第8講 救い主イエス

第8講 罪からの救い主キリスト

「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

マタイ1章21

1.わたしは自分を救うことができない。
 これまでは「罪」について考え、それがどれほど深く、大きなものであるかを見てきました。神がわたしたちに求められる戒めの中心は「愛」です。そしてわたしたちは、この愛に結びつけられた「交わり」に生きるように造られ、またそれが求められていました。愛の交わりに生きる、そこにわたしたちの真の幸福があるのです。しかし、この愛の源泉である神との交わりを拒絶し、その愛を踏みにじったことで、人間の愛は曲がり、歪んだ自己愛に変形し、この自己中心な生き方・在り方から必然的に、悲惨な人間関係が生み出されるようになっていったのです。家族や友人といった様々な交わりの中におかれながら、しかもその中で深い孤独を味わうという、矛盾した悲惨さも生み出されていきました。聖書が語る「救い」とは、罪が生みだしたこういった悲惨な現実、つまり各々が自己中心に生き、自分勝手な要求を求めあって、真実な交わりの中に生きることができなくなっている現実、真実な愛と愛の絆に結ばれていくことができなくなっていながら、それでも愛を求めてやまない現実から救いだされるということです。それは「罪からの救い」なのです。罪と罪がもたらした悲惨な現実からの救いなのです。

 このような「救い」は、一体どこから来るのでしょうか。それに答える前に考えなければならないことは、「わたしはわたし自身を救うことができない」ということです。自分は自分を救うことができないことをしっかり自覚すること、そうして自分に本当に絶望して、自分の救いを自分の外に、他へと求めることはとても重要なことです。わたしたちはどこかしら自分自身に寄り頼み、自分を当てにしているところがあるからです。信じられるのは自分だけだと、どこかでわたしたちは考えます。しかしその自分には、神と隣人を愛し抜いていく本当の愛はなく、あるのは自己愛だけです。その自分には、崩れた交わりを回復させ、自分自身がはまりこんでしまっている孤独地獄と自己中心性から抜け出る力はありません。そのことを、まず本当にわきまえること、そこから自分の救いが始められていくのです。

2.わたしを救うのはイエス・キリストだけです。
 神は罪を憎まれ、正しく裁かれる方として、罪を罰せられる方でした。神は「義なる方」として罪の裁きを要求されますが、それは「完全な償い」によってしか満たすことができないものです。しかしわたしたちは、自分自身で自分の罪の償いを果たすことができないばかりか、むしろ「日ごとにその負債を増し加えています」。罪の赦し、罪の清算には、罪の償いが必要ですが、その償いは自分自身では払いきれない、それではどうしたらよいのでしょうか。そこでわたしの罪を償うことができる唯一の方、イエス・キリストが必要となるのです。だからキリストだけが、わたしの罪の償いを果たすことができ、わたしを罪とその悲惨さから救うことができる唯一の方なのです。聖書は、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」(使徒4章12節)、「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」(1テモテ2章4節)だ語ります。わたしたちを、罪の束縛と現実から救いだすことができるのは、そのためにこの地上においでくださったイエス・キリストだけなのです。それ以外のところでこの救いを求めても、得ることはできません。だからわたしたちは、このキリストだけを信じる必要があるのです。それでは、このイエス・キリストとは、一体どのような方なのでしょうか。

3.イエスという名
 キリスト教の最古の信仰告白は「主イエス」で、それは「イエスは主」ということですが、それはキリスト教信仰の核心を告白しており、あとはただこの告白が発展していったものにすぎません。イエス・キリストというお方への信仰こそが、キリスト教の中心なのです。わたしたちの信仰は、ただ漠然と唯一の神を信じるというものではなくて、あくまでもイエス・キリストの父なる神を信じる信仰です。それは「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」からでした。わたしたちは、漠然とした唯一の神を信じるのではなく、どこまでもキリストを通してこそ「まことの神」に至ります。キリストは神へと至る「道」だからです。キリストを通して、わたしたちはまことの神への信仰に至るのであり、キリストを見たのは神を見たことになるのです。

