第6講 罪とは自己愛

第6講 罪とは自己愛に生きること

「互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。これが、神から受けた掟です」

1ヨハネ4章7-21

 1.わたしたちの歪んだ自己愛の姿

 神が人間に求められる「義」、「律法」が要求する人間本来のあり方とは、「互いに愛する」ことでした。律法とは、あれをしてはいけない、これをしてはいけないといった禁止条項の固まりなのではなく、その本質は「愛する」ということです。神が、わたしたちの求めておられる生き方とは、「あなたは真実に愛しているか」ということなのでした。そして聖書が示す「愛」の基準は、「友のために自分の命を捨てること」です(ヨハネ1513節)。わたしたちの主「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによってわたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3章16節)。これが愛の基準です。相手のためには自分を捨てる自己否定、自分の最も大切なものである命さえ相手のために捧げる自己犠牲、徹底して相手のために尽くしていく他者中心性、それがここで求められている「愛」なのです。

 しかしわたしたちの愛は、それと比べるならば何とみすぼらしく、醜いものでしょうか。わたしたちの愛は、愛しているといいながら、自分の相手に対する自分の思いを押しつけ、それに応答することを相手に強要するものであり、実は自分に対する愛でしかありません。自己愛を、愛と勘違いしているだけです。自分を捨てるどころではない、自分の「愛」を貫徹させようとする我欲にすぎません。愛という美しい装いをこらした醜い自己愛、我欲、自己中心、それこそわたしたちが「愛」と誤解しているものの内実であり、わたしたちの愛の実体なのです。それは自己愛にすぎません。このような愛が、親と子の間に、夫婦の間に、恋人の間に、家族や隣人の間に蔓延し、だから互いにぶつかり合うのです。だから互いに受け入れられず、理解しきれず、互いが互いに自己主張を繰り返して、傷つけ合っているのです。この歪んだ自己愛がもたらす歪んだ人間関係こそ、わたしたちの悲惨さそのものではないでしょうか。あなたのためだ、君のためだと称して、自分を押しつけ合う、醜く歪んだ自己愛の姿こそ、罪の結果、果実である、わたしたちの悲惨さなのです。英語では、罪(犯罪や社会的罪ではなくて宗教的罪)とはSINです。真中にI(私)があること、つまり自己中心こそ、罪の本質なのです。

2.罪の本質は「自己中心」、自己愛に生きること
 この「自己中心」は、聖書が教え、神が求める「愛」と対極にある在り方です。わたしたちは神が求められる義の基準、つまり「愛の戒め」を守り行うことができるでしょうか。「わたしにはそれができない」と答えざるをえません。なぜできないのでしょうか。わたしたちは、愛を本質的に知らないからです。また知っても、本当には愛することができないからです。なぜならわたしたちは、皆すべて、自己中心に生きているからです。そして「愛」という美名のもとに、それとはまったく異質な別のものを「愛」と誤解したまま、歪んだ自己愛の世界の中で、自分も相手もからめこんだまま、苦しんでいるのです。ここに、「罪」に生き、それにからめとられて生きているわたしたちの悲惨さがあるのです。わたしたちは、この神の要求を全く満たすことができないばかりか、むしろこの不完全な愛と満たされない愛のゆえに苦しみ、悩み、もがいているのです。神の律法の要求することは、「愛」でした。そしてその「愛」においてこそ、わたしたちは全く不完全であるばかりか、その不完全で自己中心的な「愛」のゆえに、わたしたちは生きていく中で苦しみ、惨めなのです。このように、わたしたちの内にあるのは「自己愛」でしかありません。そしてこの自分中心な愛、自分ばかりを愛することを人に要求する愛、自分しか愛さない愛、その中で「愛している」と錯覚するところにわたしたちの悲劇があり、また苦しみと悲惨さがあるのです。聖書はこの不完全で自己中心な「愛」に生きるわたしたちの生き方、本末転倒したわたしたちのあり方を指して、「罪」と言うのです。

 わたしたちは神と隣人を愛することができません。それは不完全な愛でしか愛せないとか、「完全に」はそれを達成できないということだけではなく、むしろそれが自己中心的な自己愛として醜く歪み、変形し、曲解したものとなってしまうからです。不十分ながらも「愛しています」ということではなく、「愛」と言いながら、それが「愛」とは似ても似つかない醜いものに歪められ、すべてが自分を中心に考えられ、求められるようなものとなってしまったのでした。「愛」とは、与えるものではなく奪うものであり、自己犠牲ではなく自己貫徹・自己実現であり、捧げるものではなく受けるものとして、常に自分の要求を押しつけ、自分が満たされるための自己充足の手段と化してしまいました。このような歪んだ「愛」に生きる人間の姿、生き方、心の在り方こそが、聖書の語る「罪」なのです。

