第9講 わたしたちと同じ人間となられた神

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第9講 わたしたちと同じ人間となられた神(問35~36)


問35 「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」とは、どういう意味です

か。


 永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり、またありつづけるお方が、

聖霊の働きによって、処女マリアの肉と血とからまことの人間性をお取りになった、

ということです。それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にして

は、すべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。


問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。


 この方がわたしたちの仲保者であられ、御自身の無罪性と完全なきよさとによっ

て、罪のうちにはらまれたわたしのその罪を、神の御顔の前で覆ってくださる、とい

うことです。


1.まことの人間であることの証明

 「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」について考えます。この告白の

核心にあることは、主イエスがわたしたちと全く同じ人間性を取られたということで

す。それはつまり、「主イエスの人間性がわたしたちとは違うものである」という考え

を退けるものでした。主は「処女マリアの肉と血とからまことの人間性を身にまとわ

れた」、そして「すべての点で兄弟たちと同じようになる」ということです。なぜこ

の点に固執するかというと、主イエスがわたしたちと同じ人間であられたことを否定す

るなら、わたしたちの救いそのものが揺らいでしまうからです。たとえ人間であられた

としても、わたしたちとは違う人間性であるとする考えも同じです。人間の罪は、何か

別の被造物ではなく罪を犯した人間そのものによってのみ償いうるからです。「神は人

間が犯した罪の罰を、他の被造物に加えようとはなさらない」のであり(問14)、ま

「神の義は、罪を犯した人間自身が、その罪を償うことを求めていますが、自ら罪

人であるような人が、他の人の償いをすることなどできないから」でした(問16)。

しかし同時に、主が人間であることを認めても、神でもあられることを否定する考えを

も拒絶します。使徒信条が告白することは、「神が人となられた」ことで「人が神に

なった」のではない、「まことの永遠の神・・・が、・・・まことの人間性をお取り

になった」と告白するのです。主イエスのマリアからの誕生は、神が人となられた、そ

の方の人間性の証明なのでした。


 このイエスという名は、わたしたちの救い主であるゆえにそう呼ばれるものでした。

「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。こう

して「聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」た主イエスとは、わたしたちの「罪

からの救い主」としておいでくださった方なのでした。そのために主イエスは、確かに

まことの人間として、わたしたちと同じ肉体を持ってくださいました。わたしたちを罪

から救いだすために、この方はごくありふれた、誰一人気にとめることのない平凡な名

をもって、この地上に生まれ来たりました。豪華な王宮ではなく、家畜小屋でひそやか

に生まれ、しかもその名をもって住民登録をされ、税金を課せられ、人間の支配者に支

配されて苦しめられる者の一人となってくださったのです。父の死後は、母と兄弟たち

を育て、生計を維持することに苦労され、重税にあえぎ、飢えと渇きに悩まされ、疲労

困憊し、心萎え、悲しみ、こうしてわたしたちがたどる地上の労苦を一つ一つつぶさに

味わってくださったのでした。 そして何一つ神々しさも、神秘さも感じられない普通

の人として、わたしたちと全く同じ人間となってくださったのです。こうしてこの世の

中に生き、しいたげられつつ歩む者と同じになってくださることで、その人々の罪を贖

う救い主となられたのでした。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方で

はなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭わ

れたのです」。「それでイエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となっ

て、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったの

です。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助

けることがおできになるのです」(ヘブライ4章15節、2章17、18節)。


 こうして聖なる神の子が、わたしたちと同じ肉体を取ってくださいました。それによ

り、この方は死すべき肉体を身に引き受け、肉体をもつ苦しみと悩み、その弱さも危う

さもみな知りつくしたお方として、わたしたちの傍らに共に立ってくださるのです。こ

の肉体をもって犯すわたしたちの罪の諸々の悩みを知るものとして、わたしたちの兄弟

となってくださったのです。それによってこの方は、わたしたちが肉をもって辿る人生

のあらゆる苦しみと試練とを身をもって味わい尽くしてくださったのでした。このよう

にキリストもわたしたちと同じ苦しみを受けられたということは、わたしたちにとって

大きな慰めです。わたしたちが辿る人生の道行きでのあらゆる苦しみを、この方は既に

知っておられるのであり、その方がわたしたちの人生の同伴者として歩んでくださるの

ですから、それはなんと心強いことでしょうか。わたしたちは自分の人生の確かな道案

内であり、深い同情者、理解者を持っているのです。主は、その地上の全生涯、つまり

この世のご生涯の全ての時において苦しみを受けられ、およそ人が経験し味わうところ

のあらゆる苦難を通ってくださったのであり、主が「すべての点で」わたしたちと等し

