第16講 身体のよみがえりと永遠の命への希望

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第16講 身体のよみがえりと永遠の命への希望(問57~58)


問57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか


 わたしの魂が、この生涯の後ただちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、

というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起

こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えら

れる、ということです。


問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。


 わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目

が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような、完全な祝福を

受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。


1.「身体のよみがえり」と「永遠の生命」

 ここでは、「身体のよみがえり」と「永遠の生命」について考え、これで『使徒信条』の

学びが終わります。この二つの箇条が最後にあることは大切です。この二つは、これか

ら先にあることだから、いちばん最後に置かれているということだけではなくて、これ

まで信じてきた事柄の意味をもう一度わたしたちに問い直すものでもあるからです。な

ぜわたしたちは神を信じるのでしょうか。主イエスを自分の救い主と信じ、聖霊の助け

を信じるのはなぜでしょうか。それはほかでもない、唯一のまことの神によって罪を赦

され、体のよみがえりによる永遠の命をいただくためではないでしょうか。この希望が

あるからこそ、この地上での信仰の戦いがどんなにつらく苦しいものであったとして

も、それに耐えるだけではなくて、そこで希望をもって生きていくことができるので

す。「身体のよみがえり」と「永遠の生命」こそ、わたしたちの最後の希望なのです。そし

てわたしたちの信仰とは、そこに行き着くための信仰なのです。


 ここで「身体のよみがえり」と「永遠の生命」について、この二つをまとめて語るのは、

大切です。この二つの箇条は切り離すことができません。なぜなら、わたしたちが信じ

る「永遠の生命」とは、「身体のよみがえり」のことだからです。「永遠の生命」を、「霊

魂の不滅」というものと考えている人がいるかもしれませんが、それは正しい理解では

ありません。人間とは、心と身体が緊密に結びついた存在で、切り離すことができない

ものだからです。この両者が切り離されることが「死」です。本来は、死つまり体と心が

分離することはなかったのですが、人間が罪を犯して堕落したために、死が入り込んで

きてしまったのであり、本来はそうではありませんでした。人間が死ぬということは、

自然なことや当たり前のことではなくて、あってはならないことが入り込んでしまった

のです。人間は死ぬように造られたのではありませんでした。そしてわたしたちは本

来、身体なしの心や心なしの身体はありえないのです。だからキリスト教が信じる永遠

の生命とは、まさに身体のよみがえりのことなのです。朽ち果ててしまった体が復活し

て、分離してしまった体と心が再び一つになる、そこで体と心を持ったわたしとして、

永遠に神と共に生きる者となるのです。


 体のよみがえりというのは信じられないとわたしたちは考えますが、それは新約聖書

の時代の人々も同じでした。古代人だから復活が信じられたのではなく、当時の最新の

科学的合理主義に生きる古代人にとっても信じられないことだったのです。しかしそれ

以上に、彼らにとってナンセンスだと思えたのでした。なぜかというと、当時の人々

は、霊肉二元論の考え方をしていたからでした。彼らは、身体(ソーマ)を霊魂の牢獄

(セーマ)であり、霊と身体は対立するものであって、霊魂は浄いが、物質である肉体

が汚れ、その肉体に閉じ込められているゆえに、霊魂も汚れていると考え、その汚れた

身体から霊魂が解放されることこそ「救い」であると信じていました。肉体を蔑視し、そ

れを嫌悪する彼らにとって、身体のよみがえりは、ばかげた戯言、躓きに他ならなかっ

たのです。だから古代ギリシャ文化の中で、身体のよみがえりを説くということは、特

別な意味を持ちました。パウロがアテネで伝道した時、多くの聴衆が興味深くパウロの

言葉に耳を傾けました。ところが話が「死者の復活」に及ぶと、「ある者はあざ笑い、あ

る者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」とあり

ます(使徒17章32節)。物質は汚れているとするこの二元論から、物質でできたこの世は

汚れ、神が物質を創造するはずがなく、神が物質と関わるはずはないとして、神が創造

主であることも、神の子が人間となることもありえないとして受け入れることができな

かったのです。そのような文化の中で、つまり肉体を蔑視するギリシャ思想に対して

「復活の肉体」を論じたのでした。そこで聖書が説いたのは、神によるこの世界の善き

創造、神の子の受肉、身体のよみがえり、肉体ではなく罪からの救い、神の霊の宮とし

