第9講 贖い主キリスト

第9課 罪からの贖い主キリスト

「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」

ローマ書8章3節


「そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」

1ペトロ2章24

1.人生の良き理解者イエス
 わたしたちの主イエスは、私たちと全く同じ人間となることで、この世の中で生き、歩む私たちと同じ歩みをしてくださり、その味わう試練と苦しみのすべてをご自身も味わってくださいました。キリストは「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」のであり、だからイエスは、「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようになら」れたのでした。こうして神の子が、わたしたちと同じ肉体を取ってくださいました。それにより、この方は死すべき肉体を身に引き受け、肉体をもつ苦しみと悩み、その弱さも危うさもみな知りつくしたお方として、わたしたちの傍らに共に立ってくださるのです。それは、わたしたちの良き理解者として兄弟となられたということなのでした。

 こうして主イエスが人となられたのは、あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためであり、そのために主は母の胎に宿るところからわたしたちと同じになってくださり、それによって罪をもってはらまれたわたしたちの罪の人生を、その初めから「やり直して」下さり、それによって肉をもって辿る人生のあらゆる苦しみと試練とを身をもって味わい尽くしてくださったのでした。キリストもわたしたちと同じ苦しみを受けられた、それはわたしたちにとって大きな慰めです。わたしたちが辿る人生の道行きでのあらゆる苦しみを、この方は既に知っておられるのであり、その方を人生の同伴者として歩んでいくのですから、なんと心強いことでしょうか。わたしたちは自分の人生の確かな道案内であり、深い同情者、理解者を持つのです。主は、その地上の全生涯、つまりこの世のご生涯の全ての時において苦しみを受けられ、およそ人が経験し味わうところのあらゆる苦難を通ってくださったのであり、主が「あらゆる点で」わたしたちと等しくなられたというとき、そこでわたしたちは、今自分が抱えている苦しみの本当の理解者であり解決者である方を持っているのです。

2.人間の罪を「あがなう」ための主イエスの苦しみ
 しかしそれは、なによりもわたしたち人間の罪をあがなうためのものでした。神の前に罪を犯したのは人間です。人間が自分の罪を償わなければなりません。その人間の罪をあがなうために、神の子が人間となり、その罪の一切をご自身が引き受けることによってわたしたちを罪から救い出してくださったのです。主イエスの生涯は、まさに苦しみと十字架と死とに要約されるます。苦しみ、十字架にかけられ、死ぬためにこの地上にお生まれくださった方こそ、主イエスに他ならないからでした。キリストは、苦しみの道を歩み抜かれることにおいて、全ての人の救い主となられたのです。人の苦しみを自らが背負うことによって、人を生かすためでした。キリストの苦しみとは、人生を苦しみを持って辿るわたしたちの良き理解者であるだけではなく、その苦しみそのものを取り除くための苦しみでもありました。わたしたちのこの世での苦しみの根源である「わたしたち罪に対する神の怒り」を身と魂に負われるため、そしてわたしたちの喜びと希望の根源である、神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるために苦しまれたのです。

 わたしたちの犯した罪が二重であったように、わたしたちのためのキリストの苦しみも二重の苦しみであり、それによって獲得して下さった恵みも二重です。つまりキリストはまずわたしたちの罪に対する「刑罰の除去」のために苦しまれ、さらには罪によって失った「永遠の生命を獲得」するためにも苦しんでくださったのでした。これによって苦しみの根っこを取り除かれたと同時に、わたしたちの生活に暗い陰を投げ落す不安と、生命をおびやかすものを除き去ってくださったのでした。こうしてキリストは、わたしたちの苦しみを共に担ってくださる方であるだけではなく、その苦しみそのものを取り除いてくださったのです。

