第3講 創造主なる神

第3講 天地を創造された神

「お前たちはわたしを誰に似せ、誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の、力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」

イザヤ書402526

1.天地の創造主への信仰は、迷信を打破する
 聖書は、この唯一の神が「天地の造り主」であり、この天地万物の創造主だと教えます。神が、この天地を造られたとは、この世界は神ではないということの宣言です。古代人は非科学的だったので、神を信じたと現代人は考えますが、はたしてそうでしょうか。科学の粋を集めて行われた「筑波科学万博」さえ、最初に「地鎮祭」で始められました。現代人ですらどこかで非科学的な生き方に縛られているのです。おみくじや新聞の占い欄の言葉が、妙に気になることがあるように、科学の時代に生き、科学的であるはずのわたしたちですが、それにもかかわらず、どこかでなお呪術的迷信に捕らわれています。それは日本人のアニミズム性に由来します。それはこの世界と神とを同一視することで、神をこの世界の延長上で考えるものです。森羅万象(しんらばんしょう)を拝み、自然を母なる大地とし、死ねばどの人間も仏となり、功績あった動物さえ神となり、大木がご神体となる等々、こういった宗教観は、自然に対する素朴な畏怖の念からきた神話的、呪術的、迷信的な宗教観です。

 聖書が教える神は、そのような宗教観を全く打ち破るものです。天地を創造された神を信じるとは、決して迷信的なことではなく、逆に、このような迷信的信仰や宗教を「非神話化」していくことなのです。つまりどこかでわたしたちの心を縛り付け、恐怖に閉じ込めている呪術的な迷信が、迷信にすぎないことを明らかにし、そこからわたしたちを全く解放するのです。天地の造り主なる神を信じるとは、この天地、つまり森羅万象の一切は神ではなく、むしろ神の作品にすぎないことを信じるということです。神とこの世界とは、全く異質なものであり、むしろこの世界が、神の造られた「被造物」にすぎないことを認めるのです。だから太陽も月も星も神ではない、きつねも大木も、人間も神ではない、神とはむしろそれらの全てを造られた方であると信じるのです。こうして呪術的、迷信的な世界観からわたしたちを解放するものこそ、創造主なる神を信じる信仰なのです。この信仰は、わたしたちに神ならざるものの一切を恐れない強さをもたらすのです。

 かつて日本を代表するキリスト者となった新島譲は、聖書の最初の「始めに神は天と地を創造された」の言葉に打たれて、信仰に入りました。これまで祖父に祖先崇拝をたたき込まれて育った新島は、道を歩いていても、通りにある神社や祠(ほこら)があるたびに、それに手を合わせて拝まないと気が休まらなかったそうですが、天地の創造主なる神を信じてからは、それが馬鹿らしくなってやめたということです。そしてわたしたちの科学の時代の出発点となった近代科学の発達は、ガリレオやコペルニクス、ニュートン、ケプラーといったすぐれた科学者によって開始されていきましたが、彼らはいずれもキリスト者で、神が造られたこの世界の素晴らしさを解明することによって、天地の創造主である神の栄光をほめたたえるために、自然科学的な発見や解明に尽力していったのです。ですからそこでの科学的解明とは、彼らの信仰の証しであり、科学はそもそも神がこの世界を創造された、その事実から出発したものでした。創造主への信仰が、近代科学を成立させたのです。その意味で、本来科学と信仰とは矛盾したりするものではないのです。

2.神に依存して生きるわたしたち
 神を創造主として信じることで第二に考えたいことは、「自分」も神に造られた存在であるということです。わたしも神に造られた、そこですでにわたしは神との関わりに生きる者として造られ、そこに、つまり神との関わりの中で生きるということに、自分の存在意義、人生の目的を持っているということでもあるということです。わたしたちは、神と共に生き、神との交わりのうちに生きるために命を与えられ、今を生かされているのです。ですからこの神から離れて生きることは、自分の生存の意義そのものを自分で否定することになるのです。「我らは神の中に生き、動き、存在する」とあるとおりです。だから神は、「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるように」してくださったのでした(使徒言行録172728節)。そして、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ロ-マ14章8節)という生き方へと招かれたのです。

 神が天地を造られたとは、わたしたちは神に依存した存在である、ということです。真に「自律的」な存在(他のなににも依存せずに、自分だけで存在しうること)は、神だけです。神だけが、他のいかなるものをも必要とすることなく存立しうる存在です。逆に、神以外のものは、全て神に依存して存在し、また存続しています。神なしに、神ぬきで、独立して存在するものは、一つもありません。それらは全て、神が造られ、神が造られたことによって、存在するようになったからであり、また神によって今なお存続し続けることができるからです。ですから、この世界を存在へと呼び出した「創造」の業を信じるということは、過去の一時点の出来事だけを信じることではなく、それを存続させている「摂理」の業を信じることでもあるのです。この世界は、そこに内在する自然法則によって成り立っているというのではなく、それを存続させている神の御手によるのです。この世界も、そしてわたしたちも、神に造られたとは、その神なしで、神抜きに自分たちがありえないということなのです。わたしたちは、その存在を徹底的に神に依存しているのです。

そのことは、わたしたちにとって慰めです。わたしたちを造られた神は、その全能の御手をもって、造られたわたしたちを守り支え、摂理の御手をもって支配してくださっているということだからです。この神の御手にあって、わたしたちは安んじて生きることができるのです。
「彼らは全て、あなたに望みをおき、ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。御顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る」(詩104編)。「神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる」(イザヤ書43章1、2節)。

 ですから自分は神なしに生きているし、生きることができるというのは、幻想であり、錯覚にすぎません。現に今自分がいる、この事実からして神なしにはありえないからです。わたしは、その存在からして、神に依存して生きている、この事実を認め、そのなかで生きていくことをこの信仰は教えてくれるのです。わたしたちの悲惨さは、自分を造られた神を忘れ、神を捨て、神から離れたことに起因しています。「あなたはわたしたちを、あなたに向けて造られました。ですからわたしたちの心は、あなたの内に安らうまでは、真の安きを得ないのです。」(アウグスチヌス「告白」)