3.わたしたちの生まれながらの「罪へと傾く傾向」
 a.「的外れ」に生きるわたしたち
 聖書で言う「罪」(ハマルティア)は、「的外れ」という意味です。つまり罪とは、神が創造された本来の人間の姿と在り方から大きく逸脱して生きている状態そのものを指します。いわばそれは電車が脱線したまま暴走しているようなもので、どれだけ早く走ったところで、目的地には決して行かないのですから無意味なものとなります。本来の目的に適い、目的地に着くためには、まず脱線を直し自分の進むべき線路に戻らなければなりません。それをしないでいくら電車を飾っても、いくら早く走っても、それは暴走にはかわりないのです。神は、律法によって、人間が生きる本来の生き方(義)を指し示されました。しかし人間は、神との交わりを失うことで、人間の本来あるべき基準(義)を失い、それから大きく外れて逸脱してしまったのでした。その人間の状態・姿を、聖書は「堕落」と言います。そしてこの堕落によってもたらされたもの、それが「罪と悲惨」でした。それが今日のわたしたちの現実の姿です。「義」の源であり、「命」の源である神との交わりが断絶したことによって、人間は自分自身の「義」と「命」をも断たれ、それを失ってしまったのでした。ですからわたしたちは、自分ではまっすぐに生きている、歩いているつもりでも(目をつぶって歩くと、どちらかに傾くように)、必ず「罪」へと傾いてしまう罪への「傾き」、傾向性を持っています。神と隣人とを愛する者として創造された人間は、しかし愛とは似てもにつかない姿と在り方で生きている、その本末転倒した生き方そのものが「罪」なのです。「互いに愛し合う」という律法の要求は、外面的表面的なものでは満たすことにはならず、内面的完全さが要求されました。ですから不完全な愛とは、歪んだ自己愛では、その要求を満たすことには全くならないのです。

 b.罪への傾斜、傾向性、心の傾き
 傾いた斜面に球を置いたらどうなるでしょうか。その球はかならず下の方に転がり落ちていきます。何度試しても、どのように置き方を工夫しても、球が上にころがることはありません。そのようにわたしたちの心は、生れながらに罪の方に傾斜しているので、かならず罪へと転がり落ちていき、罪へと向かっていくのです。それは球の問題ではなく、球の置き方の問題でもありません。球を置く斜面が、そもそも傾斜していること、それが問題です。そのようにわたしたちの心は、はじめから罪へと傾斜しているので、かならず罪へと向かってしまうのです。自動車のギアがバックに入っていたら、アクセルを踏めば自動車は必ずバックします。アクセルの踏み方の加減が問題ではありません。車種や年型の問題でも、室内の装飾の問題でもありません。どんな種類の車に乗っても、どんなに室内をお気に入りの装飾で飾っても、上手にアクセルを踏んでも、それでも自動車はかならずバックします。何が問題ですか。ギアがバックに入ったままだからです。まっすぐ前に進むには、ギアを前進の方に切り替えなければなりません。それだけが車が前進する唯一の方法です。わたしたち人間も同じです。この「罪へと傾く傾向」は、罪に引きずられていくとか、罪に傾きやすいということではなく、わたしたちの心、生まれながらの本性そのものが歪んでしまい、心の軸がはじめから罪へと傾斜しているということです。正しくまっすぐ歩むためには、神が求められる本来の生き方に生きるためには、まずこの心の歪みと罪への傾斜をなんとかしなければならないのです。

 c.「愛する」よりも「憎む」傾向にあるわたしたち

 「愛する」と正反対の方に傾斜するとは、「憎む」ことです。わたしたちは「神と隣人を憎む方に心が傾いている」のです。愛するどころではなく、不完全ながらも愛するというのでもない、実は神と隣人を憎む方へとわたしたちの心は傾き、そこからお互い同士の醜い関係が生み出され、悲惨な結果をもたらしていくのです。そして生れながらにそうした傾向を持っているため、自分が相手を愛そうとしながら、実は自分自身を愛し、相手を憎んでいることに気づかず、だから故意であれ、無自覚的・無意識的であれ、相手を傷つけ、苦しめ、痛みつけることを言ったり、行ったりします。わたしたちは他人の中傷を快く思い、悪口で一致します。人を悪しざまに言うことで仲間意識と連帯感を持ち、友を落としめることで協力するのです。それは自覚的に為されるだけではなく、無自覚的に、何の罪責感や心の呵責もなしに為されます。自分がそれほど神が求められる「愛」の姿から程遠いところに生き、むしろ積極的に憎みながら生きているということにさえ気づかず、それを当然のようにして生きている、それほどわたしたちの心は歪み、罪へとまた憎しみへと傾斜しているのです。