第15講 洗礼と聖餐

第15講 洗礼と聖餐の恵み


1.罪の赦しと新生を確信させる洗礼


「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」使徒2章38節


 a.罪の赦しと新しい生命を確証する洗礼

 洗礼が意味することは、「罪の赦し」と「新しい生命」です。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使徒2章38節)とあるように、第一にそれは「罪の赦し」です。水が体の汚れを洗い落すように、「私の魂の汚れ、すなわち私の全ての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける」ということを表わします(ハイデルベルク問答)。「罪の赦しは一種の洗いであって、あたかも体の不潔が水で洗い清められるように、我々の魂がこれによってその汚れから潔められるのであります」(ジュネ-ブ問答)。洗礼とは、そこで水が注がれることで象徴されるように、「罪と汚れの洗い」です。身体の汚れは、水で洗い流すように、罪の汚れが洗い流され、潔くされたことを意味します。それによって聖なる「キリストと接ぎ木されること、再生、罪の赦し、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くこと」をしるしづけられ、それが確かなこととして印証されるものなのです(ウェストミンスタ-信仰告白28章)。キリストの犠牲とその恵みを思い起こし、確信させるために洗礼が指し示すことは、「わたしの魂の汚れ、すなわちわたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただけるということ」、つまり「罪の赦し」の約束でした。だから聖書は、洗礼を「罪の洗い清め」(使徒22章16節)と呼びました。


 第二は「新しい生命」です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはわたしたちも新しい命に生きるため」です(ロ-マ6章4節)。あの洗礼と共に、古い罪の自分はキリストと共に死に、今はキリストと共によみがえった新しい自分が生きているのです。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配されたからだが滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(ロ-マ6章6-11節)こうして洗礼は、わたしたちの罪が、キリストによって全く洗い流され、潔められたこと、またわたしたちが罪に死に、キリストの命によみがえらせられた者として、新しく生まれたことを意味し、それをわたしたちに信じさせるものです。それはわたしたちを「新たに造りかえる洗い」(テトス3章5節)として、「わたしたちがキリストに接ぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものとなると約束することを、表わし証印するのです。」(ウ小教理問答)


 わたしたちは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」のであり(ロ-マ6章3節)、洗礼はわたしたちをキリストご自身へと結びつけ、キリストにある恵みの全てがわたしたちにもたらされることを表わすのです。聖書では、ノアの洪水、モ-セの紅海を渡っての出エジプト、ヨシュアによるヨルダン川を通っての約束の地への入国などを、洗礼の予表として理解してきました。彼らは「水の中を通って救われました。この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」(1ペトロ3章20、21節)そしてそのゆえに「聖霊によって新しくされ、キリストの一部として聖別される」ということでもあります。だから洗礼は「新たに造りかえる洗い」(テトス3章5節)とも呼ばれます。そうしてわたしたちは、「次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で非の打ちどころのない生涯を歩む」者へと召され、招かれているのです。


b.イエス・キリストの血と聖霊のみが、すべての罪から清めてくださる

 洗礼は「罪と汚れの洗い」と言われ、罪の汚れが洗い流され、潔くされたことを意味し、しかもそれが確かで確実に為されたことを信じることができるように与えられたものでした。しかしそのことは、どこまでも「信仰」によって起こされる霊的な出来事であり、聖霊の御業です。外面的な儀式がそれを自動的にもたらすわけではありません。それはただ「キリストの血と聖霊」によってのみです。ハイデルベルク問答では、「それでは外的な水の洗いは、罪の洗い清めそのものではないのですか」と問い、「いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです」と答えた後、「それではなぜ聖霊は洗礼を『新たに造りかえる洗い』や『罪の洗い清め』と呼んでおられるのですか」と問うて、「ちょうど体の汚れが水によって除き去られるように、わたしたちの罪が、キリストの血と霊とによって除き去られるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが現実の水で洗われるように、わたしたちの罪から霊的に洗われることもまた、現実であるということを、神はこの神聖な担保としるしとを通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです」と答えます。


 「キリストの血」とは、あのむごたらしい十字架上の死であり、そこで御自身の命を差し出されたことでした。それはキリストの命そのものです。そしてこのキリストの命がわたしたちの罪を贖うのです。それは「契約」が結ばれたということでした。「契約」は、血を流すことで締結され、確証されました。「新約」とは「新しい契約」のことで、キリストの血によって発効することになった、新しい契約のことです。わたしたちがキリストの血によって贖われ、その血を注がれたとは、キリストによって神とのこの契約に入ったということでした。それを示すのが洗礼なのです。「そのとき父と子と聖霊の御名によって水で洗うことが、わたしたちがキリストに接ぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものになると約束することを、表わし証印するのです」。