くなられたというとき、そこでわたしたちは今自分が抱えている苦しみの本当の理解者

であり解決者である方を持っているのです。


2.わたしたちの罪の人生を「やり直す」ための受肉

 しかしそれにしても、なぜ主は赤子としてこの世においでくださったのでしょうか。

人間の贖いのために来られたのであれば、何も三十数年も無駄に費やすことなく、突然

天からおいでになって、十字架にかかることにより、贖いを完成させても良かったので

はないでしょうか。主はなぜ赤子として、この世においでになられたのでしょうか。そ

れはわたしたちの人生の「やり直し」をしてくださったということです。わたしたちは

何か大きな失敗をしたとき、できることならやり直しができたらと思います。あるいは

人生を振り返って、もう一度やり直しができたらと考えます。キリストは、そのわたし

たちの人生、罪のうちに生まれ、罪のうちに生きた人生をやり直してくださるために、

人間の最初の出発点である赤子から生まれて、幼児、少年、青年、壮年を経て、死に至

るという、人間の人生の全体をたどることによって、わたしたちの罪の人生の「やり直

し」をしてくださったのでした。罪の贖いの業は、十字架がその頂点ですが、実は主の

御生涯全体が贖いの業でもありました。人の一生の全ての過程を経ることによって、あ

らゆる年齢や世代の人間を贖ってくださったということです。そしてとりわけ罪のうち

に生まれ来る人間(詩51編)の原罪をきよめるためにも、主は赤子として、しかも罪なき

赤子としてお生まれくださったのです。マリアの肉と血を受けながら、なおその人間性

を罪なきままにきよめることができた聖霊の働きが、同じ人間であるわたしたちの内に

も働かれることを明らかにしてくださったのです。神が人間となられ、人間性をきよめ

られたことにより、人間性そのものが高められたのでした。主は人間として生まれ来

たったその時から、聖い霊の働きにより罪なき方として歩まれ、人間の人生の全ての過

程を経ることにより、十字架によるのみならず、その御生涯の全体をもってわたしたち

の罪からの贖いを成し遂げてくださったのでした。


 しかもマリアの子であるとは、ダビデの子孫となられたということです。主は単に人

間となられただけではなく、イスラエルの一員、神の契約の民の一員として生まれられ

たのでした。恵みの契約の中心である「神、我らと共に在す」との約束は、幕屋や神殿

によって表わされていましたが、それがいまや「神が人となられた」ことによって成就

し完成したのです。それで主はインマヌエル(ヘブル語で「神、我らと共に在す」)と

呼ばれました。それは主こそ神が人となることにより、人と共に在す神となられただけ

でなく、今や人間性は永遠に神性と結び付くことで、やがて神と共に永遠に住む神の国

を先取りしてくださったからです。わたしたち人間は、キリストにおいて永遠に神を持

つのです。キリストは人間のまま、肉を持ったままで天に行かれました。それによって

人間は既に、神と共にあるのであり、その保証を得たのでした(問49)。


3.わたしたちの弱さに同情してくださる大祭司

こうしてわたしたちは罪を贖い、神に執り成して下さる大祭司を得たのです。この方

は「御自身試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることが

おできになる」のです(ヘブライ2章18節)。母の胎に宿り赤子として生まれ、幼児、少

年期、青年期を経て壮年となり死に至る、人としての一生の全てを経ることにより、全

ての時期にある人の苦しみ、悲しみ、戦い、試練、問題といったものを味わい尽くされ

たのでした。親との死別、家族の無理解、搾取される理不尽さ、重税にあえぐ貧しい生

活とその中での家族を養う責任、肉をもつ人の弱さと試練、飢えと渇き、疲労困憊、別

れの悲しみ、近所つきあい、村の生活と慣習、冠婚葬祭、そういった全てを御自身が人

生の全ての過程を経る中で味わい尽くされたのでした。「神と人との間の仲介者も、人

であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとしてご自

身を献げられました」(1テモテ2章5、6節)。だから「『キリスト・イエスは、罪

人を救うために世に来られた』という言葉は真実で、そのまま受け入れるに値します」

と言われうるのです(同1章15節)。このような方をわたしたちは自分の主、救い主、

執り成し手としていただいているのです。


 しかもこの方がいつもわたしたちの弱さを思いつつ、日毎に執り成して祈ってくだ

さっているのです(ヘブライ7章25節、ローマ8章34節)。「この大祭司は、わたした

ちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わた

したちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4章15節)。だからわたしたちは、

自分の罪や弱さを省みつつ、それでもなお、「大胆に恵みの座に近づく」ことが許され

ているのです。このようなわたしたちの良き理解者を天に持つとは、何という幸いで

しょうか。「だれが神に選ばれた者を訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神な

のです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復

活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために

執り成してくださるのです」(ローマ8章34節)。そしてわたしたちは、この仲保者に

よって、神の前で正しい者と認められるのです。わたしたちは、この方によって神の家

族の一員にされました。そして、このキリストこそが、わたしのまことの兄弟、神こそ

まことの父となってくださいました。血を分けた家族以上の父、兄として、神とキリス

トを持つものとされたのです。その方こそ、家族以上のわたしの理解者であり、慰め手

なのです。信仰の戦いにあえぐとき、家族の中にあってさえ孤独を覚えるとき、わたし

たちは繰り返しまことの兄弟である主御自身を仰いで、主を見上げつつ歩んで行きたと

思います。この方こそ、わたしのその一歩一歩を理解と憐れみにうちに、支えて下さる

唯一の方だからです。