 だから「イエスを信じる」というとき、そこで何が信じられているのかが問題となります。そこではイエスに対する信仰の内容が問われなければなりません。イエスという名は旧約ではヨシュアで「主なる神は救いである」という意味です。かつてヨシュアがイスラエルの民を、荒野から約束の地へと導いていったように、この方は罪と悲惨の荒野、死の世界から、約束の地神の国へと導きいれてくださるからです。だからイエスという名そのものが、救い主ということを言い表わし、救い主と告白しているのです。イエスという名は、事実私たちの救い主であるゆえに呼ばれるのです。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1章21節)。そして、聖書がイエス・キリストを単なる「神の子」ではなく、「神のひとり子」と告白するのは、ただイエス・キリストだけが、生れながらの神の子だからです。主イエスは、父なる神ご自身から生まれ、父と同じ本質と同じ実体(神性)をもち、それゆえ神なるお方だということです。そしてこのイエス・キリストと父なる神との間には、父と子との間の密接で特別な関係があります。主イエスだけが「アバ父」と呼ぶことのできる方であり、そのような愛と信頼の関係があるのです。わたしたちが神の子とされるのは、あくまで主イエスのゆえなのです(ガラテヤ3章26節)。
 そしてこのイエス・キリストが、父なる神を私たちに明らかにされるお方なのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいるひとり子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネによる福音書1章1418節)。父なる神を良く知り尽くしたお方だけが、その方をわたしたちに知らせることができます。主イエスを知ることが、真の神を知ることに他なりません。逆に主イエスとは別のところで、真の神を知ることはできません。主イエスだけが真の神に至る道であり、イエスを見た者は神を見たのです(ヨハネ14章7節)。わたしたちは主イエスを通して、真の神とはどういう方か、そのみ心とご意志はどのようなものかを知るのです。そこでキリストを通して、わたしたちが知りうることとは、神の「恵みと真理」です。イエス・キリストを見上げることによって、わたしたちは神の救いの意志を知ります。罪人にすぎないわたしたちを何としてでも救おうとされる堅い神の愛とご意志です(1ヨハネ4章7-16節)。わたしたちは、この主イエスにおいて現わされた神の愛と恵みとは別のところで、神を知ることはないのです。

4.救い主としてのイエス
 さてイエスという名は、わたしたちの救い主であるゆえにそう呼ばれるものでした。「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。こうして「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」た主イエスとは、わたしたちの「罪からの救い主」としておいでくださった方なのでした。ここで主イエスが、確かに真の人間であり、わたしたちと同じ肉体をもたれたということの意味を考えましょう。わたしたちを罪から救いだすために、この方はごくありふれた、誰一人気にとめることのない平凡な名をもって、この地上に生まれ来たりました。豪華な王宮ではなく、家畜小屋でひそやかに生まれ、しかもその名をもって住民登録をされ、税金を課せられ、人間の支配者に支配されて苦しめられる者の一人となってくださったのです。父の死後は、母と兄弟たちを育て、生計を維持することに苦労され、重税にあえぎ、飢えと渇きに悩まされ、疲労困憊し、心萎え、悲しみ、こうしてわたしたちがたどる地上の労苦を一つ一つつぶさに味わってくださったのでした。

 そして何一つ神々しさも、神秘さも感じられない普通の人として、わたしたちと全く同じ人間となってくださったのです。こうしてこの世の中に生き、しいたげられつつ歩む者と同じになってくださることで、その人々の罪を贖う救い主となられたのでした。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。「それでイエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ4章15節、2章1718節)。こうして聖なる神の子が、わたしたちと同じ肉体を取ってくださいました。それにより、この方は死すべき肉体を身に引き受け、肉体をもつ苦しみと悩み、その弱さも危うさもみな知りつくしたお方として、わたしたちの傍らに共に立ってくださるのです。この肉体をもって犯すわたしたちの罪の諸々の悩みを知るものとして、わたしたちの兄弟となってくださったのです。それは、わたしたちの良き理解者として良き兄弟となられたということなのでした。