第11講 キリストの僕

第11講 キリストの僕として生きる

「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人々が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きることなのです」

2コリント5章15


「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」

ロ-マ14章9節

1.キリストを主として生きる人生-その御心に従う生き方
 「キリストの僕」として生きるとは、キリストを自分の「主」として、その主の御心に従い、キリストの望まれるままにその「手足」となって生きるということです。そのためには、まず主であるキリストの御心を知る必要があります。そしてその御心に従うように、自分を主に献げていくのです。そうしてわたしたちはその御心、すなわち「愛」の御業と隣人への奉仕へと遣わされていくのです。わたしたちが「キリストの僕」として生きるとは、キリストを自分の「主」として、その主の御心に従って生きるということです。わたしたちはイエスを「主」と呼びますが、それはこのイエスを「自分の主」とすることで、つまり「自分の主人をもつ」ということです。それは「自分は自分の主人ではない」ということでもあります。この点をきちんとおさえなければ、キリスト者としての生き方はできません。キリストを主と告白しながら、依然として自分を主として生き、自分の心の思いと願いのままに生きているなら、それはキリスト者とは言えないからです。主イエスへの信仰、イエスを主とする信仰とは、自分を含めたこれらの偽りの主に対して「否」をいうことなのです。イエス・キリストを主と仰ぎ、この方以外の何者をも自分の神また主としないとは、この方に倣って生き、この方の御心に従って生きるということなのです。
2.キリストの御心に従う生き方-キリストの御言葉に生きる
 それでは「キリストを主とする、キリストのものとして生きる、キリストの僕にふさわしい生き方」とは、どのような生き方なのでしょうか。それは神の御心に従って生き、キリストに倣ってキリストの御心のままに生きるということです。そのわたしたちの生き方の道標として与えられたのが、キリストの御言葉である聖書です。キリストの御言葉を信じ受け入れることで救われた(ローマ1017節)わたしたちは、そのキリストの御言葉に従って生きていくのです。神の御心は、そのキリストの御言葉である聖書に記されており、キリストの模範もそこに示されているからです。ですからわたしたちは聖書から離れて、キリストの僕にふさわしい生き方をすることも、それを知ることもできません。わたしたちは、命をもって救ってくださった方をさらによく知り、その方への愛と感謝のうちにその方に向かって生きるために、聖書に親しむ必要があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119105節)とあるとおりです。キリストの御言葉ぬきで、キリスト者としての生き方もありません。

3.毎日の礼拝(祈り)は信仰の呼吸
 ですからキリスト者として生きようとするわたしたちにとって、日ごとの聖書の学びと祈りは欠かすことができません。信仰とは「神との生きた交わり」であり、神との生きた交わりなしに信仰の成長はありえないからです。それは神からの言葉を聞き、それに応答して祈るということで、それによってわたしたちは霊的に呼吸し、信仰の命を養われていくのです。それはまずわたしたちの「養い」のために必要です。養われなければ成長はおろか、命を維持することさえできません。またわたしたちが道を間違えることなく、キリスト者として「ふさわしく歩んでいく」ために必要です。「日々の祈り」(毎日の礼拝)は、わたしたちの霊的成長にとって欠かすことができません。その日々の御言葉の学びの中で、わたしたちの信仰は養われ、その日歩むべき道を示されていきます。わたしたちが真実にキリストの御心に従い、その手足となって生きていくためには、日々の御言葉の学びは不可欠です。またわたしたちキリスト者は、神の御心に沿って生き、御心を実現するためにそれぞれの務めと働きを与えられて生きているのですから、それぞれの一日の働きを果たすためには、その前にまずわたしたちをこの世へお遣わしになる神御自身に、今日のわたしの生き方と働きを問い尋ねる必要があります。そのために「日々の祈り(毎日の礼拝)」が必要なのです。

4.キリストの僕にふさわしい生き方-キリストの心(愛)に生きる
 聖書では、わたしたちキリスト者の基本的な生き方を教えます。それは主イエスご自身がわたしたちに教えられ、また「新しい戒め」として与えられた「二つの愛の戒め」で(マタイ223440節)、それは「互いに愛し合う」ことに集約されます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ133435節)と主は言われました。ヨハネは「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教え」だとして、「互いに愛し合う」ことを勧めます(1ヨハネ3章11節-4章21節)。そして「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」と勧めます。隣人を自分のように愛することこそ、神への真実な愛を具体化させていくだからでした。パウロも「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」(ローマ13章8-10節)。そして「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただこの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、隣人を自分のように愛しなさいという一句によって全うされるからです」(ガラテヤ5章1、1314節)と呼びかけます。「互いに愛し合うこと」、これこそキリストの御心なのでした。

 こうしてキリストにある新しい生、わたしたちの「生」と「死」は、「生きている人々が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる」(第二コリント5章15節)ためのものであり、こうして「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ロ-マ14章9節)者として、これからの人生を歩んでいくのです。このようにわたしたちがキリストにある新しい生命に生きる者となるために、主は死んで下さったのでした。だから「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ」(ロ-マ6章13節)ていこうではありませんか。それが、キリストを「主」とお呼びして生きていく人生です。わたしたちが、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとし献げ」ること、つまり「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえる」(ローマ12章1、2節)こと、そのように生きるとき、キリストは真実にわたしたちの「主」とされていくのです。