第10講 わたしたちのために苦しみを受けられたキリスト

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第10講 わたしたちのために苦しみを受けられたキリスト(問37~39)


問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。


 キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対す

る神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。それは、この方が唯一のいけに

えとして、御自身の苦しみによって、わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放

し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを、獲得してくださるためでし

た。


1.わたしたちのための苦しみ

 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という告白についての解説です。ここで

はまず、キリストの苦しみの意味を問います。キリストもわたしたちと同じ苦しみを受

けられた、それはわたしたちにとって大きな慰めです。わたしたちが辿る人生の道行き

でのあらゆる苦しみを、この方は既に知っておられるのであり、その方を人生の同伴者

として歩んでいくのですから、なんと心強いことでしょうか。わたしたちは自分の人生

の確かな道案内であり、深い同情者、理解者を持つのです。主は、その地上の全生涯、

つまりこの世のご生涯の全ての時において苦しみを受けられ、およそ人が経験し味わう

ところのあらゆる苦難を通ってくださったのであり、主が「すべての点で」わたしたち

と等しくなられたというとき、そこでわたしたちは、今自分が抱えている苦しみの本当

の理解者であり解決者である方を持っているのです。主の苦しみは、そのご生涯全体に

渡るものであり、しかも「体と魂」とにおける全人的なものでした。しかしキリストの

苦しみはそれだけではなく、わたしたちのための苦しみでもありました。この方の苦し

みは、わたしたちのこの世での苦しみの根源である、わたしたち「全人類の罪に対する

神の御怒りを体と魂に負われた」のであり、こうしてご自身を「唯一のいけにえとし

て、ご自身の苦しみによって、わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わた

したちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした」(問

37)。つまりそれはなによりも、わたしたち人間の罪を贖うためのものでした。神の前

に罪を犯したのは人間です。人間が自分の罪を償わなければなりません(問11、12、

14、16)。その人間の罪を贖うために、神の子が人間となり、その罪の一切をご自身が

引き受けることによってわたしたちを罪から救い出してくださったのです(問15、

18)。


 主イエスの生涯は、まさに苦しみと十字架と死とに要約されます。苦しみ、十字架に

かけられ、死ぬためにこの地上にお生まれくださった方こそ、主イエスに他ならないか

らでした。主イエスは、その苦しみの道を歩み抜かれることにおいて、全ての人の救い

主となられたのです。人の苦しみを自らが背負うことによって、人を生かすためでし

た。キリストの苦しみとは、それぞれが自分の人生を、苦しみを持って辿るわたしたち

の良き理解者であるだけではなく、その苦しみそのものを取り除くための苦しみでもあ

りました。わたしたちのこの世での苦しみの根源である「わたしたちの罪に対する神の

怒り」を体と魂に負われるため、そしてわたしたちの喜びと希望の根源である、神の恵

みと義と永遠の命とを獲得してくださるために苦しまれたのです。わたしたちの犯した

罪が二重であったように、わたしたちのためのキリストの苦しみも二重の苦しみであ

り、それによって獲得して下さった恵みも二重です。つまりキリストはまずわたしたち

の罪に対する「刑罰の除去」のために苦しまれ、さらには罪によって失った「永遠の生

命を獲得」するためにも苦しんでくださったのでした。これによって苦しみの根っこを

取り除かれたと同時に、わたしたちの生活に暗い陰を投げ落す不安と、生命をおびやか

すものを除き去ってくださったのでした。こうしてキリストはわたしたちの苦しみを共

に担ってくださる方であるだけではなく、その苦しみそのものを取り除いてくださった

のです。主イエスは、わたしたちの身代わりとして、そのご生涯と、特に十字架の死に

おいて、わたしたちの罪に対する神の怒りを受けてくださったのでした。それによっ

て、わたしたちは神の厳しい裁きを受けなくてすむようにされたのでした。


2.身代わりとしての裁判と死

 聖書は、主イエスがポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられたことを報告しま

す。それは、罪のない神の子が法廷で裁判を受け、その判決によって死刑を宣告され、

それに基づいて処刑されたということです。神の子は単に私刑(リンチ)によって殺さ

れたのではなく、法律に基づく裁判で、法廷によって処刑されたのです。それによっ

て、神の子がわたしたち人間の罪を担い、その身代わりになって処罰されたことが明ら

かになるためでした。このことは、何を意味するものなのでしょうか。1970年3月、

「よど号」と名付けられた日本航空の旅客機がハイジャックされた事件がありました。

犯人は乗員・乗客を乗せたまま北朝鮮に行くことを要求しますが、当時の運輸次官が乗

客の代わりになって、飛行機に乗り込みました。幸い運輸次官も乗務員も無事に日本に

帰ってくることができたわけですが、そのとき運輸次官が乗客の身代わりとなって北朝

鮮に行きました。彼の身代わりによって、乗客が助かったわけです。この箇所は、その

ような身代わりによる救いということを教えています。主イエスがピラトの下で裁判を

受け、十字架にかけられて処刑されたのは、実はわたしたちの身代わりであったという

ことです。本来ならわたしたちが自分で受けるべきであった自分の罪に対する裁きと刑

罰を、主イエスがわたしたちの身代わりとなって受けてくださり、身代わりとなって死

ぬことにより、わたしたちは救われたということです。このことを「贖い」と言いま

す。この「贖い」という言葉は、もともとは、賠償金を支払うことで、人質を解放した

り、奴隷を解放する言葉に由来しました。わたしたちは罪の奴隷、死の奴隷とされてい

ましたが、その奴隷状態から解放するために、罪から、死から解放されるための賠償金

を、神ご自身が支払ってくださった、そのことによってわたしたちは、奴隷ではなく

なったということです。この賠償金を支払い、償いを果たすことによって、そこから自

由にされることを、「贖い」というのです。ここに自分の犯した犯罪のために、刑罰と

