第14講 奉仕の必要

第14講 奉仕における信仰の成長

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

マタイ2540

1.奉仕はどうして必要なのでしょうか
 教会においては、奉仕がどうして求められるのでしょうか。奉仕はもちろん、神のためです。神のためにわたしたちは奉仕します。その通りなのですが、それでは神はわたしたちの奉仕を必要とされるのでしょうか。わたしたちの奉仕がなければ、神の働きはできないのでしょうか。答えは否です。実はむしろ奉仕は、まずわたしたち自身のためのものです。わたしたちの信仰が成長するために必要なのです。子供が成長するためには、必要な栄養が十分摂取されると共に、適度な運動が必要です。身体の成長だけではなく、心の成長も「遊び」の中で身につけていきます。多くの人との出会いや摩擦の中で子供は色々なことを学習し、心を成長させていきます。どんなに栄養を与えても、それだけで健全に成長するわけではありません。わたしたちの信仰も同じです。奉仕は、何より自分のため、自分の成長のためなのです。神はわたしたちの働きを必要とされる方ではないのに、わたしたちを用いてご自身の働きをしてくださいます。それは神がわたしたちを必要とされるというよりも、それによってわたしたちを信仰の成長へと促すためでした。

2.奉仕は教会の働きとそこに集う兄弟姉妹のためにも必要です。
 また、わたしたち一人一人の奉仕が、教会の働きのために必要なことは言うまでもありません。教会の働きを維持し、さらにそれを発展させていくためにも、わたしたちは奉仕をします。しかしそれはそこにとどまらず、わたしたちは自分が実際に奉仕をし、教会の働きに参与することで、いっそう教会の必要が見えてきます。教会の足りなさ、弱さ、様々な必要が見えてくるのです。そしていよいよ教会の弱さと足りなさと問題を引き受けながら、それを担っていく責任と自覚が生みだされていくのです。奉仕はわたしたちを傍観者・批評家にしません。

そこではまた、共に礼拝している兄弟の弱さと必要も見えてきます。ただ礼拝に出席するだけでは分からなかった、それぞれの兄弟姉妹の特性、性格、必要、問題、弱さなどが少しづつ見えてきます。奉仕なしのつきあいであるなら、この世の人と同じように、程々につきあって、後は無関係の態度をとるでしょう。しかし奉仕の中で兄弟に出会い、その必要と弱さを知るとき、私たちは表面的なおつきあいでその兄弟と関わろうとしないはずです。その兄弟に対する痛みと関心と愛が生み出されてくるからです。奉仕をもってその兄弟に関わるときには、その兄弟の問題と弱さを自分の事柄として引き受けようとする愛と自覚が生み出されます。何より、これまで自分のことで頭が一杯で、他の人を顧みる思いもなく、自分の殻の閉じこもって自分のことばかり考えてこうしてわたしたちは、奉仕によって、奉仕を通し他者と関わることで、自分自身が変えられていきます。人の痛みが見え、他の兄弟の悲しみが見えてくる、そしてそれを真実に分かちあおうとする者に変えられていくのです。その時、わたしたちは真実に、自分たちが信じ仰ぐ「神」を知るようになります。「互いに愛しあいましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(1ヨハネ4章7、8節)

3.奉仕はどのようにしたら良いのでしょうか
 奉仕に対する優先順位は、奉仕の内容そのものにも関わってきます。自分の好む奉仕は喜んでするが、気にいらない奉仕には関わろうとしないなら、奉仕に対する考え方を考え直す必要があります。自分の教会に対する自覚と責任は、他の人がしようとしない奉仕へと目を向け、喜んでそれを担う者としていきます。苦手な奉仕でもそれをうまくやる努力をし、気乗りのしない奉仕でもそれを楽しく担おうと工夫するでしょう。自分のしたいことをするのが奉仕ではありません。様々な仕事や用事がある中で、限られた時間を主に捧げることが奉仕ですから、一日や一週間の時間の使い方が変わってくるはずです。また自分の教会での奉仕と働きを優先することが大切です。対外的な奉仕や他の集会に忙しくして、自分の教会での奉仕がなおざりにされているのであれば考えものです。奉仕は、自分の教会に対する責任と自覚の中で、果たされるべきものだからです。そうして教会における自分の位置づけがきちんと確保されることが大切です。宙ぶらりんの教会生活は面白くないし、健全でもありません。自分の席が教会にあること、そうしてしっかりと教会に組み込まれていくことで、教会も建て上げられ、自分もその「生ける石」となって成長していくのです。そうやって自分の教会の責任を引き受け、用いられていくことが、教会に対する責任と自覚をさらに深めていくのです。

