などそこ

に様々な違いがあっても、それらが「一つの教会」であると言えるし、またそうである

のは、キリストのからだである教会を、一つのものとする霊が、一つの御霊だからなの

です。教会を一つのものとして、一致させていくのは、聖霊ご自身です。そしてわたし

たちが「その群れの生きた肢体」として組み合わされることによって、教会は見える形

でも、その一致と一つ性を表わし、有機的に形成されていくのです。それが「聖徒の交

わり」として告白されていることです。


b.多様な一人一人を一つにする聖霊

 ここでの「教会の一致」は、様々に分かれて存在する教会が、「一つの教会」である

ことを意味しています。それは見えるところ、歴史的にも空間的にも分裂したままで

す。様々な教派・教会として、教会は分かれていますし、それぞれの時代においても分

かれています。またすでに天に召された聖徒たちの群れである天の教会と、今、信仰の

戦いの最中にある地上の教会という形でも分かれています。しかしそれらの分裂してし

まっている教会は、ばらばらなのではなくて、一致した一つのキリストのからだなので

す。「その教会は、あらゆる時代、場所、人種、言語からなる様々な信徒によって構成

されています」。しかしその教会は、「唯一の主のもとに、一つ信仰、一つ希望、一つ

洗礼において一つとされて」いるのです。その「教会の一致」の要は、聖霊なのです。

この「教会の一致」は、様々に分立している地上の教会の一致というだけではなくて、

わたしたちがそれぞれに所属している各個教会、それぞれの群れにおける「一致」をも

指向するものでもあります。教会が「キリストのからだ」として表現されていること

は、意味深いです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づ

くっており、各自は互いに部分なのです」(ロ-マ12章5節)。ここでわたしたちをキリ

ストに結びつけ、一つのからだとして形づくるのは聖霊の働きです。「このキリストに

よってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」

(エフェソ2章18節)。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は

多くても、体は一つであるように一つの霊によって、皆一つの体となるために洗礼を受

け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」(1コリント12章12、13節)。「平和の絆で

結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです」(エフェ

ソ4章3、4節)。このように教会は霊的有機体です。外的組織や関係によって成り立

つのではなく、聖霊によって頭なるキリストと結びつけられ、また相互に結び合わせら

れることで成り立つ体です。聖霊は、そのキリストとの結合と相互の交わりを、形成し

ていく絆として働いてくださるのです。聖霊こそが、神とわたしたちとの、そしてわた

したち相互の交わりを成り立たせてくださる唯一の絆であり、わたしたちは聖霊によっ

てこの交わりに入れられていくのです。一つの御霊である聖霊こそが、教会の一致の絆

なのです。そして、その一致の絆として、一致をもたらしてくださる聖霊は、教会に内

住してくださるのです。