第11講 わたしたちの代わりに死なれたキリスト

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第11講 わたしたちの代わりに死なれたキリスト(問40~44)


問40 なぜキリストは「死」を苦しまなければならなかったのですか。


 なぜなら、神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪

を償うことができなかったからです。


問41 なぜこの方は「葬られ」たのですか。


 それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです。


問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたち

も死ななければならないのですか。


 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であ

り、永遠の命への入口なのです。


問43 十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受

けますか。


 この方の御力によって、わたしたちの古い自分が、この方と共に十字架につけら

れ、死んで、葬られる、ということです。それによって肉の邪悪な欲望が、もはやわ

たしたちを支配することなく、かえってわたしたちは、自分自身を感謝のいけいにえ

として、この方へ献げるようになるのです。


問44 なぜ「陰府にくだり」と続くのですか。


 それは、わたしが最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。すなわ

ち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂におい

て忍ばれてきた、言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みか

ら、わたしを解放してくださったのだ、と。


1.わたしたちの死を死なれたキリストの死

 キリストはわたしたちと同じ苦しみを味わってくださり、その苦しみはわたしたちの

ためのものであり、またわたしたちの苦しみそのものを取り去るための苦しみであった

ことを見ていきました。わたしたちの苦しみの根っこにあるもの、それが罪ですが、そ

れがもたらす報酬、あるいは最大の苦しみとは、「死」です。わたしたちの人生に

「死」がある、この事実こそ、どんな楽しさをも吹き飛ばし、人生に暗い陰を投げ落し

ていくものです。「死」、それが自分の死であれ、家族の死であれ、それはわたしたち

にとって最大の苦しみをもたらし、いや苦しみそのものです。そして主が、あらゆる点

で兄弟たちと等しくなられたと言う時、それは「死」に至るまで同じになってくださっ

たということでした。主がわたしたちの苦しみを「体と魂」に負われたというとき、そ

れはこの最大の苦しみである「死」をも代わりに負われたということです。キリストは

わたしたちのために死んでくださった、それはわたしたちの罪を償うためでした。「キ

リストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して

くださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガ

ラテヤ3章13節)とパウロが語るとおり、主イエスが十字架(木)にかかって死なれた

のは、「この方がわたしの上にかかっていた呪いを、御自身の上に引き受けてくだ

さった」ということでした。「なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだから」

した(問39)。


 この「キリストの死」は、「わたしたちの死」を変えてしまいました。それはもは

や、自分の罪に対する償いなのではなく、「むしろ罪との死別であり、永遠の命への

入口」となったからです(問42)。しかしそれでわたしたちは死に対する恐れを乗り越

えたでしょうか。いえ、やはり死は恐ろしいものです。わたしたちの死を死なれたキリ

ストは、恐れなかったのでしょうか。いいえ、キリストさえ死を恐れました。死を前に

して、できることならそれが取り去られることを切に願ったほどです。それは主ほど死

を知る者はいないからです。死とは恐るべきものです。死は、わたしたちの最後にして

最大の敵です。主は、この死の恐ろしさを、その深淵において知っておられ、またそれ

を味わい尽くされたのでした。それが「よみにくだり」と使徒信条が告白する事柄で

す。主は「よみ」に死んでから行かれたのではなく、死ぬ前からそこに至っておられま

した。ゲッセマネの園と、十字架上での「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨て

になったのですか」との叫びは、まさに主が「よみ」の極みに達しておられたことを表

わします。主がこの地獄に至るまでわたしたちの代わりに行ってくださったことによっ

て、わたしたちはこの死と地獄の苦しみから救い出されたのであり、わたしたちは自分

がどのような試みと苦しみの中にあってもなお、わたしが受ける苦しみのうち、主が知

りたまわない苦しみはなく、主が通られなかった試みはないことを信じることができる

のです。そして主イエスが、これらすべてをなしとげてくださったのは、わたしたちを

永遠の死より解き放つためでした。主は死の恐ろしさの全てを味わい尽くされました。

それによってわたしたちの死は、もはや死ではなくなったのでした。だからわたしたち

は、「最も激しい試みの時」にも、次のように確信することができます。「わたしの主

キリストは、十字架上とそこに至るまで、ご自身もまたその魂において忍ばれてきた

言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、わたしを解放

してくださったのだ」と(問44)。


2.キリストの十字架の死によるわたしたちの古き人の死

 こうしてキリストの十字架とその犠牲の死によって、わたしたちの死が「罪との死別

であり、永遠の命への入口」となったのみならず、「この方の御力によって、わたし

たちの古い自分が、この方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる」時ともなり

ました。それによって、罪の奴隷であった古き自我が死に、葬られ、もはや自分を支配

することなく、キリストにある新しい命に生きる者とされたのです。肉体の死以前に、

