第10講 主を信じる

第10講 主のために生きる人生

「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人々が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きることなのです」

2コリント5章15


「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」

ロ-マ14章9節

1.キリストを受け入れ、信じる
 キリストは「わたしたちの罪のために死ん」でくださり(1コリント15章3、4節)、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」(1ペトロ2章24節)。こうしてイエス・キリストは、わたしたちの罪からの救い主となってくださいました。このキリストの「救い」を手に入れるには、どうしたらよいでしょうか。

 a.悔い改めて、神に立ち帰る
 聖書は、「神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられ」(使徒1730節)、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(同3章19節)と勧めます。この「悔い改める」とは、涙ながらの悔悛とか「ざんげ」といったものではなくて、端的に「神に立ち帰る」ことです。これまでは神に背を向けて生きていました。滅びに向かって真っ直ぐに歩きつづけていました。それを「回れ右」して、今度は神に向かって生きていくことです。あるいは「心を変え、生き方を変える」ことです。単に改心することではなく、「回心」するのです。それはこれまでも自己中心な生き方をやめて、神を中心に生きていくということです。自分の考えで生きていくのではなく、神の御心に従って生きていこうとすることです。そのために与えられたのが、「律法」でした。その律法とは、「互いに愛し合う」ことでした。

 b.罪を告白し、罪の赦しを求める
 次に自分の罪を告白し、神からの罪の赦しを心から求めることです。聖書は「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と約束しています(1ヨハネ1章9節)。わたしたちは、自分がこれまで犯してきた罪と、罪の人生そのものを悲しみ、憎んで、それと決別すべきです。そしてこの罪のために、キリストが身代わりとなって死んでくださったことを信じ、十字架によって提供される神の罪の赦しを信じるのです。キリストは「ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げ」てくださいました(ヘブライ9章12節)。

 c.イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れる
 そしてこのイエス・キリストを、自分のための罪からの救い主として信じ、受け入れることです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒1631節)、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられた信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とあります(ローマ10章9、10節)。

2.キリストの招きに応える
 主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ1128節)と招いておられます。また「わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」とも言っておられます(黙示録3章20節)。これまで何度も主イエスは、あなたの心の戸をたたいてこられました。「わたしをあなたの心に迎え入れてください」と。なぜならわたしたちの心の戸には、外に「取って」がなく、内側からしか開けることができないからです。そしてキリストは、決して外からむりやり戸をこじあけたりすることはされないからです。今も主はあなたの心の戸をたたきつづけておられます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6章2節)と言われる今日、このキリストの招きに応えて、この方を心の王座に迎え入れてください。主は、「自分を受け入れた人々、その名を信じた人々には神の子となる資格を与え」てくださいます(ヨハネ1章12節)。「御子を信じる者は裁かれない。御子を信じる人は永遠の命を得る」とも約束されています(同3章1836節)。この約束を信じて、いますぐ主イエスを自分の救い主として心に受け入れ、信じてください。

3.キリストを信じた者の生き方
 キリストの十字架によって、これまで自分を支配していた「古い自分」、罪の奴隷であった「古き自我」が死に、葬られ、もはや自分を支配することなく、「キリストにある新しい命」に生きる者とされました。肉体の死以前に、わたしたちはすでにキリストにあって霊的に「死んだ」のであり、「生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2章20節)。この霊的事態を表わすのが「洗礼」です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。わたしたちも新しい命に生きるためなのです。わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていると考えなさい」(ロ-マ6章4、8、11節)。それはわたしたちの「罪に対する死」と、「神のために生きる生」を表わしています。「古き自分の死」と「神にある新しい生」です。なぜ「古い自分」が死ななければならないのでしょうか。それは「古い自分」が「罪に支配された体」「罪の奴隷」「体の欲望に従う不義の道具」だからです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため」であり、こうして「自分は罪に対して死」に「罪から解放」されたのでした。こうしてキリストは、わたしたちの「生」を変えてくださいました。もはや「死」の恐怖におびえる人生ではなく、「死」の恐れを乗り越え、希望のうちに歩む人生として下さったのです。

 キリストの「死」は、わたしたちの「生」を変え、そこに意味と意義を与えてくださいました。もはや「死」の恐怖に支配される人生ではなく、希望のうちに「死」を見つめ、希望のうちに自分の「生」と「死」を通る者としてくださったのです。こうしてキリストにある新しい生、わたしたちの「生」と「死」は、「生きている人々が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる」(2コリント5章15節)ためのものであり、こうして「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ロ-マ14章9節)者として、これからの人生を歩んでいくのです。このようにわたしたちがキリストにある新しい生命に生きる者となるために、主は死んで下さいました。だから「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ」(ロ-マ6章13節)ていこうではありませんか。それがキリストを「主」として生きていく人生なのです。わたしたちが、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとし献げ」ること、つまり「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえる」(ローマ12章1、2節)こと、そのように生きるとき、キリストは真実にわたしたちの「主」とされていくのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5章17節)。