第12講 教会による成長

第12講 教会につらなり信仰を養う

「わたしにつながっていなさい。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」

ヨハネ15章4節

1.教会に連なることでの信仰の成長
 わたしたちは「聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを決心し約束し」ました。しかしこの「キリストの僕としてふさわしく生きる」ことは、一体どこで知るのでしょうか。自分ではふさわしく生きているつもりでも、それが確かにそうであるかを測る基準が必要です。そうでないと自己流の信仰になるばかりか、自分本意な信仰、自分勝手で自己満足的な信仰、さらには全然神の御心からかけ離れた信仰となってしまいます。盆栽の木が形良く成長する、あるいは野菜が多くの実を結ぶためには、刈り込みや手入れ、そして矯正が必要です。正しく健全な信仰に成長するためには、正しい指導がなされることが必要です。さらにわたしたちは一人でその信仰を保っていくことはできません。矢は一本だと簡単に折られてしまいますが、三本束ねれば折るのは難しくなります。一本の薪はすぐに消えてしまいますが、薪の束の中にある限りいつまでも燃え続けることができます。信仰の炎も同様です。神はわたしたちの弱さと身勝手さを十分承知の上で、そのために教会を建てられました。それは一人では弱いわたしたちが、教会の交わりの中で育まれ、成長させられていくためです。

 主は「わたしにつながっていなさい。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15章4節)と言われました。キリストに信仰的に結びつけられることで、信仰の生命が注がれ続け、実を結び続ける信仰となるのです。ところでそのように信仰においてキリストと結び合わされることは、具体的には「キリストの体である教会」につながることによってなされるのです。そして教会にこそ、わたしたちの信仰を生まれさせ、養い、成長させるに必要な一切があるのです。わたしたちは教会から離れては、自分の信仰を正しく健全に維持し、成長させていくことができません。「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブライ1025節)と勧められるとおりです。

2.教会はどうして必要か
 教会はどうして必要なのでしょうか。カルヴァンは教会を「神がわたしたちをキリストとの交わりに招き、そこにとどめおかれる外的手段ないし支え」と考えました。それは「わたしたちの内に信仰が生まれ、かつ成長し、次第に前進して目標に達するためには、外部からの支えを必要とする」からで、神はこの「わたしたちの弱さに対する処置を講じるために、これらの支えをつけ加えられた」のだと。そしてカルヴァンによると「神ご自身が父でありたもう者たちにとって、教会は母」であり、「神はこの教会のふところのうちに、ご自身の子たちを集めることを欲したもう。それも彼らが乳呑み子であり、子供である間に限って、教会の働きと努めによって養育されるというだけでなく、成長した状態に達してもなお、教会から『母』としての配慮のもとに統治され、遂に信仰の究極の目標にまで達するにいたる」ためでした。こうして「わたしたちはこの母の胎内にみごもられ、この母から生みおとされ、この母のふところで育てられ、ついにこの母の指導監督のもとに見守られて、最後に、死すべき肉を脱ぎ捨てて、天使たちのようになるにいたる」のです。このように教会とは、わたしたちの弱さのために、神が備えてくださった「外的支え」なのでした。

3.聖霊が教会とそれにつらなるわたしたちを支える
 ここで「外的」支えというからには、「内的」支えもあるわけです。「内的支え」とは何でしょうか。それは聖霊です。聖霊が、わたしたちの心の内に働いて信仰を生みだし、内住して聖め、育て、支えてくださるのです。自分の信仰のためには、この聖霊だけでよいのでしょうか。信仰の内的支えのみの問題点は、信仰が個人主義化・精神主義化し、自己中心的・恣意的・我流の「くせのある」信仰になり、結局自分に都合の良い、自分好みの信仰と化してしまいます。自分を省みる鏡を持ちませんから、自己絶対化し、さらには奉仕や熱心さを信仰の尺度として、行いと業の信仰となっていってしまいます。信仰の外的手段としての教会や、教会の組織といった外的側面を否定し軽んじる人々は、そういう危険に陥ります。もちろん、それがどこまでも「外的」なものにすぎないということも確かで、外的ということは常に「内的」なものから生命を供給され続ける必要があることを忘れてはなりません。それを忘れて、内的生命を喪失し、形骸化した「抜け殻」と化してしまう危険があることにも注意しなければなりません。教会を生みだし、そこに絶えず生命を供給される「聖霊」が内住されなければ、教会は自らの力と生命の源を失った単なる人間的な、それも罪人の集団にすぎません。

4.教会は「交わり」の共同体
教会は、この世的な人間関係によって成り立つ村落共同体や、地縁、血縁によって結びつく自然的共同体ではなく、そういったこの世の因習や慣習、血縁や画一化による共同体でもなく、そういった共同体から一人一人が呼び出され、召し出されて、キリストにある新しい神の家族として結び合わされた新しい共同体です。ただ一緒に集まる烏合の衆ではなく、趣味のサ-クルというものでもない、目的と中心点をもった共同体です。「交わり」とは、聖書では「分かちあい」を意味します。単に互いになれ親しむとか、親愛の関係を持つということではなく、「一つのものを分かちあう」ことが、交わりです。キリストという一つの「生命のパン」を分かちあい、一人の神への信仰に生き、一つの聖霊という絆によって結び合わされていき、この交わりに生きる三位一体の神への一つの信仰告白と、この神の御名による一つの洗礼によって、この交わりへと入れられた「交わりの共同体」、それが教会なのです。

 ですから教会とは、この交わりの神との生ける交わりに生きる共同体であり、その交わりの中で相互に結び合わされ、交わりを形成していく兄弟との交わりの共同体であり、またその交わりは歴史的な教会、聖徒の交わりの中に生きる交わりであると共に、信仰を同じくする教会とのキリストにある交わりを志向する交わりでもあります。そうやって神と兄弟と聖徒との交わりの中で、交わりの完成である終末を待望しつつ、その交わりとしての「神の国」を広げていく神の救いの業と闘いに参与していく共同体なのです。ですから教会は、この世の中で孤立化することを許されません。なぜなら罪のこの世をも、この世にある人々をも、この神と兄弟の交わりへと引き入れていくことこそ、そうやって神の国(神との交わり)の完成へと近づかせていくこと、教会の使命だからであり、そのために教会がこの世の中に置かれているからです。こうして教会は、この神の生ける交わりをこの地上に広げていくための務めを担わされた、交わりに生きる「交わりの共同体」なのであり、わたしたちはこの「交わり」の完成のために召し出されたのでした。この「交わり」を完成させてくださるのは、わたしたちと神ご自身とを、そしてわたしたち相互を結び合わせてくださる聖霊なのです。