して牢に入れられている人がいるとします。この人は、罪の刑罰を果たし終えるまで

は、この牢から出してもらえません。ところが自分の力では、その償いを果たすことが

できません。しかしそれを哀れに思った奇特な人が、その人の身代わりとなって牢に

入ってくれ、その人が果たすべき罪の刑罰を代わりに引き受けてくれた、そのことに

よって、牢に入っていた人は釈放されるのです。それがわたしたちに起こされたのでし

た。主イエスが、ピラトの前で裁判を受け、十字架で処刑されたのはそのためでした。

それは罪の刑罰を身代わりに引き受けることで、それを取り除くということでした。主

イエスは、十字架の上で、本来ならわたしたち自身が受けるべき、自分の罪の対する刑

罰を、代わりに引き受けてくださったことで、わたしたちに対する刑罰は終わったとい

うのです。


 神は罪を犯したわたしたち人間を大目に見てはくださらないのでしょうか。問10で

は、「神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか」との問いに、

「断じてそうではありません。それどころか、神は生れながらの罪についても、実際

に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって、この

世においても永遠にわたっても罰したもうのです。それは『律法の書に書かれている

すべての事を、絶えず守り行わない者は皆、呪われている』と神がお語りになったと

おりです」と答えました。そして聖書は繰り返し、わたしたちがやがて神の前に立たさ

れて、それぞれの行いに応じて裁きを受けることが記されています。「人間には、ただ

一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9章27節)、

「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を

住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(2コリント

5章10節)、「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任

を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪あ

る者とされる」(マタイ12章36、37節)、とあるように、わたしたちは死後に神の前で

裁きを受けることになっているのです(黙示録20章11~14節)。この裁きには、一人の

例外もありません。キリスト者も、この裁きの前に立たされていくのです。そこでわた

したちが覚悟しなければならないことは、そこでわたしたちは明らかに有罪判決を受け

るということです。そして有罪の判決を受けた者は、永遠の滅びへと引き渡されていく

ことになるのです。


3.神の子の身代わりによる裁判と処刑

 主イエスが、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、裁判を受けられたということ

は、実はそのことを意味していました。ここでは何度も主イエスに罪はないことが明ら

かにされながら、しかも有罪判決を受けて、処刑されるということです。罪のない神の

子が法廷で裁判を受け、その判決によって死刑を宣告され、それに基づいて処刑された

のです。神の子はリンチで殺されたのではなく、法律に基づく裁判で、法廷によって処

刑されましたが、それは、神の子がわたしたち人間の罪を担い、その身代わりになって

処罰されたことが明らかになるためでした。このピラトの法廷は、神の法廷です。裁判

官は神ご自身であり、被告人席にはわたしたち人間が座らなければならないのです。と

ころが、何とその席に主イエスが座り、わたしたちの代わりに裁かれて罪に対する刑罰

を受けられたというのです!わたしたちが本来受けなければならない神の裁判を、主イ

エスが代わって受けてくださったということをはっきりと表わすため、主はピラトの法

廷に臨まれ、そこでの断罪に服せられたのです。法廷の裁判による有罪判決の処刑、そ

れが主イエスの十字架の死でした。この方が、「裁判官『ポンテオ・ピラトのもと

に』苦しみを受けられた」のは、「罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰を

お受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わた

したちを免れさせるため」(問38)だったのでした。主がピラトの前で裁判を受けられ

たのは、神の裁きの前に有罪であるわたしたちをこの方が代理して、わたしたちの代わ

りに有罪宣告を受けることによって、「天の審判の御座においてわたしたちを赦すた

め」なのでした(ジュネーブ問答、問57~59参照)。


 聖書は繰返し、主イエスは死に値する罪を少しも犯されなかったお方であることを告

白します。ピラト自身主が何の罪ももたれないことを承知していました。それでいてな

お、主に死罪を言い渡したのです。ここにおいて主イエスこそが、わたしたちの唯一の

救い主であることが証しされているのです。罪をもつ者は、自分の罪によって裁かれる

のであり、他人の罪の身代わりにはなれません。それができうるのは、唯一人罪をもた

れない主イエスだけなのです。このお方が、わたしたちの立つべき神の法廷の被告人席

にお立ちくださり、わたしたちの代わりに罪の判決を受けてくださったのです。主イエ

スの十字架、それは人間の罪に対する刑罰と、神の怒りと呪いのすべてを、罪のない神

の子が一切ご自身の身に引き受けて、わたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださ

り、わたしたちの代わりに裁かれた、その神の裁きの場です。「キリストは、わたした

ちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」

(ガラテヤ3章13節)。キリストは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死

ん」でくださいました(1コリント15章3、4節)。そして「十字架にかかって、自ら

その身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義

によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはい

やされました」(1ペトロ2章24節)のでした。だから聖書は、「この方こそ、わたした

ちの罪、いやわたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ2

章2節)だと告白するのです。ですから、このことによってわたしたちは、「この方が

わたしの上にかかっていた呪いを、御自身の上に引き受けてくださったことを、確信

する」ことができるのです(問39)。