第12講 キリストの復活・昇天・再臨がもたらす益

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第12講 キリストの復活・昇天・再臨がもたらす益(問45~52)


問45 キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。


 第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死

によって、わたしたちのために獲得された義に、わたしたちをあずからせてくださ

る、ということ。第二に、その御力によって、わたしたちも今や新しい命に呼びさま

されている、ということ。第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりは、

わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。


問49 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。


 第一に、この方が天において、御父の面前でわたしたちの弁護者となっておられ

る、ということ。第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、というこ

と。それは頭であるキリストが、この方の一部であるわたしたちを、御自身のもとに

まで引き上げてくださる、一つの確かな保証である、ということです。第三に、この

方がその保証のしるしとして、御自身の霊をわたしたちに送ってくださる、というこ

と。その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座し

ておられる天上のことを求めるのです。


問52 「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどの

ように慰めるのですか。


 わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも顔を上げて、かつてわたしのために神の裁

きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその

裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は、御自身とわたしの

敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、選ばれたすべての者たち

と共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。


1.新しい生としての復活

 信仰問答は、キリストが復活によってわたしたちにもたらされたものが何であるか

を、三つの益にまとめています。それは第一に、「義」を獲得し、それにあずからせて

くださったとあります。「義」とは、簡単に言えば、神との正常な関係のことです。そ

れと対比するなら「死」とは、神との断絶なのです。それは罪によってもたらされまし

た。その罪が取り除かれたことで、人間は本来持っていた神との関係を、正常に戻され

たのであり、それが「義」ということです。神と正常な関係に戻されたことで、生命の

源である神御自身との交わりに入れられ、つまり神の生命に生きる者とされました。そ

れが第二のことで、これまで罪に「死んでいた」わたしたちは、神によって「新しい命

に呼びさまされている」のです。この新しい生命は、神の生命、神からの生命であっ

て、キリストを死者の中からよみがえらせられたのと同じ神の力が、わたしたちに働い

て、死んでいるわたしたちを生き返らせ、かつ今もその生命を持続させ、維持させてい

る生命です。この新しい生命とは、神との繋がりの中での生命であり、その神から離れ

ることが「死」です。神こそ生命そのものだからです。しかしこの神の生命とは、キリ

ストを死者の中からよみがえらせる力をもった生命であり、その同じ生命が罪に死ぬわ

たしたちを新しく生かしてくださり、新しい生へと生かしてくださったのです(ローマ

6章4~11節)。それはこれまでとは全く違った原理に生きる生であり、新しい目標、

新しい意味、新しい目的に向かって生きる新しい人生なのです。「神との生」に生きる

とは、「古い自分に死ぬ」ことです。ですからキリストと共に生き返ったわたしたち

は、もはや自分を「体の欲望に従う」生き方や「不義の道具」としての生き方を捨て

去って、自分自身を「義のための道具として神に献げる」(ローマ6章12~14節)ので

す。


 こうして神の生命にあずかり、キリストとの新しい生に生きる者とされたわたしたち

には、希望が与えられました。もはや死をもって終わる生ではなく、死によって中断さ

れる生ではなく、また死の恐怖におびえる生でもない、生命の希望に満ちた生です。キ

リストのよみがえりは、その希望の確かさを保証するものでした。これが第三のこと

で、キリストのよみがえりは、まずわたしたち自身もやがて終わりの日によみがえるこ

とが確かであることを保証します。わたしたちはその「担保」を、既に天に持っている

のです。しかもこのキリストにあるよみがえりの希望は、やがて終わりの日になって

やっともたらされるものではなく、既に今始められているのです。既にわたしたちは、

このよみがえりの生命に生きているのです。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に

対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。こ

のように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれ

て、神に対して生きているのだと考えなさい。」(ローマ6章10~11節)。キリストがよ

みがえられたとき、それを期待していた弟子は一人もいませんでした。むしろ彼らは絶

望にうちひしがれ、先の望みを全く失っていたのでした。よみがえりの知らせを聞いて

も、それを信じた者はわずかでした。それほど彼らは絶望に捉えられていたのです。そ

して逮捕や死を恐れて隠れ、主を否むほどでした。その彼らが変わったのは、主のよみ

がえりです。幻想でも幻覚でもない、よみがえりの主と出会ったことが、弱虫の彼らを

強くし、やがて信仰に殉じるまでになるのです。彼らを変えたのは、主のよみがえりの

生命でした。その同じ生命が、わたしたちをも捉えて、わたしたちを全く新しく造り変

え、新しい生へと押し出していくのです。今もうその生命に生きているのです。「だか

らキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去

り、新しいものが生じた。」(2コリント5章17節)。


2.わたしたちを執り成すために天に昇られた主

 「キリストは今どこにおられるか」それがここで問われている事柄です。キリストは

「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。そして

キリストがわたしたちと共にいてくださることこそ、弱く躓きやすいわたしたちが、こ

の世にあって信仰の道を全うしていける支えです。ところがその主は天に昇り、父の許

