第8講 罪の償いを果たす贖い主

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第8講 罪の償いを果たす贖い主(問12~18)


問12 わたしたちが神のただしい裁きによって、この世と永遠との刑罰に値するので

あれば、この刑罰を逃れ再び恵みにあずかるには、どうすればよいのですか。


 神は、ご自身の義が満足されることを望んでおられます。ですから、わたしたちは

それに対して、自分自身によってか他のものによって、完全な償いをしなければなり

ません。


問13 しかし、わたしたちは自分自身で償いをすることができますか。


 決してできません。それどころか、わたしたちは日ごとにその負債を増し加えてい

ます。


問14 しかし、単なる被造物である何かが、わたしたちのために償えるのですか。


 いいえ、できません。なぜなら第一に、神は人間が犯した罪の罰を、他の被造物に

加えようとはなさらないからです。第二に、単なる被造物では、罪に対する神の永遠

の怒りの重荷に耐え、かつ他のものをそこから救うことなどできないからです。


問15 それでは、わたしたちはどのような仲保者また救い主を求めるべきなのです

か。


 まことの、ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、す

なわち、まことの神でもあられるお方です。


問16 なぜその方は、まことの、ただしい人間でなければならないのですか。


 なぜなら、神の義は、罪を犯した人間自身が、その罪を償うことを求めています

が、自ら罪人であるような人が、他の人の償いをすることなどできないからです。


問17 なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。


 その方が、御自身の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え

忍び、わたしたちのために義と命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくだ

さるためです。


問18 それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲

保者とはいったいどなたですか。


 わたしたちの主イエス・キリストです。この方は、完全な贖いと義のために、わた

したちに与えられているお方なのです。


1.罪の償いの必要

 わたしたちには一人一人に罪があり、その罪は「神の正しい裁きによって、この世

と永遠との刑罰に値する」(問12)ものであることを見ていきました。それでは「この

刑罰を逃れ再び恵みにあずかるには、どうすればよい」(問12)のでしょうか。ここ

ではまず、自分の犯した罪に対して、神からの裁きと刑罰が下されること、そしてその

神の裁きと刑罰は、自分に罪に対して正当なものであることを認める必要があります。

その上で、この正しく聖なる神による裁きから、どうしたら逃れることができるかとい

うのが、ここで考えなければならないことです。そこで神の義が満たされるために、わ

たしたちは「自分自身によってか他のものによって、完全な償いをしなければなりま

せん」(問12)。ここで大切なことは、わたしたちの罪が取り除かれ、罪に対する裁き

を免れるためには、「罪の償い」が必要だということです。しかしここでやっかいなの

は、わたしたちは自分自身ではその償いをすることができないということなのです。な

ぜなら「わたしたちは日ごとにその負債を増し加えて」いるからなのです(問13)。

わたしたちは、自分の罪を、自分自身によっては、どんな努力によっても善い行いに

よっても拭い去ることができず、またその償いを払い切ることもできません。ですから

「わたしたちの救い」は、自己修練や苦行、悟りや善行などといった、自分の努力や功

績によって獲得できるものではありませんでした。なぜなら、それほどにわたしたちの

罪は深く深刻なものだからです。しかもその罪に対して、義なる神は正当な裁きを下さ

れ、罪には罰をもって報いられます。そこからどうやって救い出されるか、聖書はその

ために神が一人子をわたしたちにくださったと語るのです。


 そしてここに「神はなぜ人となられたか」ということの意味があります。なぜ神は、

神のままで人間を救うことをなさらなかったのか、人間はなぜ他の人間を救うことがで

きないのかが答えられていくのです。「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた

同様に、これらのものを備えられました。それでイエスは、神の御前において憐れみ深

い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにな

らねばならなかったのです」(ヘブライ2章14、17節)。こうして「神が人となられ

た」ことによって、わたしたちの罪の償いの道が開かれていきました。世に「救い主」

を自称する多くの人がいても、神が人となられたこの方以外には、罪からの救いはあり

ません。「他のだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名

は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4章12節)。その

ためにこそ主イエスは人となっておいでくださったのです。人となられた神こそ、わた

したちを救いうるただ一人の救い主なのです。イエス・キリストこそ、罪の縄目にがん

じがらめに捕らわれており、自分で自分を救うことができなくなってしまったわたした

ちのために、神がお遣わしくださった「救い主」でした。それは「世の罪を取り除く神

の小羊」(ヨハネ1章29節)としての救い主なのでした。


2.まことの罪のための犠牲、イエス・キリスト

 この方は、なぜ「小羊」と呼ばれるかと言われるかというと、かつて旧約聖書の時

代、人間の罪の償いのために羊や牛といった動物が、その人間の「身代わり」として犠

牲とされていたからです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6章23節)。罪に対す