ての人間の身体ということでした。ここでは身体を持つ人間存在全体が、神によって肯

定され、まさにその身体を持つ人間の救いを意図しておられることを明らかにするので

す。そして神の子が身体をとって人間となられ、身体をもってよみがえられ、身体を

もって天に帰り、身体をもったまま今も天におられる事実こそ、聖霊が今なお罪に汚れ

ている人間の身体の中に宿って、御自身の宮としてくださっている事実こそ神の在り方

なのです。つまりこの身体としてのわたし全体が、神によって取扱われ、この身体ごと

聖めてくださるのであり、それはこの世に生きるわたしのあり方全体が、この世にあり

ながらなお神によって聖められつつ、その完成を目指しながら聖化の道を辿っていくと

いうことです。


2.朽ちるべきものが朽ちないものに

 このことはわたしたちの信仰生活にそのままあてはめられてきます。信仰とは心の問

題であって、この世とは関わりがないとする二元論を排除するからです。信仰を魂の事

柄に限定して、今この世に生きる自分のあり方と関わりをもたせようとしないなら、そ

れは正しい信仰ではありません。それは一方では世俗主義的なあり方と、他方は禁欲主

義的なあり方と戦いつづけてきたのでした。身体を魂の清らかな信仰を邪魔するものと

する禁欲主義や、この世を忌避して隠遁する生き方、あるいはこの世の生活と全く切り

離して信仰生活を送り、信仰をせいぜい心の慰め程度にしか考えない在り方もどちらも

間違っています。むしろ神の子が身体をとって人間となられ、身体をもってよみがえら

れ、身体をもって天に帰り、身体をもったまま今も天におられる事実こそ、聖霊が今な

お罪に汚れている人間の身体の中に宿って、御自身の宮としてくださっている事実こそ

神の在り方なのです。つまりこの身体としてのわたし全体が、神によって取扱われ、こ

の身体ごと聖めてくださるのであり、それはこの世に生きるわたしのあり方全体が、こ

の世にありながらなお神によって聖められつつ、その完成を目指しながら聖化の道を

辿っていくということです。


 考えて見ますと、わたしたちの悩みの多くは体に由来するものが多いのではないで

しょうか。更年期を迎えたり、少しずつ老いていく自分の体の弱さに心も悩まされてい

きます。健康の不安やこれから先の生活への心配がありますが、その多くは体をもって

生きる自分のこれからのついての心配なのです。老いていく親への心配も含め、多くは

体についての心配なのです。そのように体を抱えながら生きるわたしたちの不安と心配

の中に、「体のよみがえり」の信仰が語られていくのです。その信仰をパウロはこう書

きました。「朽ちるべきものが朽ちないものを着」ます。そこには連続と同時に、断絶

があります。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」のです。復活の体は、今

の朽ちていく弱い体とは無関係ではなく、その体が変えられるのです。しかしまたこの

弱く朽ちていく体の延長・連続にあるのではなく、それが全く新しくされるのです。つ

まり自分は、全く自分であるわけですが、それが全く新しくされた自分となるのです。

身体というわたしの存在が、自然のままの状態からではなく、霊によって一新され、全

く更新されるのです。土によって造られたわたしが、霊によって新しいわたしとされる

のです。この霊とは、人間の霊ではなく神の霊、聖霊です。わたしたちは、神の霊に

よって心と身体としてのわたしの全体が全く新しくされて、自然の命ではなく神の命に

よって生きるのです。それは罪にある古い自分が死ぬことであり、神の霊が自分自身の

主人となって、自分を満たし支配することなのです。「霊の体」とは、聖霊によって新し

く生まれ、聖霊の命の支配にあずかっているわたし自身のことです。身体のよみがえり

と永遠の生命は、死んだ後だけではなく、実はもうすでに始められています。キリスト

によって新しく生まれ変わったわたしたちは、すでにこの永遠の生命に生きているので

す。そして今なお罪のうちに捕らわれているわたしたちの心と身体もろとも、霊の体と

して完成することを待ち望んでいるのです。


 だからこの地上にあるかぎり、わたしたちは朽ちていく肉体の弱さを背負いながら呻

き、苦しみつつ歩んでいきます。しかしそこには希望があります。この朽ちゆく体が全

く新しくされて、朽ちることのない栄光の体に変えられていくからです。「わたしたち

は皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一

瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変

えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないも

のを必ず着ることになります」(1コリント15章51~53節)。そしてわたしたちは「主

の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます」

(2コリント3章18節)。そしてそこでは、わたしたちを絶望と恐怖と悲しみによって

支配している死が、主によってのみこまれ、打ち破られていきます。「死は勝利にのみ

込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」

(1コリント15章54、55節)と、わたしたちも高らかに勝利の宣言をすることができる

のです。それは、この体をもって果たした地上の働き全体、人生の問題でもあります。