へと戻って行かれたのです。今はわたしたちの目の前にはおられないのです。それでは

あの約束は、一体どうなってしまったのでしょうか。しかし主が天にお帰りになったの

は、まさにこの約束を果たすためでした。主は、「わたしが去って行くのは、あなたが

たのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない

からである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16章7

節)と約束されました。そして「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし

て、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。・・・この霊があなたがたと

共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とも言われたのです(同14

章16、17節)。つまり主は、わたしたちと永遠に共にいてくださる聖霊をわたしたちの

許に遣わされるために、父の許に戻り、天を昇って行かれたのでした。そして、「わた

しは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」

(同18節)と約束されました。その時には、主はわたしたちをご自身のおられる天へと

引き上げ、迎え入れてくださるのです。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。

もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあ

なたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎え

る。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(同2、3節)と。

こうして主が天に昇り、父の許におられるのは、わたしたちのためであり、よりいっそ

う身近にわたしたちと共にいてくださるためでした。単に物理的にこの地上におられる

ことが、わたしたちと共にいてくださることなのではなく、それよりもさらに効果的に

共にいてくださるために、天に昇られたのでした。


 それは第一に、主がわたしたちのために父に「執り成し」をするためでした。「この

方が天において御父の面前で、わたしたちの弁護者となっておられる」(問49)ので

す。わたしたちは信仰の闘いの中で、周りを敵に囲まれ、窮することがあります。そこ

に主が共にいてくださったらと願うことがあります。しかしわたしたちは、まさにそこ

でわたしたちを弁護し、わたしたちの守りを父に強く訴えてくださる、強力な弁護者を

天にもつのです。最強の守り、支えである神御自身を動かして、わたしたちを守られる

ようにと執り成してくださるのです。「だれがわたしたちを罪に定めることができま

しょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右

に座って、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8章34節)。しか

も「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかった

が、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。イエスは永遠に

生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この

方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるのです、御自分を通して神に近

づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ2章17、18節、4章

15、16節、7章24、25節)。そこでの「執り成し」は、「地上での彼の従順と犠牲のい

さおし」によるものであり、そこで人間として「絶えず天にいますみ父の前に出」て、

「そのいさおしをすべての信者に適用」し、わたしたちに対するすべての訴えに答え、

わたしたちのために、日毎の失敗にもかかわらず平和な良心をもって、「はばかること

なく恵みのみ座に近づく」ことができるように、そしてわたしたち自身とその奉仕が受

け入れられるようにと、執り成しつづけてくださっているのです。


3.キリストの再臨は、わたしたちをあらゆる悲しみや迫害の中でも顔を上げさせてい

 最後は、昇天されたキリストが「神の右に座し、生ける者と死ねる者とを裁き」たも

うことの告白です。キリストが再びおいでくださることは、わたしたちを「慰め」「励

まし」「大胆にする」ものだと告白しているのです。なぜそう言いうるのでしょうか。

キリストの再臨は、わたしたちを「あらゆる悲しみや迫害の中でも顔を上げ」させて

いくとあります。そこでその悲しみや迫害の中にある者を慰めるものなのです。罪と死

を滅ぼし尽くした御力を持たれた勝利の主は、再び世においで下さいます。この方の再

臨は「ご自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる」(問52)ため、

神の正義に基づく公正な裁きと不当な苦しめにあった者の報復のためです。この世に

あって不当な苦境、悪評、刑罰に苦しめられ、しいたげられた者のために、神が正しく

その訴えを聞き、正義の報復をしてくださるのです。しかもその方とは「かつてわたし

のために神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださっ

た」(同)方ですから、わたしたちはこの神の裁きを恐れおののく必要はないのです。

「我々の出頭すべき審判者は、我々の弁護人であり、我々の訴訟を弁護するために引き

受けてくださったそのお方以外ではない」(ジュネーブ教会信仰問答、問87)からです。

つまりこのキリストの裁き、世の終わりの審判とは「我々の救いのために他ならない」

(同86)のです。主は「わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すな

わち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださる」(問52)ために、再臨されるので

す。これらのすべては、わたしたちの救いのためなのでした。信仰の迫害や苦難は、わ

たしたちを「神の国にふさわしい者とする」ためのものですが、そこで「忍耐と信仰を

示している」者たちにとっては、主がおいでくださり報いてくださることこそ、慰めで

あり希望です。なぜなら苦しみを受けている者には「休息をもって報いてくださ」るか

らです。ですから、世の終わり・終末とそれをもたらす主の再臨は、わたしたちにとっ

ての大きな希望なのです。その時には、主イエスが、「勝利の王としてやがて戻ってこ

られ、全世界を治めてくださる」ばかりか、わたしたちは、そこで「新しく創造された

世界」に、主と共に住むことになるからです。こうして信仰者は希望をもって祈ってき

たのでした。マラナ・タ(主よ、来てください)と。