2.臨在されるキリストと一つに結び合わされる聖餐


 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」ヨハネ6章53、54節


a.過越の小羊-罪の贖いの犠牲

 わたしたちは「聖餐」に、なぜあずかるのでしょうか。聖餐は過越に代わるものとして、キリストが制定されました。過越とは、イスラエルがエジプト脱出の折、エジプトを討つための死の使いが行き巡ったとき、小羊の血が死の使いを過ぎ越させたことを覚えて祝う祭でした。神の民を罪の世から脱出させ、死から生命へと過ぎ越させるために、小羊の血が流され、小羊の犠牲が必要でした。聖餐が意味することも同じです。つまり聖餐とは、「キリストがわたしたちの過越の小羊として屠られた」ことを表わすものでした(1コリント5章7節)。そこで示されたことは、わたしたちが死から生命へと至るためには、小羊の犠牲が必要であり、そのために小羊の肉が裂かれ、その血が流される必要があるということです。その過越の小羊こそ、キリストご自身でした。キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)であり、これは「罪が赦されるように、多くの人のために流される」キリストの血(マタイ26章28節)を表わすものでした。そこではパンがキリストの「裂かれた肉」、ぶどう酒がキリストの「流された血」を表わしていることは言うまでもありません。そこで表わされたことは、わたしたちの「罪の贖い」とそのために「キリストの犠牲」です。わたしたちが聖餐に繰り返しあずかるのは、わたしたちが「罪の赦し」を必要とし、そのために繰り返しキリストご自身が必要であることを私たちが忘れないためです。そこからもたらされる効果は、キリストの贖いによる罪の赦しの確かさです。わたしの罪は、キリストによって確かに贖われ、確かに罪の赦しが与えられたことを、信じることが出来るし、そのことが保証されているということです。


b.神による養い

 さらに聖餐は、わたしたちが日毎に養われていく必要を覚えさせます。身体が栄養を必要とし、それなくしては成長はおろか、生命を維持していくことが出来ないように、わたしたちの信仰もそうであることを示します。信仰が日毎に養われていくために必要な糧とは何でしょうか。それはキリストが備えてくださり、キリストからいただくものであると同時に、それはキリストご自身であることです。聖餐によってわたしたちは、キリストの「肉と血」を食します。キリストご自身を噛み砕くことで、それがわたしたちの栄養となっていくのです。わたしたちの信仰と永遠の生命のための養いは、キリストが備えてくださるものであり、またキリストご自身を食することで、ですからわたしたちは信仰を維持し、成長し、養われていくために、繰り返しキリストご自身のもとに行かなければなりません。信仰の栄養供給を絶やさずにしていく必要があります。ロゴスなるキリスト、つまり神の御言葉こそ、わたしたちの信仰の養いであり、永遠の生命に生きる食事なのです。


c.キリストとの神秘的結合とキリストの臨在

 しかし何より聖餐が示すことは、そこにキリストが共におられる、「キリストの臨在」です。パンとぶどう酒によって表わされたことは、そこに「キリストの身体がある」ということです。それは聖霊によってですが、信仰において、霊的にキリストは、今確かにここにいます、この「キリストの霊的臨在」を表わし、またそれを保証するものです。インマヌエルなる方ご自身がわたしたちと共にいてくださることで、「神我らと共にいます」との約束が成就されます。それは神との永遠の交わりの約束であり、その確証です。神との絶えることのない交わりこそ、「永遠の生命」であり、その場こそ天国です。ですから聖餐は、永遠の生命の保証であると共に、「御国の前味」であり、この地上にあって既にその確証を与えられているのです。


d.キリストとの交わり、キリストにある交わりの形成

 この祝宴は、キリストとの交わりをもたらします。キリストの方からわざわざ来てくださることで、この交わりが成り立ったのです。そしてこのキリストとの交わりは、わたしたちに霊的な効果を与えます。キリストと交われば交わるほど、わたしたちのこの方からの感化を受け、霊的影響を与えられます。この方にある義、聖、命、恵み、愛を豊かに与えられ、この方の愛に生きるようにされていくのです。そこから今度は、わたしたち相互の交わりも生み出されていきます。キリストを結び目とした、キリストの霊を一致点としたわたしたち相互の交わりです。わたしたちの交わりは、キリストなる「一つのパン」を共に食することから生みだされるものです。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(1コリント10章17節)聖餐は、キリストにあるわたしたちの交わりを生みだし、形成し、繰り返し一致させていくための交わりの場でもあるのです。そこで大切なのは、そこにキリストをもたらしてくださる聖霊の働きであり、聖霊がわたしたちの心をキリストによって結びあわせ、一つとしてくださることです。そして御霊の実である「愛」が結ばれていくことです。わたしたちが互いに愛しあうためには、まずキリストご自身がわたしたちを愛してくださり、そのためにご自分を捨ててくださったことを、聖餐によって繰り返し覚えさせられます。


 ですからここからでてくるのは、キリストの犠牲とその愛を前にして、わたしたちの心からの賛美と礼拝ではないでしょうか。その礼拝とは、自分自身を神へと献げていくことです(ロ-マ12章1節)。聖餐にあずかる度に、わたしたちはこのキリストへの感謝と愛をもって、繰り返し己が身と心を捧げて、献身の志を新たにしていくのです。ただ一度限りの完全なキリストの犠牲が捧げられたことを覚えつつ、今度は自分をキリストへの犠牲として捧げていくこと、それが聖餐にあずかることによって新たに決意されていきますように。