だからわたしたちは、堅く立って動かされることなく、主の業に常に励んでいくことが

できます。この地上での肉体によって果たした「自分たちの苦労が決して無駄にならな

いこと」を知っているからです(1コリント15章58節)。わたしたちの信仰の希望は、

まさしくここにあります。しかしわたしたちは、あまりにも地上の事柄に心が捕らわれ

すぎていて、この希望を見失ってしまっていないでしょうか。


3.栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる希望

 神はわたしたちがこの希望を本当に自分の希望としていくことができるようにと、と

きにはわたしたちの人生に揺さぶりをかけることがあります。そしてそこにわたしたち

の地上での生活があるのです。そこでは信仰は一進一退を繰り返し、時には弱さを露呈

し、挫折を覚え、試みに苦しめられ、罪に負かされることさえあるでしょう。しかしそ

のところでなおわたしたちは希望を持つことができます。なぜならそのわたしたちは、

必ず完成へと目指して進んでおり、今その途上にあるからです。わたしたちは、この世

にあって、しかもこの世の人ではない生き方、歩み方をします。それは身体をもっての

歩みです。そこには失敗があり、肉体をもつことの誘惑と戦いがつきまといます。しか

しその身体もろともよみがえり、完成されていく希望を与えられています。その希望に

こそ、この世で生き、戦うわたしたちの労苦への慰めがあります。なぜならそこでの戦

いの労苦は、「決して無駄にならない」ことを知っているのですから。そこにこそわた

したちの希望があります。そこには、「わたしの魂が、この生涯の後ただちに、頭な

るキリストの許へ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もま

た、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリ

ストの栄光の御体と同じ形に変えられる」(問57)という希望があるからです。


 そこでパウロは、「からだの弱さを覚えても、失望に終わることはありません」と語

ることができました。なぜなら、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めていま

す。この並外れた偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが

明らかになる」からです(2コリント4章7節)。わたしたちはたしかに「土の器」に

すぎません。しかしわたしたちは、そのもろく、弱い土の器に「並外れて偉大な力」が

納められ、それによって自分が支えられていることをも知っています。だから「四方か

ら苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられ

ず、打ち倒されても滅ぼされない」のです(同8、9節)。肉体の「とげ」をもち、そ

の弱さの中で福音に生きたパウロは(同12章7節)、いつも「イエスの死を体にまとっ

て」いました。それは、「自分の十字架」を背負って主に従っていくこと(マタイ16章

24節)の具体化でした。パウロは取り去られることのない「肉体のとげ」を担い続ける

中で、困難な福音宣教に従事していくという、二重の「自分の十字架」を背負うこと

で、「イエスの死」すなわち十字架を担っていったのではないでしょうか。しかしこの

パウロにとっては、この十字架において、「イエスの命」すなわち復活の命が、心も体

もぼろぼろの「この体」であるパウロ自身のうちに現され、その命によって弱い心と体

が強められながら、支えられ、立たしめられていくことによって、「イエスの命がこの

体に現れる」ことを実感していったのではないでしょうか。それは「外なる人」が衰え

ていく日々にあっても失われることのない希望であり、「内なる人」が日々に新しくさ

れていくということなのでした。この「内なる人、外なる人」とは、外面的-内面的

(体と心)ということではありません。罪に支配された「古い(体と心からなる)自

分」と聖霊に支配された「新しい(心と体からなる)自分」です。わたしたちの「古い

人」が死に、「新しい人」として日々に新しくされていくということです。そうして自

分の古き人、肉の自分が死に、新しい自分として生きる者とされるために、主イエスの

ための苦しみ(死)を背負わされていますが、それはますますそれによって「この身に

イエスの命が現れるため」でした(11節)。だからパウロは、「キリストの力がわたし

の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱いとき

にこそ強い」(12章9、10節)ということができたのでした。こうしてわたしたちは、

「重みのある永遠の栄光」を見つづけながら、今の「一時の軽い艱難」を乗り越えてい

くのです。だから「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰

えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」からです(2

コリント4章7、16節)。そしてこの故に「わたしが今、永遠の喜びの始まりを、心

に感じているように、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神

を永遠にほめたたえるようになる」(問58)のです。アーメン。