第13講 礼拝を守る

第13講 礼拝を中心とした教会生活

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」

ローマ1017

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

マタイ4章4節、申命記8章3節

1.最善を尽くして教会の礼拝を守ること
 キリストの僕としてふさわしく生きるためには、「聖霊の恵み」が必要です。その聖霊の恵みとは一体なんでしょうか。それは「御言葉」です。語られる御言葉としての聖書朗読と説教、そして見える御言葉としての聖礼典(洗礼、聖餐)です。それが聖霊と共に働いて、わたしたちの信仰の養いとなるのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4章4節、申命記8章3節)この神の言葉が証し、わたしたちに提供されるもの、それはイエス・キリストご自身です(ヨハネ5章39節)。人を生かす生命の神の言葉(ロゴス-ヨハネ1章1-3節)とはキリストのことであり、この方がわたしたちの「生命のパン」なのです(ヨハネ6章3551節)。ですからわたしたちは、この方を食さなければなりません(5356節)。このキリストが満ち充ちて共におられるところこそ、教会です(コロサイ1章23節)。わたしたちは教会につながり、そこで語られるキリストの言葉にあずかることによって、信仰が育まれ、成長していきます。わたしたちは自分の信仰が神の御心を知るために、また御心に適った歩みをして成長していくために、教会につながり、そこでの礼拝と集会にできる限り出席することが大切です。教会と、その中心である礼拝とは、キリストが臨在されるところです。わたしたちは、キリストが共にいてくださる臨在を求めて、「最善を尽くして教会の礼拝を守」り、自分の信仰の成長と祈りによる奉仕のために祈祷会を守りましょう。
2.礼拝の中心-「キリストの臨在」は「み言葉と聖霊による臨在」
 礼拝の中心とは、キリストの臨在、生けるキリストが、今ここにわたしたちと共にいてくださり、わたしたちと交わりを持ってくださるということです。そしてそのために主は、わざわざおいでくださるのですから、そのことへの期待と感謝と畏れをもって礼拝はささげられるべきです。それではキリストは、具体的にはどのようにしてわたしたちの礼拝に臨在してくださるのでしょうか。それは御言葉と聖霊によってで、この両者は切り離すことができません。

 ア.ロゴス(言葉)なるキリストの臨在
 キリストはロゴス(言葉)なる方です(ヨハネ1章1-18節)。この天地を創造された言葉(コロサイ1章1517節)、真理の言葉、神を明らかにされる言葉です。信仰は「キリストの言葉」によります(ロ-マ1017節)。この言葉こそ、わたしたちを生かす「生命のパン」であり(マタイ4章4節、ヨハネ6章3258節)わたしたちを養う糧です。キリストは、その生命のパンとして、礼拝に臨み、わたしたちはそれをかみくだき、食することで、養われていくのです。御言葉と聖餐がそれです。

 イ.真理の霊によるキリストの臨在
 しかし聖書の御言葉と聖餐とは、どちらも信仰の目をもって聴きまた見なければ、そこにキリストの臨在を仰ぐことはできません。聖書の言葉を何万編も聴き、またどれほど学びを積み上げても、それで神を知り、キリストにであることはできません。信仰のない人には、聖書の言葉も、聖餐も全く無意味なのです。それは聖霊がその心を開き、その意味を悟らせてくださらなければ、それによってキリストへの信仰に至ることはできません。聖霊だけが、わたしたちにキリストを知らしめる真理の霊なのです(ヨハネ1426節、1526節、16章8、13節)。御言葉に聖霊が共に働いてくださることで、初めてわたしたちは聖書の真の意味に至ることができるのです。そして真の礼拝とは、「霊と真」によってなされるものです(ヨハネ4章24節)。真理とは、聖霊のことですから、真の礼拝は聖霊によって成り立つというのです。わたしたちが全身全霊をもって神を礼拝できるためには、この聖霊の助けと働きがあるのです。

 礼拝における中心的な出来事は、今ここにキリストが臨在してくださり、そのキリストの臨在を御言葉と聖霊によって示され、悟らせられることです。そのためには、ここに聖霊が豊かに注がれることを求める必要があるのです。聖霊が私たちの心を開いて、今ここにおられるキリストに出会わせ、キリストを仰ぎ見、キリストの言葉を悟ることができるように、そして信仰の目を開いてくださるということを求める必要があります。そしてかたくなな石の心を、聖霊が砕き、神に従う肉の心を与えてくださるように求めることです。そこで大切なのは、「主よ、お話ください。僕は聞いております」(サムエル上3章10節)という、「聞き従う」心の姿勢です。

3.礼拝における二つの流れ-「聞く」ことと「従う」こと
 ですからこの「御言葉への聴従」こそが、礼拝における本質的な姿勢です。そこでそもそも「聞く」とはヘブル語では「従う」こと、それに応答することと切り離すことができません。聖書では、聞くとは、「聞き従う」ことです(ヤコブ1章22節、マタイ7章24節)。礼拝でも、この二つのことが切り離されることなく、二つの流れとして表わされています。つまり神からの語りかけと、それに対する人間の応答として、礼拝が為されているわけです。「神から人へ」と「人から神へ」が礼拝の要素として示されています。「招き(神)」-「罪の告白(わたしたち)」-「罪の赦しの宣言(神)」-「賛美、信仰告白、祈り(わたしたち)」-「御言葉(神)」-「祈り、賛美、献金(わたしたち)」-「祝福と派遣(神)という具合です。こうして礼拝は、神からの招きで始まり、神からの祝福と派遣で閉じられ、最後まで神からの働きかけと主権的恵みによって貫かれているのです。「立つ」とか「座る」とは、それに応じて為されます。神からの働きかけに対して、わたしたちはそれに従い、聞く姿勢で「座り」ます。そしてわたしたちからの感謝の応答として「立つ」のです。このように礼拝は、神からの働きかけとわたしたちの応答という、ダイナミックな二つの流れが交差するようにして頂点を迎えます。

 礼拝の中心、その頂点は何か、それは聖書朗読とその説き明しである説教です。神の御言葉が語り聞かされるところ、それが礼拝の中心なのです。ですから聖書朗読こそ、最も細心の注意を払って為されなければならない務めであり、またわたしたちも、そこで読み聞かせられる神の御言葉に、最大限の注意を払って、「聞く」べきなのです。わたしたちは礼拝において、何よりもまず開かれていく聖書の言葉に最大限の注意を払って心を開き、それに「聞き従う」思いをもって「聞く」者として神を礼拝していきたいと思います。それこそ神の求めたもう真実な礼拝なのです。