わたしたちは既にキリストにあって霊的に死んだのであり、「生きているのはもはやわ

たしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられる」というようにされたのです

(ガラテヤ2章20節)。この事柄を表わすのが洗礼です。「わたしたちは洗礼によって

キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。わたしたちも新しい命に

生きるためなのです。わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生き

ることにもなると信じます。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、

キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていると考えなさい」(ローマ6章4、

8、11節)。それはわたしたちの「罪に対する死」と、「神のために生きる生」を表わ

しています。「古き自分の死」と「神にある新しい生」です。なぜ「古い自分」が死な

なければならないのでしょうか。それは「古い自分」が「罪に支配された体」「罪の奴

隷」「体の欲望に従う不義の道具」だからです。「わたしたちの古い自分がキリストと

共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならな

いため」であり、こうして「自分は罪に対して死」に「罪から解放」されたのでした。

「それによって、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、かえって

わたしたちは、自分自身を感謝のいけにえとして、この方へと献げるようになる」

(問43)のでした。


 こうしてキリストはわたしたちの「死」を変えてくださることによって、わたしたち

の「生」をも変えてくださいました。もはや死の恐怖におびえる人生ではなく、死の恐

れを乗り越え、希望のうちに歩む人生としてくださったのです。キリストの「死」は、

わたしたちの「生」をも変えました。そこに、意味と意義を与えてくださったのです。

もはや死の恐怖に支配される人生ではなく、希望のうちに死を見つめ、希望のうちに自

分の生と死を通る者としてくださったのでした。こうして「神にある新しい生」、つま

りわたしたちの生と死は、「生きている人々が、もはや自分自身のために生きるのでは

なく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」(2コリント5

章15節)ためのものであり、こうして「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、

死ぬとすれば主のために死ぬ」(ローマ14章9節)者として、これからの人生を歩んで

いくのです。このようにわたしたちがキリストにある新しい生命に生きる者となるため

に、主は死んでくださったのでした。だから「自分自身を死者の中から生き返った者と

して神に献げ」(ローマ6章13節)ていこうではありませんか。


3.キリストに依り頼んで生きる

 まことの主とは、わたしたちの全てをまったく任せることができる、信頼しうる方で

なければなりません。またわたしたちの全てがその方のものとなったとき、初めて主と

呼ぶことができるのです。そして主イエスだけが、わたしたちの全てをおまかせできる

唯一の方です。なぜならこの方こそご自身をもって、わたしたちを罪の縄目から解き放

ち、買い取ってくださることで、ご自分のものとしてくださったからです。そしてわた

したちが主のものとされることにより、わたしたちは唯一の慰めを得るのです。生きて

いる時だけではない、死に赴く時においても力をもってわたしたちを支えうる慰めがあ

る、それはわたしたちが主のものであるということです。そのことにより、わたしたち

は主の確かな御手のうちに守られ、支えらていることを確信することができるからで

す。信仰問答では、生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰めは何かと問うて、「わたしが

わたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主

イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもって、わたし

のすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいまし

た。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちること

ができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるよう

に働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今

から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように

整えてもくださるのです」と答えます。


 これまで自分を支えてきた、その同じ慰めがどのような事態にあってもなお、同じた

だ一つの慰めでありうるかと聞くのです。生きているときだけの慰め、死ぬときの慰め

が別々にあるというのではなく、その両方を貫いて一貫して自分を支えうる「ただ一つ

の慰め」があるかということです。それはわたしたちがイエス・キリストのものである

ということです。わたしがキリストのものとされている、すでにそこに慰めがあるとい

うのです。つまりわたしの慰めの根拠は、わたし自身のうちにはない、キリストのもと

にあるのです。わたしの慰めは、わたしからではなく、キリストから来るというので

す。キリストの確かさのうちにわたしが置かれている、そこにわたしの慰めの確かさも

あるのです。わたしがわたしのものではないという事実は、「わたしはわたし自身の主

人ではなく、わたしの所有物ではない。それゆえにわたし自身のための思い煩いも、わ

たしのなすべきことではない」ということであり、自分のための煩いや心配をする必要

はない、なぜならわたしはわたしのものではなく、主のものだからということです。つ

まり主がわたしのために思い煩い、心配してくださるからです(1ペトロ5章7節)。

「わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのも

のである」。ここにこそ、わたしたちのただ一つの慰めがあります。