る刑罰は、「死」です。ですから罪を犯した人間が、その犯した罪に対する償いとして

支払うべきもの、罪に対する刑罰とは「死」です。罪を犯した者は、死ななければなり

ませんでした。しかし憐れみ深い神は、罪人が死なないで罪を償う道を開いてください

ました。それが動物の犠牲による「身代わりの死」です。動物の「身代わり」を立て、

それを身代わりとして、罪の刑罰を課して、自分の代わりに死んでもらい、それによっ

て自分の犯した罪を精算し、罪の刑罰を除去したのです。それを「贖い」と言います。

自分の罪の「償い」を、代わりのものに果たしてもらうことです。そしてこのような動

物犠牲とは、わたしたちのために完全な償いを果たすために犠牲として献げられる、イ

エス・キリストの比喩でした。主イエスが「世の罪を償う神の小羊」と言われたのはこ

の意味で、キリストは「ただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るため

に、現われてくださいました」(ヘブライ9章26節)。そして「多くの人の罪を負うた

めにただ一度身を献げられ」ることで(同28節)、「雄山羊や若い雄牛の血によらない

で、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」

(同12節)。


 主イエスの十字架による死とは、わたしたちすべての罪を背負って、わたしたち自身

の身代わりとして、罪に対する刑罰を代わりに引き受け、それによってわたしたちの罪

を取り除き、精算して、償いを果たしてくださったということなのでした。わたしたち

がこれまで犯してきた罪、今犯している罪、そしてこれから犯すであろう罪を含めて、

わたしたちの一切の罪を御自身に引き受けて、わたしたちの身代わりとしてキリストが

代わりに死んでくださり、それによってわたしたちに対する罪の要求も死の支配も、そ

の結果である悲惨さも、すべてはあの十字架の上で終わってしまったのです。こうして

身代わりによる償い、つまり「贖い」を主イエスがわたしたち自身のために果たしてく

ださった、そうしてわたしたちの「罪に対する神の刑罰を背負うこと」で、主イエスは

わたしたちを救ってくださったのでした。そこで聖書は、主イエスの十字架が、わたし

たちの罪のためのものであることを証言します。「彼(主イエス)が刺し貫かれたの

は、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためで

あった。わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53章5、6節)。

「そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。そ

のお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2章24節)。

「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪

として処断された」のであり(ローマ8章3節)、こうして「罪と何のかかわりもない

方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義

を得ることができた」のでした(2コリント5章21節)。「わたしたちがまだ罪人で

あったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマ5章8節、1

コリント15章3節)のであり、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来

た」のです(マルコ10章45節、1テモテ2章6節、1ヨハネ2章2節)。


3.まことの人間、まことの神であることの意味

 こうして主イエスは、「わたしたちの罪のために死に」、それによって「すべての人

の贖い」、また「全世界の罪を償ういけにえ」となることで、わたしたちの罪に対する

「償い」は完全に果たされることになりました。そしてそのためには、この方が「まこ

との人間」であり、しかも「まことの神」であられる必要がありました。なぜ「まこと

の人間」でなければならないかというと、「神は人間が犯した罪の罰を、他の被造物

に加えようとはなさらない」からであり(問14)、また「神の義は、罪を犯した人間

自身がその罪を償うことを求めて」いるからでした(問16)。しかもそこでは、罪が

一点もあってはなりませんでした。なぜなら「自ら罪人であるような人が他の人の償

いをすることなどできない」からです(同)。そこでわたしたちのための罪からの救い

主は、まず「まことの、ただしい人間」である必要がありました。このように、一度も

罪を犯したことのない、「まことの、ただしい人間」は、主イエス・キリストただお一

人だけです(1ペトロ2章22節)。


 さらにこの方は、「まことの神」でもあられる必要がありました。なぜなら、「単な

る被造物では、罪に対する神の永遠の怒りの重荷を担い、かつ他のものをそこから救う

ことなどできない」(問14)からです。そのためこの方は、「まことの、ただしい人

間」であると同時に「まことの神」でもあられる必要がありました。「御自分の神性の

力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と

命とを獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださるため」でした(問17)。です

から、「わたしたちは、どのような仲保者また救い主を求めるべき」かといえば、「ま

ことの、ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわ

ち、まことの神でもあられるお方」を求める必要があるのでした(問15)。そしてその

方こそ、「わたしたちの主イエス・キリスト」なのです。なぜなら、「この方は、完全

な贖いと義のために、わたしたちに与えられているお方」だからでした(問18)。こう

して罪のない「まことの人間」であり、しかも「まことの神」であられるイエス・キリ

ストだけが、わたしたちの罪を担い、その死の刑罰を背負って、わたしたちの贖いと救

いを成し遂げてくださることができる、ただ一人の方となってくださったのでした。