ですからキリストにある苦しみには希望があります。絶望の淵に立たされるような中にあっても、そこでわたしたち人間の生命、この世と永遠の生命のどちらをも御手に握っておられ、摂理の業をもって導いておられる神御自身に、全てを委ねることを許されているのです。そしてこの方にある生命の希望のうちに、苦しみをも喜びとして歩みつづけていく道が開かれているのです。こうしてわたしたちが、罪の赦しと共に、生命の希望に溢れて生きるためにも、キリストはわたしたちのために苦しみを受けてくださったのでした。わたしたちが出会う苦しみがどれほど深く大きいものであったとしても、主の知りたまわない苦しみはなく、主の慰め得ない苦しみもありません。主が通らなかった苦しみはなく、主はその苦しみの道もその通り方さえ知っておられます。そしてわたしたちの苦しみを苦しみでなくするためにこそ、主はわたしたちのためにその身代わりとなって、代わりにその苦しみをも背負ってくださったのでした。

3.私たちの身代わりとしてのキリストの裁判と死
 聖書は、主イエスがポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられたことを報告します。それは、罪のない神の子が法廷で裁判を受け、その判決によって死刑を宣告され、それに基づいて処刑されたということです。神の子は単に私刑(リンチ)によって殺されたのではなく、法律に基づく裁判で、法廷によって処刑されたのです。それによって、神の子がわたしたち人間の罪を担い、その身代わりになって処罰されたことが明らかになるためでした。このピラトの法廷は、神の法廷です。裁判官は神ご自身であり、被告人席にはわたしたち人間が座らなければならないのです。ところが、何とその席に主イエスが座り、わたしたちの代わりに裁かれて罪に対する刑罰を受けられたというのです!わたしたちが本来受けなければならない神の裁判を、主イエスが代わって受けてくださったということをはっきりと表わすため、主はピラトの法廷に臨まれ、そこでの断罪に服せられたのです。法廷の裁判による有罪判決の処刑、それが主イエスの十字架の死でした。

 聖書は繰返し、主イエスは死に値する罪を少しも犯されなかったお方であることを告白します。ピラト自身主が何の罪ももたれないことを承知していました。それでいてなお、主に死罪を言い渡したのです。ここにおいて主イエスこそが、わたしたちの唯一の救い主であることが証しされているのです。罪をもつ者は、自分の罪によって裁かれるのであり、他人の罪の身代わりにはなれません。それができうるのは、唯一人罪をもたれない主イエスだけなのです。このお方が、わたしたちの立つべき神の法廷の被告人席にお立ちくださり、わたしたちの代わりに罪の判決を受けてくださったのです。主イエスの十字架、それは人間の罪に対する刑罰と、神の怒りと呪いのすべてを、罪のない神の子が一切ご自身の身に引き受けて、わたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださり、わたしたちの代わりに裁かれた、その神の裁きの場です。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3章13)。キリストは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死ん」でくださいました(1コリント15章3、4節)。そして「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2章24)のでした。だから聖書は、「この方こそ、わたしたちの罪、いやわたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ2章2節)だと告白します。

4.「あがない」の犠牲、わたしたちの身代わりとしてのキリストの死
 これらの聖書の言葉の背後にあるのが、旧約聖書時代に行われた動物犠牲の「身代わりの死」による「罪の贖い」でした。キリストは、「ただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現われてくださいました」(ヘブライ9章26節)。そして「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられ」ることで(同28節)、「雄山羊や若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(同12節)。キリストの十字架による死とは、わたしたちすべての罪を背負って、わたしたち自身の身代わりとして、罪に対する刑罰を代わりに引き受け、それによってわたしたちの罪を取り除き、精算して、償いを果たしてくださったということでした。わたしたちがこれまで犯してきた罪、今犯している罪、そしてこれから犯すであろう罪を含めて、わたしたちの一切の罪を御自身に引き受けて、わたしたちの身代わりとしてキリストが代わりに死んでくださり、それによってわたしたちに対する罪の要求も死の支配も、その結果である悲惨さも、すべてはあの十字架の上で終わってしまったのです。こうして身代わりによる償い、つまり「贖い」をキリストがわたしたちのために果たしてくださった、そうしてわたしたちの「罪に対する神の刑罰を背負うこと」で、キリストはわたしたちを救ってくださったのでした。

 聖書は、キリストの十字架が、わたしたちの罪のためのものであることを証言します。「彼(苦難の僕であるキリスト)が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53章5、6節)。また「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマ5章8節、1コリント15章3節)のであり、キリストは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ1045節、1テモテ2章6節、1ヨハネ2章2節)のでした。「そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2章24節)。