4.奉仕における喜び、「天に宝を積む」
 奉仕の喜びには、自分がしたいことをする喜び、自分が活躍し用いられる喜びがあります。それらの喜びも大事ですが、それが自己満足的なものに陥っていないかどうかは吟味する必要があります。それが自分を喜ばすためのものでしかないなら、問題です。奉仕の喜びは、本来仕える喜び、主の喜びを喜ぶ喜びであり、隣人が喜ぶことを喜ぶ喜びです。喜びは分かちあうものです。奉仕によって、主が喜んでくださることを願いながら奉仕する、それが大切ではないでしょうか。主の喜びを我が喜びとする、そのような奉仕でありたいと思います。しかしそのことが、結果的にはわたしたち自身の喜びともされることは感謝です。主の喜びを喜ぶと言っても、実感が湧きません。しかしやはり奉仕によってわたしたち自身も、奉仕する楽しさと用いられる喜びを味わうことが許されているのです。奉仕によってわたしたちは、「天に宝を積む」ことになります。「彼らの行いは彼らについていく」(黙示録1413節-新改訳)とあるように、やがてわたしたちは奉仕によって報いを受け、主からお褒めの言葉をいただくことでしょう(マタイ25章)。そのことを期待しつつ、今与えられた責任を、喜んで担っていきたいと思います。

5.奉仕の具体層-個別の奉仕、献金、祈り
 「奉仕」とは、教会での個別の具体的な働きや責任、仕事や頼まれてする働きだけとはかぎりません。新しい人の隣に座り世話をすることも、悩んでいる兄弟に声をかけ励ますことも、相談に乗ったり便宜を図ることも奉仕です。玄関のゴミに気づいて拾うことも、主に対する立派な奉仕です。そこではわたしたちがいつも主に対して、どのような心、姿勢であるかが明らかにされるのです。何かをしたしないの問題なのではありません。主に対する姿勢が、形となって現われるのです。奉仕はさらに、具体的な行動だけではなく、色々な働きや必要を覚えての「献金」としてもなされます。自分にできる範囲を越えて成されている様々な働きと必要のために、わたしたちは「献金」によって参与し、奉仕することが出来るのです。さらに大切なのは、「祈り」です。直接具体的に話したり働きかけることが出来なくても、その人や働きを覚えて祈ることが出来ます。祈りは、教会に与えられた「祭司」としての重要な務めであり、それこそ第一の奉仕です。様々な必要を覚えて執り成す働きは、最も直接に神に働きかけ、神に働いていただく奉仕です。

ある人は「一生を終えて後、我々に残るものは、我々が集めたものではなく、我々が与えたものである」(ジェラ-ル・ショルダン)と語りました。自分のため、自分のためと自分に生きる人生は、虚しいです。虚しさにおわらない人生、そのために神はわたしたちを神の働きへと召し出し、神と隣人に生きる人生という使命を与えてくださったのでした。わたしたちに奉仕が与えられたのは、どこまでも自己中心に生きるわたしたちが、その自分という殻から解放されて、生き甲斐のある、喜びのある人生に生きるためでした。虚しさにおわらない人生、そのために神はわたしたちに奉仕を与え、使命に生きる人生へと召しだしてくださったのでした。この神の憐れみと祝福を覚えて、その神の召しに応えていく人生としていきましょう。